風穴

ヨムカモ

第1話

 空がこんなに濁って見えるようになったのはいつからだろう。

 黒が白濁したような灰色より、いっそ真っ黒の方がまだ澄んで見える。背景が冴えないせいで、色とりどりのネオンも映えない。

 喧騒から外れた橋の真ん中で、タールみたいな川面を眺めていたときだ。変な女が、突然話しかけてきた。

「後悔、してるんでしょ」

 開口一番、そんなことを言う。

 ボブカットの、瞳の明るい女だった。真っ白いブラウスが闇の中に浮かび上がっている。

 ぎくりとし、思わずまじまじと見つめたが、その顔に見覚えはなかった。

「過去に戻れるアイテム、あげよっか?」

(……過去に、戻れる?)

 何を言っているんだ。

 ぽかんとしている俺に構わず、女は一方的に話し続けた。

 これはね、逆時間計ぎゃくじかんけいって言って、逆さのことをすると時間を戻せる道具なんだ。

 使い方はね……。

 ひととおり説明すると、古びた懐中時計を俺の手に握らせ、ときどき左足を引きずるようにして歩き去った。

 気分が落ちていたし、頭が思うようにはたらかなかった。結局俺は、女に話しかけられてから立ち去るまで、一言もしゃべっていない。

(時間を戻せる、だって?)

 からかわれたのだろうか。

 俺は何の変哲もない懐中時計を手に、その後ろ姿が見えなくなってからも、惚けたように立ち尽くしていた。



 次の日は、就活面接があった。

 今回もだめだと悟ったのは、開始してから間もなくのことだった。

 自己紹介した時点では感じられていた面接官の熱意が、みるみるうちになくなっていく。途中、何度もリカバリーを試みるも、その甲斐もなく面接の終了を告げられた。どうやって会社を出たのかもわからないまま、とぼとぼと道を歩く。

 どこが悪かったのか。何を間違えたのか。

 答える時に一瞬ためらったのがばれたのか。準備してきた答えがテンプレすぎて、嘘くさく聞こえたのか。

 せめて、最後の質問の時に、もっとやる気をアピールできていたら……。

 面接のたびに襲われる後悔の渦。結果が届くまでひたすら繰り返される自問自答に、俺はもう疲れきっていた。

 何もなければ、今日もそうやって一日を終えるはずだった。

 けれど、今は、あの女にもらった逆時間計がある。

 普通と逆のことをすると時間が貯まっていき、その分時間を遡ることができる、不思議な懐中時計。

 昨日、実験してみて、女の言ったことが嘘ではないとわかっていた。

 たとえば、バイト先のコンビニで棚に商品を並べる際、品物を出すのではなく、逆にコンテナにしまってしまう。あるいは、行きたい方角とは逆の方へ、後ろ向きに歩いてみる。

 そうすると、懐中時計の針が進んで、時間を蓄えることができるのだ。横の小さなボタンを押せば、蓄えた分だけ時間を巻き戻すことができる。

 いや、時間が巻き戻るというより、過去の自分の中に意識だけが飛んでいく感じだった。空間がぶれるような不快感を抱いた一瞬後には、過ぎ去ったはずの過去をもう一度体験している。

 時間のロスがほぼゼロなのは長所なのか、短所なのか。数分前に戻る場合は、場所にも状況にもたいした変化はないが、数時間前となると、自分がどこで何をしていたかなんて忘れている。その頃は駅に向かう途中だったと思って時間を巻き戻したら、駅の改札口を通り抜ける直前に飛んで呆然としてしまい、後ろの人から怒鳴られたりもした。

