第26話

 摩耶さんと関山のクソ野郎がいる廃倉庫にやってきた俺は、その扉を開けた瞬間途方もない安心感に包まれた。今の摩耶さんの様子を見る限りだと、手遅れになる前には到着出来たみたいだ。それだけは本当によかった。

 しかし、それだけだ。それ以外の要素に関しては……激しい怒りを覚えざるを得ない。

 まず何よりも摩耶さんの状態だ。とても手厚いおもてなしをしているとは思えず、彼女の手足はロープか何かで縛られていた。加えかなり雑に扱っていたのか、彼女の身体は綺麗と呼べるものではなかった。事情なんて関係ない、摩耶さんを雑にしているだけで、俺の逆鱗に触れてしまう。

 そして俺の怒りを生んでいる元凶とも言える存在……関山は、激しく俺を睨みつけている。とても平静を装っているとは思えない、大方俺がここまでやってくる可能性を加味していなかったのだろう。

 俺も改めて関山と視線をかち合わせる。それと同時にヤツから放たれる独特の甘い匂いを肌で感じ、思わず顔を歪ませてしまう。間違いない、これはインキュバスが発する特殊なフェロモン。ヤツがインキュバスである決定的な証拠であった。

「……クソが」

 つい小声ではあるが、そんな陳腐な悪態をついてしまう。だがそんなことを言うために、俺はここにやってきたわけではない。だから俺は目的の人物である摩耶さんに、再び視線を戻す。そして摩耶さんの身体を、集中力を高めながら注視した。

 今日も今日とて、危機的状況ではあるが摩耶さんはいつでも美しい……この真っ当な感情は、俺の恋心から芽生えたものだと思っていた。事実、今でもそれは変わらないと自負できる。だがそれが100%そうかと言われたら、違うと答える他なかった。

(やはりアイネの言う通り……摩耶さんは、サキュバスだ)

 改めて摩耶さんの姿を見て、俺はそう確信がついた。今まで何故気づけなかったのか、インキュバスとして恥ずべきことであった。

 関山もそうであるが……摩耶さんの身体から発する、脳みそからくすぐられる甘い香り。それも今思えば、サキュバスが発するフェロモンでしかない。同じ夢魔族である俺ですらくらっとしてしまう摩耶さんのフェロモンの濃さは、おそらくアイネにも匹敵するレベルだ。

 ただ摩耶さん自体、そのフェロモンを一切制御できていない。常に一定量のフェロモンを駄々漏れさせ、周囲を歩く男性の視線をかき集めていた。摩耶さんの美貌に惹かれたというのもあるが、彼女が異様に一目を集めるのにはそういう理由もあった。

 これもアイネからの指摘で知ったことであるが……もしかしたら摩耶さんは純粋なサキュバスではなく、夢魔族の血が混じった人間、俗にいうハーフなのではないか。そう言われた時は、頭上に雷落ちるくらいの衝撃が走った。

 だがそれならいろいろと説明がつく。摩耶さんが人間離れした注目をされることも、催眠魔法の制御が全くできていないことも、俺やアイネ、関山の正体を見破れないことも、全部だ。

 これに関しては、まだ俺の中でも受け止めきれていない。今まで美麗な人の子と思いアプローチをかけていた想い人に、サキュバスの血が混じっているだなんて。もちろんその確たる証拠はない、だが俺自身そうとしか思えない。だから内で渦巻く感情を制御するのは難しかった。

