地下サイゼリヤの地政学

さわだ

地下サイゼリヤの地政学

夕方近く平日のファミレスでは客も少ないが、ときどき学生のグループが入って来ては、賑やかに楽しそうな笑い声を店内に響かせていた。

安いドリンクバーで家に帰るまでの時間をファミレスで潰すのは、ちょっと前までコロナ過で禁止されていた風景だったが世間は少しだけコロナ前の姿に戻り始めているようだった。

そんな若い高校生や中学生達の笑い声を同じくファミレス内で、たくさんの書類を机の上に置きながら書類仕事をしている中年の男が居た。

黒縁のメガネを掛けた男は少し贅肉が付いて丸く見える体型を隠そうともせずジャケットを脱ぎ捨ていて、ネクタイを緩めた姿は完全に仕事中の中年男性の姿だった。

四人掛けの壁際の席で、ドリンクバーから持って来たコーヒーと緑色のメロンソーダのグラスを横に置きながら、コピー用紙にメモや図を書き殴っていた。

店内に響く高校生達の笑い声を聞いて男は春になって学校が始まり、いよいよ学校に通って帰りに友達と喋って帰る日常が戻って来たのかと、池内勇利(いけうちゆうり)は思わず楽しそうだなあと目の前の仕事のレポート作業に嫌気がさして来たので思わず鼻を鳴らして笑った。

「なに急に笑ってるの気持ち悪い」

「あっすまない」

いつもだったら孤独な中年オジサンの卑屈めいた笑いで済んでいたのだが、今日は対面に座ってる当の学生さんが居ることを勇利は忘れていた。

目の前、対面に座るのは声を上げて笑っていた同じ高校生の女の子だった。

前に座る女の子は少し眉間に皺を寄せながら勇利を睨んでいた。

背格好は一般的な男性よりやや高めの勇利と同じくらいの目線で、女の子の真っ直ぐに勇利を睨み付ける。小さな顔、長くて艶やかな黒髪、大きな瞳から放たれる嫌悪感に勇利は本当にあの笑顔の絶えない女子高生達と同じ歳の子なのかと疑問に思った。

大人びた顔立ちで、目鼻がハッキリとしていて目が合うとハッとさせられる美人には違いないが、その視線は鋭くまるで肉食獣のような威嚇、自分のテリトリーに入ったら殺すぞという明確な意思表示をされているような気がした。

遠くで楽しそうに友達と喋りあってる女子高生がほ乳類の群体で生活する動物に見え、、同じような制服を来てる目の前の彼女は確実に狼に見えた。

勇利はそこまで考えてでも狼も群れを作るよなあと思ったので、やはり虎かなにかの方が例えとして良かったのかもしれない。しかし虎よりも目の前の女の子は目鼻が鋭くシャープな印章が狼に近いのかも知れない。

「なに私を見てるの?」

女の子は少し上半身を引いた。

「あーなんかやっぱりファミレスって独特の緩衝地帯だなあと思ってね」

「なにそれ、意味わかんない」

目の前の女の子を見てるのは事実だったのだが、若干見取れていたというのも相手に不快感を与えるのかもしれないという中年の卑屈から勇利は話しをそらした。

「ほらこのファミリーレストランってのは日本にしかない独特なものだろ? 特にこのサイゼリヤという場所もなかなかないんじゃ無いかなってふと思ったんだ」

「そうなの?」

「ああ、普通海外でレストランって言ったらやっぱりフォーマルな服装で友人や恋人と行ってコースで料理を楽しむ場所だけど、このファミリーレストランっていう業態は学生だろうが僕のような孤独なオッサンだろうと誰でもが普段の服装で入れて、このサイゼリヤのように極めて安価に提供される良質な料理を楽しんで短時間で席を立つのもヨシ、のんびりとこうやって仕事したって怒られない。君みたいにノートを広げて勉強していてもいい、極めて開かれていて公共性に富んだ素敵な場所だとおもわないかい?」

勇利自身も極めて適当な事を言っているなあと思いながらも、しゃべり出したら止まらなかった。

「そう、様々なカテゴリーの人間達が集まる緩衝地帯としての役割も兼ねている、希有な場所だなあって思ったんだよ」

一通り勇利が一気に捲し立てて喋ると女の子は眉間の皺を解いて一瞬素の顔になった。

勇利は女の子の何も緊張してない顔ですら、なにか憂いのようなモノを感じた。

「意味わかんない」

そう言って女の子は手元にあるアイスティーのグラスを持って刺さっているストローを細い指で支えながら口を付けた。

「そういえばお婆ちゃんに会いにアメリカ行ったときもファミリーレストランって感じのお店は無かった」

「まあアメリカはファーストフード強いし、キッチン・ダイナーとかが一般的な食事処として機能してる感じがあるな、けどこのサイゼリヤみたいに気軽に家族で食事に来たりする場所ってのはあんまりないかもな」

「どうしてアメリカにはこういうお店無いの?」

「都市部に近いものはあるんだろうけど、チーズケーキファクトリーとかあるけど、うーん経済はあんまり得意じゃ無いからわからないけど、考察するに地理的要因もあるんじゃないか?」

「地理的要因?」

「ほら、このサイゼリヤは商店街にあるだろ? そもそも極論すれば「商店街」がアメリカにはない。一部の大都市を除けば完璧なモータリゼイション社会でどこに行くにも車が必要、こんなふうに学校帰りや会社帰りにふと寄るという需要が無いのも原因じゃないかな? 最初に言ったようにファミレスは普段着で気軽に訪れる事ができる場所。誰もが少しのお金を払えばゆっくりとできる場所でそこは規格化されて安価に食事を提供できるファーストフードと似てるが、食事だけじゃなくもう少し滞在時間が長くて、色々な層が空いた時間を埋めていく構造を維持できるくらい人が集中している場所がそもそも少ないのかも知れない、まあ他にも色々な要因はあるんだろうけどこういうコンパクトにまとまっているセントラルキッチン方式のレストランを大量出店ってのは少ないだろうなあ」