 だが、何度も試してコツはつかんだ。ここからが本番だ。この時計を利用すれば、同じ面接を受け直すことができるのだ。

 質問内容はわかっている。完璧な答えを用意して挑めば、次は絶対に受かるはずだ。


 そのはず、なのに――。



 面接は、全然うまくいかなかった。二度、三度と繰り返しても、変わらなかった。 

 街が闇に沈む頃、いつもの場所で川を眺めていると、必ずあの女が通りかかる。

「これ、何回目?」

 問いかけてくる言葉はいつも同じ。まるで、俺が失敗するのがわかっているかのように。

 三回目。

 五回目。

 八回目。

 何回目だろうと、次のセリフもいつも同じだ。

「ふうん」の、一言でおしまい。

 俺は水面みなもに反射する鈍い光を見つめたまま答え、そっと女の様子をうかがった。

 一体どういうつもりなのだろう。

 こんな不思議な時計を渡しておいて、用途を尋ねることもしない。恩を売るでもなく、口止めするでもなく、ただ自然体でそこにいる。

 追求されたくはないのに、当然ぶつけられるべき疑問を投げかけられないのも落ち着かなかった。

 だからなのか、俺は、よせばいいのにこちらから質問をしてしまう。どんな質問にも、女はふわりと髪を揺らしてなんでもないことのように答えた。

 ここを通るのは、会社からの帰り道だから。

 あの時計の持ち主は私。うちが骨董屋で、こういう曰く付きの代物しろものが眠っていたりもする。

 逆時間計は、手に入れた時点より過去にはさかのぼることはできない。

 使用回数の制限はない……はず。

 誰かに言ったり貸したりしたこと? ないよ。


 核心に触れないように。

 細心の注意を払って、そう、無意識に問いを選んでいる。

 女の返答に神経をとがらせ、安全地帯に着陸したことにほっとしながらも、さらに質問を重ねたくなる衝動を押しとどめる。

 言葉が途切れると、女は何の未練もなさそうに、びっこを引きつつ立ち去った。

 俺が誰なのか気づいた様子はない。

 だが、俺は思い出していた。


 女の名前は月森つきもり弥生やよい

 高一の時、俺が階段から落とした女だ。



「――なんでなんだよ!」

 欄干に打ち付けた拳が、一呼吸遅れて痛みを訴えてくる。

 面接は失敗続きだった。ネットで情報を集め、対策本を読みこんで何種類もの答えを用意しても、手応えのある反応は得られない。

 結果が届くまで待った時もあったが、悪い予想が外れた試しはなかった。待ち時間が長くなった分、自問自答を繰り返す回数が増えただけだ。

 上場企業や大手の優良企業など以外にも目を向ければ、内定の一つや二つとれるかもしれない。だけど、地元では有名な大学を出て、就職浪人までしているのだ。今更妥協するなんてあり得ない。

 もう何度、過去へ戻ったのだろうか。

 誰か答えを教えてほしい。何が悪かったんだ。どうすれば良かったんだ。

 態度か、言葉か、それとも……。

 ――それとも、一流企業は、俺には分不相応だとでもいうのか。



 気がつくと、月森弥生がそばにいた。

 荒れている俺の様子を見て、声をかけづらそうにしている。

 何も言わないから、なんとなく、左足に目をやった。

 階段から落ちた時の後遺症だろう。だいぶ普通に歩けるようになったようだが、こう何年も経過した後ですら、以前のようなスムーズさはない。

 俺はまた川に視線を戻した。

 当時は、一人で勝手に階段を踏み外した事故だとされた。

 しかし、実際は違う。前をよく見ていなかった俺が、階段で彼女にぶつかったのだ。

 月森は背を向けていたから、誰がぶつかってきたのかわからなかったはずだ。彼女がどう主張したかは知らないが、目撃者はおらず、俺も名乗り出なかったから、事故の原因はうやむやにされたのだろう。

(――だけど、もし、知っていたら……?)