 しかし今は、摩耶さんとの今後の付き合い方を考える時間ではない。それは後でじっくりやればいい。今この時間は……どうしようもないクソ野郎を成敗する時間なのだから。

「……見つけたぞ、関山」

 自分でも聞いたことないような、怒りの含んだ声を発する。しかしそれに対して、関山が大きく動じることはなかった。

「……お前がここに来るなんて、想定外もいいところだ。外に配備していた手下どもは何をしている?」

「あぁ、あのバカみたいな男たちか? アイツらならアイネに任せてきた。どんなヤツらか知らんが、アイネに抗えるとは思えない」

「アイネ……あぁ、あの優秀で有名なサキュバスか。せっかくだから一発ヤってやろうと誘ったが断わられたのを、今でも覚えてるよ」

 その時のことを思い出したのか、少しだけ関山の表情に苛立ちが伺える。しかしすぐに冷静さを取り戻したのか、表情も元に戻る。

「まあいい。アイツらはどうしようもなく使えないが、足止めくらいにはなってるはずだ。あれと相まみえるのは些か分が悪いが、来れないなら好都合だ」

「……」

 ヤツの推察に対し、俺は一切の反応を見せなかった。ただその推察自体は間違っていない。確かにアイネは表にいた連中の対応を務めてくれたが、きっとその後のお楽しみがメインなのだろう。十数人くらいいたから、彼女が満足するまで楽しむにはかなりの時間を要する。

 だが問題ない。この窮地を俺一人の手で切り抜かなければいけないのだ。もしかしたらアイネもそれを見越して、無粋な真似を入れなかったのだろうか……ま、それは後で聞くとしよう。

 視界の中にいる関山を、俺は感情任せに睨みつける。冷静さを保つために理性的な行動を心掛けているが……さすがに我慢の限界だ。

「……拒否権はないが言わせてもらう。摩耶さんを離せ、そして二度と彼女に近づくな」

「ふん、馬鹿馬鹿しい。そんな無理な要求、呑めるわけが……」

「要求? 何勘違いしてるんだ……これは、命令だ」

 その瞬間、俺の口からは冷徹とも呼べる冷めた声が出る。俺自身、そんな声を聞くのは初めてだ。しかしそれがどんな状況を意味しているのかは、自覚するまでもない……完全に、本気でブチ切れ、堪忍袋の緒が切れるほどに理性を手放した時だ。

 だがそんな俺に対し、関山が怖じ気つくことはない。格下を見ているかのような嘲笑いを見せながら、ヤツは小馬鹿気味に問いかける。

「それこそ滑稽な命令だ。俺がそんなの聞くと思うか?」

「聞くわけねぇわな。でも無理やりでも従ってもらう。俺にはその力がある」

 甲に失烙印が刻まれている左手を握り締めながら、俺はそう宣言する。確かにただの人間であれば、何もできずにやられていたところだろう。しかし俺ははぐれとはいえ、夢魔族の一人だ。従わないのなら、無理やりにでも従わせるまでよ。

「はっ! はぐれインキュバスの分際で、この俺に命令できると思うなよ!」

「はぐれインキュバス、というのならお前も同じだろ、印なし」

「お前みたいな失烙印持ちのクズと一緒にするな! 俺はな、力のあるインキュバスだ。それをおめおめ忘れるな!」

 俺にバカにされたのが勘に障ったのか、ヤツは威勢よく自らの力を誇示した。確かにはぐれ扱いされた夢魔族でも、失烙印持ちと印なしでは大きく違う。立場の危うさも、そして本来持ちうる力もだ。

 根本的に、印なしは人間界で犯罪を重ねたケースが多い。その場合、高確率で催眠魔法等を使っているのは目に見えている。その実力も生半可なものではないのだろう。

 だがそんなの関係ない。例え相手がアイネレベルの夢魔族であろうと、俺が引き下がることはない。摩耶さんを連れ戻す、その目的を果たすまで引き返すわけにはいかなかった。

 それに俺の中では、絶対に譲れないものもある。

「知らねぇよ。お前が力のあるインキュバスかどうかなんてどうでもいい……お前は人間社会には全く適応できてない、正真正銘のはぐれだ。だからさっさとお縄につけ」

「そんなの聞けるかよ! だいたい、お前はどうなんだよ、失烙印持ちのクズが! お前はこの社会に適応できてるって言えるのか⁉」

「何を当たり前のことを聞いている……できてないに決まってるだろ」

 はっきりと、迷いのない口調で俺はそう言い切った。予想外の答えだっただけに、ヤツの表情が固まっている。それはそれで滑稽だったが、俺は気にせず自らの気持ちを吐露する。