「ふーん」

興味があるのか無いのか、でも女の子は席を立たずに勇利の話を聞いていた。

「まあ日本の物価上昇がアメリカとかに比べて抑えられているというのもあるが、安価に安全な食にありつけるのは企業努力の部分もあるとはいえ、ここ数年海外と比べてもこの国は特殊な状況に置かれ続けているんだろうなあ」

「ユーリは本当になんでも知っているんだね」

呆れてるのか感心してるのか、女の子は勇利の名前を少しニックネームのように言う。

「いや、まあデタラメ言っているだけかもしれない」

「そうなの?」

「今の話しも根拠たるデーターの明示ができてない、あくまでも海外で自身が見たものを思い出しながら喋ってる「感想」だけだからね」

「でも見てきたんでしょ?」

「まあ若い頃は日本よりも海外に居る時間の方が長かったからなあ」

「ずるい」

女の子は吐き捨てるように文句を言った。

「どうしたんだい急に?」

「私もお婆ちゃん家に行ったのもう中一の時だよ? コロナのせいで全然海外に行けないのに……」

「それはすまん」

「ユーリが謝ってもしょうがないじゃない、病気のせいなんだから」

「まあそうなんだけどな」

すこし年寄りの昔の自慢話みたいになってしまったかなあと勇利は反省した。

「私ももっと海外行ってみたいなあ」

そう言うと女の子は最後の一口をグラスから吸い上げた。

その後で身体をずらして、足を廊下側に出して立ち上がった。

「飲み物取ってくる、何が良い?」

「僕の分?」

他に何があるのか?という感じで背の高い女の子は勇利を見下ろしていた。

そこには勇利を立たせないぞと言う強い意志が感じられた。

「じゃあコーヒーを」

「ミルクと砂糖は?」

「ひとつずつで」

了解という意なのか手を小さく上げて、女の子はドリンクバーへと向かった。

女の子の立ち上がった姿は手足が長くモデルのようなプロポーションで、サイゼリヤのモップを一回で通せるように規格化された狭い通路をゆっくりと歩いてドリンクバーに向かって行った。

その後ろ姿を見て勇利は平均的な日本人よりもハッキリと立体感のある顔、スマートな股下の長さを見て聞いたこと無かったがルーツはやっぱり海外にあったのかと思った。

言われてみれば彼女の家族構成も知らなかった。こうやってファミレスのボックス席で対面で座っているのに、素性も知らなかった事に変な関係だなとまた鼻で笑った。

女の子の名前はニナとしか勇利は聞いてない。

着ている制服を見れば女子高生なのだろうと思うが、この辺の街ではあまり見ないので遠くの学校に通ってるかも知れない。

ニナについては知らない事の方が多いが、リモート仕事というか定職も無く調べ物や文筆業で飯をギリギリ食べている勇利が対面で会っている人間は、この直近の数ヶ月を考えればもしかするとニナが一番多いかも知れないと勇利は思った。

いや、一番多いのはこのサイゼリヤで顔なじみになった店員達かも知れないが、やはりインパクトの大きさはやはりニナが一番大きい。

切っ掛けは本当に些細な事だった、書き上がらないレポートに頭を抱えながらサイゼリヤの天井を見ていると、大きな声が近くから聞こえて、視線を落として周りを見ると、隣の席で勉強をしていたニナにちょっかいを出している若い男が居た。

その男は大胆にも対面の席に座り込んで、机にノートを広げて勉強をしていたニナにちょっかいを出していた。

ニナは下を向いたまま時折男を睨み付けていた。

勇利は普段だったら冴えない中年の男らしく関わらないつもりでいたのだが、ふと男の肩越しにニナと目が合ってしまった。

勇利はニナと目が合った瞬間、何か命令されたような気がしてつい席を立ち上がってしまった。

そのまま隣の席の横まで行くとオーダーを取りに来た店員のようにニナと若い男が座る席の横に立った。

「あのーすみませんが……」

「なんだよおっさん」

語気を強めて若者は横に立つ勇利を見上げた。

少しだけ店内が静かになった気がしたが、勇利は溜息を気づかれないように小さく息を吐いた後恐る恐る話し始めた。

「あー実は今後ろの席でちょっと考え事をしていたのですが……」

本能的に立ち上がったので、ニナにちょっかいを出してる男を窘めるわけでも注意するわけでもなく、自分が何か言わなくちゃいけないという使命感だけは根強かったので、とりあえず敬語で話すことにした。

「例えばですね中国がこのまま覇権拡大を目指して大平洋に進出してくるといういわゆる中国脅威論というのは本当に存在するのだろうかというのを自分なりに考えてみてみまして、一見すると中国の海洋進出というのはそれは歴史的必然性があるような気がしてくるのですが、あの国が大洋を渡るという選択をしたのは明朝時代の鄭和の遠征ぐらいまで遡ってしまうのです、それすらも経済的負担に耐えかねて止めてしまったワケで、彼らの目指す覇権というのは酷く大陸的なものでしかないのではないだろうかといわゆる地政学的な見地で地図をみながら考えてみたんですが……」