 ふとそんな考えが脳裏をよぎり、ぞっとした。

 考えてみれば、過去に戻れるなんて便利な道具、理由もなく他人に貸すはずがない。

 もしこれが、自分にケガをさせた男への復讐だとしたら。

 そう考えると、腑に落ちる。

 この時計のせいで、答えの出ない迷宮に入り込み、何度も何度も同じ苦しみを味わっているのだ。

 鬱屈うっくつした思いは、いともたやすく目の前の相手への怒りに転化された。

「……嫌がらせ、だったのか?」

「……え?」

「これは、嫌がらせだったんだろう」

 きょとんとしている月森に、俺はたたみかけた。

「あんたの言った通り、確かに過去に戻れたよ。でも、何度面接を受け直しても、結果は変わらなかった。この時計は、過去を繰り返すだけなんだろう? やり直せるわけじゃない。あんたは、俺を何度も苦しめようとして、これを……!」

 予期せず、声が震えた。言葉の続きがのどに詰まって声を出せずにいると、月森は、数度、瞬きをした。それから、以前は前髪が長すぎて隠れていた目を、まっすぐ俺に向けた。

「過去は変えられるよ。その時計で、ちゃんと」

「……嘘だ」

「でも、変えられないこともあるみたい。君のそれは、変えられない過去だったのかも」

 月森の苦しい言い訳を、俺は鼻で笑った。

「なんだよそれ。そんなの詭弁きべんだろ。はっきり言えよ、俺を苦しめるためだって!」

「違うってば」

 月森は困ったように眉を下げた。

「嘘じゃないよ。……だって私も、高一のとき、使ったから」

「――」

 車のヘッドライトが、一瞬だけ月森の顔を照らす。スピードを出して通り過ぎる車を見送る横顔は、陶器のように滑らかだった。

 胸の奥がぎりりと痛んだ。今度こそ言葉をなくした俺は、あえて考えないようにしていた過去を思い出してしまう。

 高一の頃。

 月森弥生はおかしかった。髪は伸ばしっぱなしで結びもしない。誰とも話さず、目も合わせない。廊下を後ろ向きに歩いたり、登校したとたんに帰宅の準備をしたりする。授業中でも教師の話をろくに聞かず、ノートにびっしりと文字を書き綴るなどの奇行を繰り返した。

 中三の時に両親が事故で亡くなったのだと、噂で聞いた。言動がおかしくなったのも、それからだと。

 だからなのか、どんなに奇妙な行動をしても、月森がいじめられる様子はなかった。高校生ともなると、家族を亡くした相手をいじめるのには抵抗があるのかもしれない。気味が悪すぎて、関わりたくなかっただけかもしれないが。

 でも、そうか。

 俺は今更ながら気がついた。

 

 月森はあの頃、逆時間計を持っていたのだ。


「中三の夏に両親が事故死して、私一人だけ遺されてね。うちは裕福な方だったから、面倒みてくれる人もいて、生活には困らなかった。だけど、悲しくて、悔しくて、毎日泣き続けて、何の気力もわかなくて……。そんな時、逆時間計のことを思い出したの。

 うちは古い家でね、代々骨董品も扱っていた。中には曰く付きの物もあって、そういうのは売らずに管理をしていたみたい。軽々しく人に話していいものでもないから、特殊な品物については一子相伝いっしそうでんで、しかも家を継ぐ際に口伝くでんで行われていた。なのに、教えてもらう前に両親が死んじゃってさ……。だから今でも、ほとんどの道具は用途不明のまま。だけど、逆時間計のことだけは少しだけ聞いたことがあった」

 月森は俺の手の中の懐中時計を見つめて少し微笑んだ。

「とは言っても、知っていたのは、名前とか、基本的な使い方くらいでね。何をしたらどのくらい時間が戻るのか、起算点はいつなのか、使える回数は決まっているのか、タブーはあるのか……、そういうのは全然わからなくて、実験してみるしかなかった。過去に飛びながら試行錯誤して……。あの事故を、無かったことにしようとした」

 あの頃の月森の行動の意味が、今ならわかる。

 普通とは逆の行動ばかりしていたのは、過去に戻る分の時間を貯めるため。ノートにびっしり書き込んでいたものは、おそらく検証したことの結果。 

 両親が死んでからずっと、それだけを考えて毎日を過ごしていたのかもしれない。手探りで時計の使い方を調べ、なりふり構わず過去に戻り続けた。それでも月森の境遇が変わっていないということは……、そういうことなのだろう。