「いいか、よく聞け……この世界に、人間社会に溶け込み、完璧に順応出来ている夢魔族なんてな……いねぇんだよ」

「なにっ……!」

「考えてもみろよ……魔法なんてもん使ってる時点で、人間社会に順応していない確固たる証拠なんだよ。本当に人間社会に溶け込むって言うのなら、魔法なんか頼るべきじゃない。そういった意味では、お前も、アイネも俺も、この世界に適応できていない」

 残念なことに、これは認めざるを得ない。人間社会の恋愛観からして、夢魔族の魔法はあまりにも卑怯すぎる。本来踏むべき段階を全てすっ飛ばして、相手の心を射止めるのだ。これを卑怯と言わずなんと呼べばいいか、俺にはわからない。

 それを加味するとするならば……俺たちは確実に、この人間社会に順応していない。少なくとも俺はそう解釈する。まあ無理して理解を得てもらおうとか、そんな気はさらさらない。

「はっ! そんなの詭弁だ! 人間社会に溶け込めていない? ならなんだ? 人間らしく振舞えってか?」

「そうだ」

「馬鹿だ! ここに馬鹿がいるぞ!」

 容赦のない侮蔑と汚らしい笑い声を響かせる関山。よほどツボに入ったのか、笑いが収まる様子はない

「人間らしく振舞うくらいなら、それこそお縄についた方がマシだ! 俺はな、インキュバスなんだよ! その特権を活かさないで生きていけるかよ!」

 俺の言葉を一ミリも理解できないようで、関山は怒気を含んだ声で反論する。言っていることはめちゃくちゃであるが、あくまでもそれは人間としての感性だ。夢魔族からしたら何も間違っちゃいないし、むしろ俺がおかしいまである。

 そんなことはわかっている。俺がインキュバスらしくないことなど、他の誰よりも理解している。だが俺はもう決めたのだ。

「……お前がどう思おうが関係ない。だが俺は、俺が決めた生き方を貫き通すだけだ」

「生き方ぁ? お前みたいな雑魚インキュバスが何を決めたと……」

「人間らしく、人間として生きることだ」

 間髪入れずに、俺はそう答える。もう決めたことだ、恥なんてどこにもない。

「確かに俺はインキュバスとしては落ちこぼれかもしれない。じゃなきゃはぐれになんて堕ちやしない。だがもういいんだ……インキュバスにこだわるのは、もうやめた」

 どうせ夢魔族としての力をフルに活用しても、この様だ。結局魔法の力などでは、人の本当の気持ちというのは動かない。それだけわかれば十分だったし、決断するいいきっかけにもなった。

「インキュバスであることはもう変えられない。それは認める……だから俺ははぐれインキュバス『ユーマ』として、人間『夢宮遊馬』として、これからの人生を全うするだけだ」

 できる限り人間の気持ちを持ち合わせながら、人であるという認識で生きていく。それがどれほど難しいことなのか、俺にも検討がつかない。だがやると決めた以上、腹を括る。それに抵抗感というのは微塵もなかった。

「だから、そういう生き方をしていくと決めた俺は、こう宣言する」

 覚悟のこもった口調と共に、俺は関山に対して指を差す。そしてありったけの「怒」の感情を含んだ声で、俺はヤツに宣告してやる。


「俺はお前を、一人の人間として、絶対に許さない! そして俺は……一人の人間として、摩耶さんを助けるんだ‼」


 例えどんな事情があろうと、もう何も関係ない。ヤツは俺の信条に障ることをした、そしてそれはこの人間社会においても許されざることだ。ならその悪を粛清することこそが、人間として正しく生きる第一歩となることだろう。

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