まとめていたレポートの事を思い出しながら勇利は突然大陸地政学に興味はあまりなさそうな若者に向かって蕩々と現在の国際問題について語り始めた。

そしてその傍らで左手で小さく女の子に席の離脱を即した。

「そもそも米中対立というが、本当に彼らはアメリカの覇権に対抗するつもりがあるのでしょうか? そもそも核戦力も洋上戦力も圧倒的に足りてない状況で対立に突入しようとしている状況で、確かに中国にはミリタリーパワーを整備する資本もやる気もあるから十年、二十年の凄まじい軍拡を行う事は間違いないわけで、それはいつかはアメリカに追いつく事ができるかも知れない。だがそのミリタリーギャップが追いついたとしてもそれはパリティ(均衡)破りにはならないなぜなら相手はアメリカとその同盟諸国で相応に戦力は維持して来るからで、それでもやっとアメリカに追い着いた頃には少子化などで中国の国力の衰退が始まってるかも知れない状況が考えられるわけです」

若者の何だこのオッサン?っという呆れ顔を見ながら米中対立の展望を語るというのも得がたい経験だと思いながら勇利は話しを続けた。

「では彼らの、中国の拡張主義というのはなんなのでしょうか? 個人的にはただの経済的利益の追求の結果という事の帰結ではないでしょうか? 彼らが印度太平洋で港の港湾施設を整備して進出の準備をしてるのは、決してアメリカのシーパワーに対抗しているのではなく、彼らは無邪気に求められるまま金をばらまいてるだけなのではないでしょうか? それは朝貢外交のようなもので国の威信を見せつけるという戦略というよりも見栄に近い行為で、それがアメリカなどを刺激しているが、そこに彼らが望む覇権という性質の根本的な誤解が生じているのではないでしょうか?」

そこから一帯一路政策における各国への経済貢献などを語ってる間にニナはノートを畳んでレジに駆け込んで会計を済ませて店を出て行ってしまった。

気が付くとニナも居なくなっていたが、調子に乗って喋りまくる勇利の話しを聞いてしまった声を掛けていた男は「意味が分かんねえ」と呟いて疲れた顔をしてその後店を出て行った。

勇利は穏便に事が済んだことに対する満足感と米中対立がもたらすイデオロギー対立の無い微妙な冷戦がもたらす最前線としての朝鮮半島と台湾、日本の立場を考えて少しだけ暗い気持ちになった。

台湾侵攻・中華統一なんて時代錯誤のロマンシズムの魅力に逆らえないほど愚かな中国の首脳達ではないだろうが、権威主義国家の決断力は時として大きな問題を生むなあなどと、その日からまたサイゼリヤに籠もって勇利は女の子を、ニナの事を忘れてレポートを書き始めた。

後日ニナがまたサイゼリヤで資料を広げている勇利のテーブルに近づいて来た。

美しい顔立ちは二度見ればすぐに思い出した。

「この前はありがとうございました。でも私は助けてくださいって言ってない」

お辞儀しながらもニナは不満そうだった。

「確かに言葉には出してなかったね」

視線が合ったときの面倒臭そうなニナの嫌な顔を思い出して勇利は笑った。

「なんで笑うの?」

「ごめんよお嬢さん」

ニナの態度は勇利には攻撃的にも見えたが、知らないオジさんに何か貸しを作りたくないのだろうかとは思った。

「私はニナ、貴方は?」

いきなり名前を名乗られたので驚いたが、名を名乗るのは正しいやり方だったので勇利もちゃんと答えようと思った。

「僕は勇利だ、池内勇利という名だ」

「ユーリ?」

よく外国ではユーリと愛称の如く良く呼ばれてたのを思い出した。初めて会ったときもちょっとした外国人のような感覚を勇利はニナに覚えていた。

「ユーリは何してるの?」

広げた書類を見下ろしながらニナは率直に聞いた。

「仕事だよ」

「すみません、失礼します」

ニナが机の横に立ってるとちょうどユーリが頼んでいた食事を女性の店員が持って来た。

邪魔してしまってニナが横にずれたのだが、ただ横に立っているのも邪魔だったので、ついそのまま勇利の対面の席に座ってしまった。

特に勇利は何も言わずに、運ばれて来た食事用のスペースを作ろうと広げていた書類をまとめる。

「お嬢さんも大変だね、ああやって声を掛けられるなんて」

気軽に勇利はニナに向かって世間話を初めた。

ニナはよくある事だと同意していいのか少し迷った。

「まあ主権の侵害にはすぐに声を上げても良いと思うよ、ここには店員さんも居るし昼間だから誰かしら店内に居るからね」

「主権?」

急に難しい言葉をつかうのでニナは戸惑った。

「ああ、自分で決められる権利のことだ、嫌いな相手と話さないとか自分が行使できる細やかな権利の事だ」

「ユーリは学校の先生かなにかなの?」

「違うよ人に教えるなんて立派な仕事はできないよ。こんな地下のファミレスに籠もって資料と睨めっこするのが仕事だ」

本や印刷された資料を横に積み上げながら、便箋のノートに何やら文字や図表を書き殴っているものを勇利はニナに見せた。

「それが仕事なの?」

「まあ、対価は貰ってるから仕事といえば仕事なんだけど……」

対した額はもらっていないので自分で話しながら勇利は少し考えてしまった。

確かに昔っから経済や軍事など好きな事を調べていて、大学でも勉強していつの間にかそれが仕事になっていて、金持ちではないがそれでも将来貰える年金の額を気にしながらも細々と食っていけるくらいの生活はできている。

地域分析屋というか、それこそ大きなシンクタンクに所属してると言えば肩書きも付いて立派だが、勇利はどうしても組織の歯車としてノルマをこなしながら仕事するのが慣れず、四十近くの贅肉だらけの中年になっても組織に属さずフリーだったので、未来明るい女子高生に胸をはって自分の仕事を説明する気にはなれなかった。

「もしかして変わった人?」

面と面を向かって変わった人と言われると簡単に同意するのは若干のプライドを擽られるが、普通というのが大学を出て上場企業に就職するという事、それ事態はよくよく考えれば何千万人いる就職者のほんの一握りの筈なのに、何故かそれを求められてしまう。現在の日本は昭和の時代に考えられていた全員が大学受験して、企業に就職して定年までに働くという生活モデルはとっくの昔に破綻しているのに、どこかそれを普通と考えてしまう。