「……でもね。何度やり直してもだめだった。バタフライ効果ってあるでしょ。何が原因でどんな結果につながるかわからない。だから、関係なさそうな過去を変えたり、全然違う時間に戻ったり、考え得る限りのことを試してみた。一年以上、遡ったこともある。だからわかるの。変えられることもあるって。だけど、肝心な、二人の事故だけは避けられなかった。

 だから、たぶん君が変えようとしていることも――」

「……どうしてだ?」

「え?」

「どうして、そう、笑っていられる? どうして諦められたんだ。あんたにとって、親ってのは、そんな簡単に諦められるものだったのか……!?」

 簡単に受け入れられたわけではないはずだ。それはわかっている。

 だけど、俺は知りたかった。俺とは別の意味で、周りのすべてを拒絶していた月森が、こんなふうに穏やかな表情でいられるわけを。

 あの頃は、この先一生、こいつの笑顔を見られることはないだろうと思っていたのだ。

 月森は一瞬だけ悲しそうな表情をした。けれど、すぐにまた笑顔を浮かべる。

「諦めたわけじゃないよ。私の実験なんて穴だらけで、可能性をしらみつぶしにしていけば、何か方法が見つかったかもしれない。それに、途中でやめたら、今君が言ったみたいに、私の家族への愛情ってその程度のものだったのかって思うじゃない? だから、やめられなかった。それからも時計を使い続けた。何度も、何度もね。

 でもね、そんな時に、学校で、階段から落ちたんだ――」

 俺は息を飲んだ。月森は光をたたえた静かな目でこちらを見つめている。

 俺はあの頃、勉強のことしか頭になかった。一流大学に入り、一流企業に就職する。そのために県内一の進学校に入学したのだ。志望大学の推薦をもらうために、毎日必死で勉強していた。

 だから、後ろ向きに階段を上がってきた月森にぶつかった時、俺は無関係のふりをした。

 こんなことで足を引っ張られるなんて御免だった。だって、あれは事故なんだ。万が一、クラスメイトを突き落としたなんて誤解されたら、今までの努力がすべて水の泡になってしまう。

 だから――。

「ああ、ごめん、心配しないで。左足にちょっと不自由が残ったくらいで、たいしたケガじゃなかったから」

 無意識に彼女の左足を見ていたらしい、月森が慌てたように付け足した。そのセリフを聞いて絶句する。

 たいしたことない?

 一生残る傷を負わされたのに?

「不注意だったんだよね。どうすればいいのか、何をすればこの悪循環から抜け出せるのかわからなくて。それしか考えてなかったから。むしろ、それまで事故に遭わなかったのが奇跡だったのかも。

 結果的には、それがね、きっかけになったんだ」

 月森は俺の動揺に気づかず、明るい声で続けた。

「階段から落ちてしばらくは、何が起きたかわからなかった。呆然としている間に、入院して、手術が終わって、後遺症が残るって言われて……。その間、過去に戻るどころじゃなくて――、初めて、今の私の状況に目を向けたの。

 あの頃の私の世界には、私と両親しかいなかった。改めて考えてみると、それがとても苦しかったんだよね。私には、世話してくれる人も、心配してくれる人もいたのに、一人では気づくことができなくて。

 なんていうのかな。永遠に回り続ける輪の中から、突然放り出された、みたいな。窓のない箱の中に、小さな風穴が開けられた感じ。それでようやく今の自分を客観的に見られるようになって、一歩でも進んでみようっていう気になった。

 ……だから、諦めたのとはちょっと違う」

 詭弁だって言われるかもしれないけど、と、照れたように笑った。

 俺が小さく首を振ると、月森は続けた。

「ごめんね、話が長くなっちゃったね。ええと、誤解しないでほしいんだけど、別にね、恩を売ろうとしたわけじゃないの。私はただ、君があの時の私みたいな顔をしてたから、何か手助けできないかって思っただけ。逆時間計で過去を変えられたらいいし、変えられないのなら、それを受け入れて、迷路から抜け出せるきっかけになればって思っただけなの」

 彼女は左足の付け根をなでると、屈託のない笑みを見せた。

 月森は、家族を亡くし、左足が自由に動かなくなっても、今いる世界に戻ることを選んだ。理不尽な世界を憎むでもなく、階段でぶつかってきた相手を恨むでもなく、こうして赤の他人に手をさしのべることができる。

(……なんて、強いんだろう)

 俺とは大違いだ。自分のことしか考えていなかったあの頃から、俺は全く成長していない。何も、学んでいない。

 八つ当たりしたことをぼそぼそと謝ると、「気にしないで」と首を横に振った。

 あのときも素直に謝っていたら、こんなふうに許してくれただろうか。

 取り返しのつかないことをした俺にも、笑ってくれただろうか。

 けれど、彼女に許してもらう機会を奪ったのは、他の誰でもない、この俺なのだ。

 月森は振り返ることなく、濁った闇の中に飲み込まれていく。

 彼女の目には、こんな景色だって、違う色に映るのかもしれない。

 そう思った。



 二ヶ月後、俺は月森と再開した。

「あのさ……。俺、就職したんだ」

 逆時間計を使って就職活動を繰り返していたことは、月森には言っていない。

 何のことなのかわからないだろうに、照れくさそうに話す俺の言葉を、月森は黙って聞いてくれた。

「でかい会社じゃないけどさ。俺の学歴、珍しいみたいで、みんな、何でもかんでも俺に聞いてくるんだ。なんかさ、必要とされるって、こんなにうれしいことなんだって、初めて知ったよ。同時に、俺ってこんなに何もできなかったんだって、毎日打ちのめされるけど。でも、それでもさ、あのときよりは断然ましだ」

 二か月前までの俺は、一流企業であることにばかりこだわり、自分がそこで何をしたいのか考えてもいなかった。改めてやりたい仕事や向いている職業を考えた結果、自分に合った会社に就職できたと思う。

 それもこれも、月森のおかげだ。

「へえ、良かったね」

「うん。……ありがとう」

 心からの礼を言うと、月森も嬉しそうに微笑んでくれた。無言の時間が流れ、俺は言葉の接ぎ穂を探してカバンの中をあさる。

「あっ、えっと、これ、返すよ。遅くなってごめん。落ち着くまで、なかなかこっちに来られなくてさ……」

 首をかしげながら、月森は逆時間計を見つめる。

「返さなくていいよ。あげたつもりだったし」

「いや、もらうわけにはいかないだろ。大切に保管してたって言ってたじゃないか。それに、その足のケガ、この時計で無かったことにできるかもしれないだろう」

 逆時間計のことを知ってから、ずっと気になっていたことがある。

 なぜ月森は、階段から落ちた過去をやり直さなかったのか。

 あのケガもまた避けられないものだったのか。だとしても、あの場面に戻っていれば、階段でぶつかった生徒が誰なのかは知ることができたはず。

 だが、月森はそうしなかった。

 なぜなのかはわからない。

 けれど、今からでも遅くない。

 何年分もの時間を貯めるのは、相当苦労するだろう。けれど、それは俺が肩代わりするつもりだ。せめてもの罪滅ぼしに。

 過去へ戻った月森は俺を見て、みんなの前で犯人の正体を暴露する。あの頃の俺はきっと否定するから、その場合はもう一度戻って、動かぬ証拠を見つけてくればいい。そこまですれば、往生際の悪い俺も、さすがに観念すると思う。