「まあ確かに変わった人といえば変わった人だなあ」

勇利は丁寧に答えてしまった。

その時ふとニナが笑ったような気がした。

冷たい顔の彼女が年相応の無邪気とは遠いいが、何も不満もない、屈託のない笑顔が一瞬見えた気がした。

勇利はくたびれた中年になって、自分の顔を見るとき重い瞼と張りの無い肌、コロナ過でマスクをする事が多く益々適当になる髭剃りなどを考えても、目の前の美少女の整った顔、誰かに見られるのを気を使う身嗜みを整えた姿をみてまるで対極に位置するとおもった。

だがニナは勇利と初めてサイゼリヤで同じテーブルに座った時からしばしばこうやて勇利と会話するようになった。そしていつの間にか声を掛けられない予防線なのか、それとも暇つぶしか勇利から理由を聞くことも無く、ニナからも話すこと無く、なんとなく席を一緒にするようになった。

「なにまた笑ってるの?」

「いやすまない」

なんでサイゼリヤで美少女と対面する事になったのかを考えていて、あまりの冗談みたいな話しに気が付いたら笑っていたようだった。飲み物を持って帰って来たニナを見て、ふと勇利は我に返った。

「ねえ、ユーリはなんで笑えるの?」

飲み物に少しだけ口を付けたあと、ニナは勇利の顔を見るわけではなく、どこか拗ねたように何も無い壁側を見ながら呟いた。

「なにが?」

「今の状態で笑えるの?」

「確かに、何か大きな組織に所属してるわけでも無いし、家庭も無いし貯金も無いし、日銭稼ぐので毎日忙しい今の状況は笑える状態では無いのかも知れない」

急に痛いところを突くなあと勇利は反省した。

「違う、そういうことじゃなくて」

腕を組んで頭を下げて沈痛な表情を隠す勇利を見て、慌ててニナは違うと否定した。

「ユーリから見てロシアとウクライナの戦争みていて笑えるの?」

「えっ?」

「今やってる戦争とか見て、嫌な気持ちにならないの?」

ニナが気にしていたのは現在進行形で行われているロシアとウクライナとの戦争の事だった。

「そりゃああんな悲惨な正規戦争嫌だけどね……」

「なんだか毎日起きるとニュースじゃ戦争の話しばっかりで私はとっても嫌」

眉間に皺を寄せてニナは首を横に振る。

「ああいうニュースを見て嬉しい奴が居るのかね?」

「ユーリは戦車とか見て嬉しいんじゃないの?」

勇利は自分が偏見的な目で見られて、その偏見が当たってた場合はどう答えれば良いのか一瞬迷った。

「まあそりゃあ他人よりはミリオタ的な興味はあるけど、いい大人だからその背景にある残虐な行為を考えるとそれを見て暗澹たる気持ちにはなるさ」

「この戦争はどうなっちゃうの?」

ニナは真っ直ぐに勇利の見つめた。

「君はどう思うんだい?」

「そうやってすぐ振るのやめて」

相変わらず物事から逃げることを許さない子だなあと勇利は思った。

「まあウクライナ・ロシアの両者の認識のズレが大きすぎて落としどころが全く見えないから大変だな。多分だれも出口を見出せない問題になるかも知れない。ロシアの強硬な態度はもはや偏執的でもある」

「前もユーリが言ってた暴力彼氏問題?」

「そう、ロシアのこの場合はプーチン大統領個人の問題かも知れないが、一方的なロシアへの帰属意識喚起、ウクライナとロシアは一緒の民族でこれが故意に外国により引き裂かれようとしているのを力で阻止しようとしている、というロシア側の認識とこれ以上ロシアに主権を侵害されず、失った領土を取り返してヨーロッパに接近したいウクライナの気持ち、これがもう徹底的な対立軸としてある限りこの問題は解決が無い」

開戦前に話しをした時になんでウクライナにロシアは戦争したの?っというニナの質問にユーリは暴力的な彼氏が寄りをもどそうと昔の彼女の家に押し入ったんだと例え話をニナにしていた。

「開戦して二ヶ月、ロシアの暴力はウクライナを屈服させることはできなかった。対話でもなく暴力で主権を侵犯して、その暴力で体勢の変更が出来なかったら更なる暴力に頼るしかない、エスカレーションが始まってるのは確かだよ」

「なんでこんな拗れちゃったの?」

「よく地政学的な問題とか言われるけどね、それだけで考えるのも違う気がする。ロシア、ウクライナ両方の国内政治の問題もあるからな」

「私にはどっちが悪いのかわからない」

「この問題に関しては疑いも無くロシアが悪い」

少しだけ勇利は語気を強めた。

「隣の席が五月蠅いって文句があっても無理矢理ガムテープで無理矢理口を塞ぎには行かないだろ? 手を出した次点でその行為は罰せられるべきだね」

「そこまで追い詰めた方が悪いとかは?」

「それこそ暴力彼氏を許しちゃう事になるな。本人達は納得してるから良いんだって話しにしかならない。でもそんな事を許してるといつか自分のところにその理不尽な暴力がおりてきて、大事なものを壊されたりしたらどうするのか?って話しさ」

ニナは顔を曇らせながらも勇利の話を聞いていた。

「結局今回のロシアとウクライナの戦争も「国境と主権」の問題なのさ、ウクライナという隣国を「失われたものだ」という認識のロシアが取り返そうと物理的な力を使った、それにウクライナ自信が自分たちの国家の権利としてそれを拒絶した、それは悲劇を生むけど必要な事なのかも知れない」

「わからない、なんで自分たちで問題増やすの?」

「ロシアにとってウクライナが自分たちを離れてヨーロッパに近づくという事が耐えられない事だと思ってるからじゃないかな?」

「なんで?」

ニナに質問されるたびに勇利は乗せられて饒舌に喋った。

「ロシアって国はとても大きいんだよ、昔シベリア鉄道に乗ったことがあるんだけど動きっぱなしで七日間掛かる、ヨーロッパ行きの飛行機乗っても寝て起きてもまだロシアの上飛んでる事もある」

「シベリア鉄道って?」

「日本海の対面にあるウラジオストックって街からずっとロシアを跨ぐ電車だよ」

そういうと勇利は机の横に置いておいたスマートフォンを取り出して、地図アプリを開いて見せる。

「ここからここまで電車でロシアの首都モスクワ、ヨーロッパへと行くんだ、まあ僕が行った時はこのままヨーロッパも横断してロンドンまで鉄道で行く旅行だったけどな」

「なんでこんな所まで電車で行こうと思ったの?」

「まあ一度もやったこと無かったからかな? いつもは飛行機だから偶にはと思ってやったなあ」

思い付きでシベリア鉄道経由でヨーロッパまで移動して、勇利は二度は乗らないなあと思っていたのだがその事は口に出さなかった。

「まあともかく大陸的感覚っていうのか、とにかく見渡す限り遮るものがなくてとにかく地平線がずっとつづくような土地なんだよロシアの周りというのは、日本みたいに海があってここが行き止まり、ここから先は別の国って明確な線引きが無い」

勇利の話はニナにはあんまり想像できてなさそうだった。

「ウクライナもそうだ、あの国はずっと山も無くてヒマワリ畑と空がずっと続くような土地なんだ、だからいつもこのなにも遮るものがないところから、何かがその地平線を越えてやってくるという恐怖みたいなものを感じてるのかも知れないね」

「確かにアメリカ行ったときずっと続く道を見てもどってこれなかったらどうしようって怖くなった」

「日本ではあんまり感じられない感覚だね」

勇利はスマートフォンのマップを広げてヨーロッパとロシアが収まるように画面を操作した。

「結局ヨーロッパから来る力に対して呑み込まれたくないという気持ちがロシアにはある、けどヨーロッパからすればいつロシアに呑み込まれてるかもしれないという気持ちもある。これはマックス・ハウスフォーファーっていうおっさんが唱えた自分たちの主権が及び誰にも邪魔されない場所、生存圏という考え方の元になってる考え方だね。結局ロシアとかドイツとか強い国が自分たちに有利な状況を整えようとすると力が浸透膜のように滲ませながら周りに影響を及ぼして、支配圏を広げようとする。それは国家存続の必然であり、自分たちの国境では無く「勢力」が及んでいる地域にちょっかい出してきたらこっちも黙っちゃいけない権利があるっていう考え方だね、国境があってこっから先は手出ししないという考え方じゃなくて、絶えず緩衝地帯に働きがけする事が当然の権利だという主張だよ」

長々と講釈を垂れた勇利に向かってニナは首を傾げる。

「結局どいうことなの?」

「あー私は自分の隣の国が言うこと聞かないと不安になる「性格」だから、ちょっかい出さないでってロシアさんが言ってるって事かな?」

「なんか私性格が悪いからって言えばなんでもわがままが許されると思ってる子みたいね」

ニナは実感を交えながら頬を膨らせて不満な顔をした。

「確かにそういうところがあるかもね、その生まれた場所によって持つ性格からどういう行動を取るのかを考えるのが地政学ってやつの考え方のひとつなんだけど、まあこじつけっぽさはあるね」

いつの間にか大陸地政学の話しになってることに勇利は自分で驚いていた。

「そんな大事な事を性格の問題にされたら困るじゃない」

「確かにそれで穀物・エネルギー価格が爆上がりで世界中の国が右往左往するんだからね、国際政治というのは時にどうしようもなく自分たちの生活に影響与えるな」

「その割にはみんな無関心な気がする……」

「これだけ大きな問題に対して個人がどうこうできる事は少ないからね」

こんなファミレスの席で語り合っても何も問題は解決しないのと一緒だと言おうと思ったが、ますますニナの顔はアンニュイな感情が色濃く浮かび上がる姿をみて勇利は口をつぐんだ。

「ねえなんでユーリはそんなに冷静でいられるの?」

「僕が冷静?」

「だってこれだけ勉強してロシアとの戦争もまだまだ続くって分かっているのに、なんでそんなに冷静になれるの?」

「まあ悲観してもしょうがないからな、なるようにしかならないじゃないか?」

「だって隣の国で戦争してるんだよ?」

「もっと近くの国だって核兵器作ってたり、存在を許してない国家に攻め込もうとしてたりするしな、国際政治的な危機ってのは幾らでもあるさ」

「あーもう、なんで問題ばっかりなの」

ニナは頭を抱えて机に肘をついた。

美しい顔は歪んでも美しいのかと勇利は思った。

遠くの席からまた女の子笑い声が聞こえて来た。

本来であればニナはあっちの席で同年代の女の子と楽しいお話をして、笑いながら異性にも同性にも魅力的な笑顔を浮かべている筈なのだろう。

どんな罰でこんなヨレヨレの白いワイシャツ着たオッサンとサイゼリヤで顔を合わせて人類の永遠の友である戦争について憂い悩まなくてはいけないのだろうかと同情したくなった。

「別に君がそこまで悩む必要はないだろう?」

「そうかもだけど、無視するのもなんだか違う気がする。何も出来ないから嫌なんじゃなくて、何もしないのも嫌」

喋り終わってニナは口を手の平で塞ぐ。

「真面目か」

少しバカにしたような言い方になったが勇利がニナに抱いた感想は自分にはとっくの昔に擦り切れた向きあうという感情が、まだニナの中には残っていて、それが純粋で美しいなあとおもった。

「誰かなんとかしなくちゃダメなんじゃないの?」

「戦争っていうのは始めるのは簡単なんだ、準備して決断をすればいいからね。でも終わらせるのは損得勘定に基づくモノさ。戦争の終結自体が早期になされればいいものではない。平和の回復にとって重要なのはそれがどのような条件によってもたらされた戦争終結であり、それによって交戦勢力同士がお互いに何が得られて、何が失われるかが問題なんだ。ウクライナがもうダメですと手を上げた時に今回の戦争は終わる、けどその瞬間あまりにも多くのものが失われて、さらなる未来の危機と悲劇を呼び込むかも知れない。だから簡単には終わらせられないし、それはロシアにとっても自分たちの始めた戦争を中途半端に終わらせる事は自分たちの命をただ削っただけに終わる事は避けたい事なんだろうね、これが戦争終結のジレンマというものさ、現在の犠牲を取るのか将来の危険を取るのか? こればっかりは誰にもわからない」

「どうすればいいの?」

「君が今居る場所はどこだろうか?」

ニナは首を振って周りを見渡す。

窓の無い地下のサイゼリヤの店内を見渡す。大きな絵画が飾ってある、ちょっと他の店とは違う落ち着いてた店内の雰囲気だった。

「サイゼリヤだよね?」

「そうだ、美味しいご飯を安価に供給してくれるファミリーレストランチェーンのサイゼリヤだ」

そういって勇利は立て掛けてあったサイゼリヤのメニューを取り出してニヤリとわざとらしく笑った。

「半熟卵のミラノ風ドリア、ディアブロ風ハンバーグ、プロシュート、エスカルゴのオーブン焼、小エビのサラダ、柔らか青豆の温サラダ、マルゲリータピザにペペロンチーノ……」

お経のようにメニューに書いてある品々の名前を言いながら、メニュー脇に書いてある番号を注文伝票に書き込んでいった。

「何してるの?」

「実は昼も食べないでドリンクバーだけでめちゃくちゃ腹が減って来た、だからお腹が空いたので注文を頼もうと思う」

「それにしたって食べ過ぎじゃない?」

「また腹肉が付くな」

少しだけワイシャツが膨らんだだらしないお腹を勇利はポンポンと叩いた。

「悪いがもしも俺が食べきれない場合は手伝ってくれるか?」

「私、あまり人に奢って貰うの好きじゃない」

「いや、俺は食べるよ圧倒的に空腹にもう耐えられないので、普通サイズのパスタなんて前菜でしかないよ?」

勇利は不敵に笑った。

「人間腹が減るとろくな考え方しないからな、とりあえずご飯食べてからまた考えるのさ」

「何それ」

「折角美味しいご飯が食べられる場所に来てるんだからな、カフェイン飲料と砂糖水だけで過ごすのは勿体ないさ」

頼んだドリンクバーのグラスとコーヒーカップを見ながら勇利はテーブルの端にある店員を呼ぶボタンを押した。

程なく店員が現れて、長い伝票を読み上げた。

「以上の注文でよろしいでしょうか?」

勇利が了承の頷きをすると、女性の店員は頭を下げて厨房へと向かった。

「ニナはどうしてウクライナとロシアの戦争に興味を持ったんだ?」

「毎日学校行く前とかニュースでやってるから……あと、SNSでも色んな人がいろんな事言ってる気がする」

「そうだね大きなニュースだよね」

勇利は資料の紙の束をまとめる。

「僕は昔ウクライナの首都キエフに行ったことがあるんだ。別の街にある博物館に行くのにちょっと寄っただけなんだけど大きな河が流れてキレイな街だったよ、そこが戦場になってるニュースはやっぱり衝撃があったよ」

ニナにはその時だけ勇利が笑ってないように見えた。なんでも突き放して見ている大人というか老人のような顔が一瞬大事なおもちゃを取り上げられた子供のように沈痛な顔をしていた。

「大きな話しと自分が見た小さな話しのバランスが取れなくなると、なんだか現実感がなくなってしまうような気がするよ」

「なんの話し?」

「あーなんの話しだろな?」

勇利はまた鼻を鳴らして笑った。

また笑ってるとニナは思ったが、今度は何も言わなかった。

そのあと二人はほんの少しだけ勉強やレポートの作業を進めていたが、あっという間に勇利が注文したメニューが店員によって止まること無く運ばれて来た。

なので二人ともテーブルからノートや本をすぐに仕舞ってテーブルの上を片付けた。

「うわあ、なんだか凄いことになっちゃたぞ」

勇利はわざとらしく口を大きく開けてテーブルを埋めた料理の数々を見下ろした。

「何その顔」

ニナは詰まらなそうにふざけてみせる勇利を一瞥する。

「いやあ頼み過ぎちゃったときの儀礼としてこの台詞は……」

まあ良いかと勇利はフォークを取り出す。

「まあとにかく俺は食べるから君も好きにしてくれ」

「だから私は食べないって」

「そうか……お腹鳴ってるぞ?」

「ウソ?」

「ウソだよ」

不信感などを取り除いた本当の殺意混じりの睨みを返されて、勇利は段々とニナとの会話を楽しんでいる自分に気が付いた。

「腹が立って来た」

「ほらね、空腹は怒りの源だ。まあ食べるの手伝ってくれると助かる」

勇利はそういってフォークやナイフの入ってる緑のケースを取り上げてニナに差し出した。

「僕をこれ以上中年腹肉オジさんにしないためにも若い力で助けてくれ」

了解したのだがそれは渋々だと言いたいのか特に声を出すわけでもなく、緑のケースを受け取ってニナはフォークを取り出して、テーブルの端にあったプロシュードにフォークを近づけて、一気に肉を巻き付けると豪快に口へと運んだ。

ニナは小さい頬が大きく膨らみ、顎を何度も動かす。まだプロシュードを食べてない勇利は声を上げようとしたが、まあ声を掛けたのは自分なのでそこは大人として黙った。

「あっパスタもしかして独り占めするつもりか?」

「だってユーリがドリア口付けちゃったじゃない、だからこのパスタは私のでよくない?」

「半分上げるからパスタ半分くれないか?」

「やだ」

ニナにパスタの既得権益を主張されて勇利は仕方なく諦めて、青豆サラダに、脇に置いてある無料の粉チーズとオリーブオイルを大量に振りかけたあと、醤油をすこし垂らした。

「なにやってるの?」

「こうすると上手いんだよ、食べてみれば?」

勇利は今度は口を付けずに青豆サラダのお皿をニナの前に差し出した。

「あっこれ好きかも」

恐る恐るスプーンですくい上げてサラダを食べると、ニナは目を大きく開けて喜んだ。

「こういうカスタマイズできる幅が多いのもサイゼリヤの良いところだよな」

「なんでこんな事知ってるの?」

「ずっと前に来たとき、子供がやってるの見て真似してみた。お父さんと一緒のワイングラスに自分でジュース注いで優雅に食べてるの見てちょっと羨ましかったんだよね」

ニナはこの食べ方が子供の真似かと思うとちょっと恥ずかしかったが、だが美味い物は美味いのでそのまま食べた。

「ほらな、ご飯食べてればだいたいの悩みは吹き飛ぶだろ?」

満足そうにサラダを食べているニナを見て、ハンバーグにナイフを入れながら勇利は笑った。

「確かにちょっと戦争の事忘れてた」

「それくらいがちょうど良いんだよ、こういう話しは」

「結局私には関係ない話しって事?」

「今食べてる食べ物の多くは海を渡って来るもんだからな、ここに国産品と書いてあってもそれを作る肥料や農耕機具を動かす燃料は外国産が多いから絶対に関係ない事はない。もしかしたら戦争が長引いてサイゼリヤのメニューの価格も上がるかも知れない、そんな風に繋がってる事だらけなんだよね世の中は」

世界有数の穀倉地帯のウクライナで戦争が行われているのだから世界的な食料品の価格上昇は避けられないだろう。エネルギーだってロシアの生産分をカバーしようと各国で増産されるだろうが、増産が軌道に乗るまで高騰は免れないだろう。

「だから気にしすぎてもしょうがないし、気にしないのはただの無知として自分への不利益とか命の危機に晒されるのかも知れない。ただ気にしすぎてもそれは過度な不安を煽ってるだけで、なにも楽しい事なんか無いだろ?」

「なんか適当にしろって言ってる?」

「そうかもね、何か正しい生き方って奴があってそれを教えられる立場だったら良いんだろうけど、こうやってサイゼリヤで平日に暴飲暴食して明日までにまとめなきゃいけない仕事から逃げようとしてるオッサンが偉そうに言える事はないよ」

「だらしない」

「まあこの身体見てればわかるだろ?」

そうやって勇利は自分の脇腹の余った贅肉を両手で掴んで見せた。

「やめてよ変な格好するの!」

ふざけたユーリの腹踊りを見てどうしようも無いとニナは笑った。

その笑顔を見て、やっぱり自分が見てるのは幻では無いかと思った。

遂に独身四十代が過ぎてオジさんにとってのあまりにも都合の良いイマジナリー女子高生が見えるようになったのかと頭を抱えた。

だが目の前でもう吹っ切れたのか、積極的に食事するニナを見ているとそれが幻でもありがたいと思った。

なぜならば現実のどうしようも無い陰惨な戦争に比べればこのサイゼリヤで美味しい食事にありつけることに感謝しなくてはいけないのかも知れないと、それは自分に爆弾が降ってこなかった事を単純に喜ぶべき事なのだが、現代に生きる我々にはそれは無視できない事ではある。

世界は今や全て繋がっている、そう錯覚させるだけの情報に日々晒されている。

だからこそニナのような何に悩む事があるのかという美少女だって戦争の事を疑問視する、それが勇利には哀しいことに思えた。もちろん声に出せば周りを気にしてヘラヘラ笑ってるだけでいろっていうの? バカにしてるとニナに怒られる事だと思うので口にしないが、海外の情報サイトで見た占領されたウクライナの街で何が行われていたのかというニュースはニナのような女の子の顔をきっと歪めてしまうのだろう。

戦争の凄惨な部分は事実なのだが、その事実に向き合う事は良い事なのだろうか? 向き合わずに済んだ事を喜ぶべきなのか? そういう事が無くなるように努力をするべきなのか?

中年の勇利には応えられなかった。

だから黙々と美味しい料理を口に運んだ。

「これだけ食べたら私も太っちゃう……」

気が付いたらアレだけあった沢山の皿に盛られていた料理はあっという間に各個撃破されていた。

若い女子高生の食欲を少し舐めていた。

「メニュー貸して甘いものは自分で頼む」

まだ喰うのかと勇利は思ったが、甘いものは別腹という理屈なのだろうか?

「あっダメだ、これ以上食べると夕食が入らない」

ニナは気が付いてメニューを元に戻した。

「晩ご飯も喰うのか?」

勇利はすこし上擦った声をだして驚く。

「お母さんに心配掛けちゃうから……ご飯たべなきゃ……」

ニナは失敗したとまた顔を苦悶の表情で歪ませた。

「すまんな、なんか無理させて」

ニナは首を振る。

「私が悪い、家に帰ってご飯食べないとお母さん凄く心配するの忘れてた。うちのお母さん凄く心配性なんだ」

髪を掻き上げながら、ニナは顔を伏せた。

「貴方はちょっと他人と違うからって……お母さん心配しすぎなんだもん……」

お婆さんがアメリカ人と言うことは、ニナのお母さんがアメリカ人なのだろうか?

スラッとした体型、美しい姿は時に嫉妬や怨みを買うことはあるのだろうか?

ぼんやりと考えながら勇利はニナに何か声を掛けようと思ったが、やはり適当な言葉が浮かばない。

励ましは嘘くさいし、同意はオッサンなので美少女の悩みは同意しかねると思った。

「お母さんの事が私の小っちゃい問題で大きな問題は戦争なんだね」

「そうみたいだね」

「私もユーリみたいにシベリア鉄道乗ってみたいな」

サイゼリヤの硬いボックス席のシートを撫でながらニナはシベリヤ鉄道に思いを馳せた。

「まあ寝台特急はまずサンライズ出雲から試してみれば良いんじゃ無いか?だいたいみんな一度乗れば満足するからな」

「なにサンライズなんとかって?」

「日本に残ってる唯一の定期便ありの寝台特急だよ、東京から出て出雲までのサンライズ出雲と徳島行きのサンライズ瀬戸と別れる電車があって」

「それも乗ったことあるの」

「まあ、コロナで海外いけない時暇つぶしに乗りに行った」

「ほんと大人って狡い!」

「なんだい急に……」

「私達なんか修学旅行無くなったりしてるのに、なんでそんなに色々なところに行ってるの?狡くない!不公平だわ、あっこれがニュースで言ってた世代格差って奴?」

「世代格差は主に経済面の事だけどまあ、コロナとか円安とかロシアとかで海外旅行も益々行きづらくなるのかもな」

「ほらね、大人は狡いよ自分だけ楽しんでさ」

ニナは勇利を指差しながら抗議した。

「僕たちが若かった頃はスマホも無かったし、今ほど簡単に海外旅行手配したりできなかったぞ」

「でも、昔の方が海外旅行行きやすかったんじゃ無いの?」

「まあコロナ前はそうだったのかも知れないけどね」

「ああ私はなんでまだ高校生なんだろうなあ悔しい」

なんだかこの子は怒ってばかりだなあと握りこぶしを作って悔しがってるニナを見てふと勇利は嬉しくなった。

「もうまた私の事笑ってる」

「わるいね、爺さんが拗ねてる孫を見てるようなもんだから許しておくれ」

「私とユーリはそんな歳離れてないでしょ?」

「僕は下手すれば君くらいの子供が居てもおかしくない歳だよ」

「若く見えるような気がするけど、さっきのだらしないお腹みたらやっぱりお父さんと同じくらいか……」

自分の父親と同じくらいの歳の男とこうやって話してる事自体なにか変な事なのだが、不思議とユーリとは話し込めた。

「変だね、それだけ歳が離れてるのになんかユーリは話しやすい」

「そりゃどうも」

舐められてるって事なんだろうなあと勇利は思ったが、だが不満はなかった。社会に出てから年下の人間に舐められるのはもうずっと慣れてる。

「ねえどうして私の話聞いてくれたの?私が可愛いから?」

「直球だね」

「だってだから声掛けたんでしょ?」

「まあ確かに君が男子高校生でヤクザに絡まれてたら声は掛けなかったかも知れないな、でも若い君が世界に興味持ってくれたら大人は誰だって話しに答えるんじゃ無いか?大人はすぐに偉そうに自分が見て来たモノの範囲で語ってしまうけど、それはその人が人生で得た大事なモノだから、それを自分の人生に一部とはいえ取り入れたり参考にするのは悪い事ではないさ」

「ねえやっぱりユーリって学校の先生じゃないの?」

「やっぱり偉そうかな?」

「変な大人だねユーリは」

「大人かどうかは分からないどけ、まあだらしないおっさんであることは確かだね」

鼻で笑おうとしてふと、また笑ってると怒られるかとおもってあわてて勇利は笑うのをやめた。

肘をテーブルに置いて頬杖を付いてるニナは屈託無く笑っていた。

それは不安とは別の何か良いことがあるかもという期待が持てる笑顔だった。

「帰るけど、私の分のお金置いてくね」

分かったとニナが机の上に置かれたお金を見て、勇利はもう少し作業を粘る事にした。

「すこし多くないか?」

「今日の授業料も含まれてます」

恩着せがましいのも悪いので、そのままお金を受け取る事にした。

別に約束するわけでもなく、挨拶もせずに学校の鞄を持ってニナは店を出て行った。

特にニナの姿を目で追うわけでもなく、勇利も机の上の皿を片側に寄せてまた机に資料を広げる場所を作った。

「お皿お下げしてよろしいでしょうか?」

「おねがいします」

女性の店員が皿を下げに来たので勇利は軽く会釈してお願いした。

「あの大変失礼な事だとは思うんですが、あの子とどういう関係なんですか?」

そう聞かれて勇利もどんな関係なのか自分でも分からなかったので言葉に詰まってしまった。

応えられない勇利を見て店員は聞いちゃいけないことを聞いてしまったと、一度お辞儀して足早に勇利のテーブルから立ち去ろうとした。

「あっ」

勇利は店員に向かって応えた。

「美少女とおじさんですね」

アナロジー(比喩)もない、みたまんまの感想を口にして、なにもわからないで不信感を持った女性店員の冷たい視線を浴びながら勇利は上手く言えなかった事を後悔した。

だが他人にはニナと自分が見えていたのだから、自分が今日見た事も現実なのだろうと、窓の無い店内でひとり笑いながら勇利は自分の仕事の世界に戻っていった。




END

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地下サイゼリヤの地政学 さわだ @sawada

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