 そうしたら、今の俺は、すべて消えてしまうけれど……。

 だが、月森は笑って、俺の手ごと時計を押し返した。

「だから、言ったでしょ。今の私を受け入れて、このまま進んでいこうと思ったって。何かあるたびに戻ってやり直していたら、先に進むことなんてできなくなっちゃう」

 そう言って、俺に背を向けようとする。俺は慌てた。そのまま歩き去られたら、俺が困る。

「だめだ、月森、これはお前が持っていないと……!」

 左足のことは、月森が納得しているならこれ以上は言わない。だが、もし今後彼女に何かあったら。

 その時こそ、これが必要になるかもしれない。今までは彼女のために何一つしてくれなかった時計かもしれないが、次もそうだとは限らない。

「……ああ」

 立ち去りかけていた月森は、思い直したように振り返った。その顔にはなぜか苦笑が浮かんでいる。

「実はね、もう一度手術すれば、この後遺症も治るかもしれないんだ。主治医にずっと言われていたんだけど、なんかずるずるここまで来ちゃって」

「えっ、な、治るのか!?」

「うん」

 俺はほっとして泣きそうになった。安心すると今度は、ふつふつと疑問が浮かんでくる。

「じゃあ、なんで治さなかったんだ? そんなに難しい手術なのか?」

「うーん。まあ、絶対治るってわけでもなかったし。……あとは、似たような理由かなあ。

 この間さ、高校生の時の話、したでしょ? 結局私さ、出席日数が足りなくて、一年留年したんだけど」

「? ああ」

 確かにそうだ。入学当初から休みがちで、ろくにテストも受けず、さらにケガでの入院が重なった月森は、進級することができなかった。

「あのケガ以来、登下校中とか、移動教室の時とか、誰かにつけ回されるようになったんだ。その人、他のことをしているふりして、何か言いたげにずっと、私のこと見てるんだよね」

「……」

「最初はストーカーかと思った。だけど、通学路に落ちてたごみをこっそり拾ってたり、階段の下敷きになりそうなところでじっと立ってたりするの見てたらさ、なんかおかしくなってきちゃって。結局、その人が卒業するまで続いたなあ」

「…………」

 月森は、俺の目をのぞき込むようにして続ける。

「逆時間計を使わなかったのはそれが理由。過去に戻れば、ケガはしないで済んだかもしれない。でもそうしたら、ケガをした方の未来は消えちゃうでしょ。もったいないなあって思っちゃって。

 私は、今のこの世界の続きが知りたくなったの。私がケガをした未来。ケガをしたままの、その先の未来が」

「……そう、なんだ……」

 やっとのことで、俺は声を出した。気を抜いたら、腰が抜けてしまいそうだった。

 磁力を帯びた瞳。すべて見通しているかのような笑み。

 ――まさか……。

 月森は続ける。

「そういえば、風のうわさで聞いたんだけど、その人ね、大学は県外の有名なところに進んだんだって。でも、就職は地元でするみたいで、去年からこっちに帰ってきてるって。

 ……ねえ? 一ノ瀬いちのせ隼人はやと君?」

「――っ」

 眼前に迫った月森の目が、いたずらっぽく微笑んだ。

「謝りたいなら、謝っていいよ。許してあげるから」



 ――彼女は、すべて知っていたのだ。

 最初からわかっていた。

 俺が誰なのか。

 何をしたのか。

 その上で、何度も風穴を開けてくれていたのだろう。

 俺のために。

 ずっと、ずっと。

 ただそれに、俺が気づかなかっただけなのだ。

「……本当はさ、何も言わないで帰ろうと思ったんだけど。でも、私のこと、覚えててくれたみたいだから……」

 当たり前だ。忘れるわけがない。

 あの頃は罪悪感で顔は見られなかったけど、その声だけは。

 卒業するまでずっと、彼女の声だけに耳を澄ませていたのだから。

「……こんな俺を……許してくれるっていうのか……?」

 不自由になった足で歩いても、ごみに躓いて転ばないように。

 もしまた階段から落ちても、受け止められるように。

 だけど、あんなのは、ただの自己満足でしかない。

 こんな俺が許されていいのか。

 この期に及んで、本当のことを言えないでいる俺を。

 月森は、差し出した逆時間計を見てから、そっと視線をずらした。ゆっくりと手を伸ばし、時計を持っていない方の俺の手を握って微笑んだ。

「時計に頼らなくても、やり直せる関係もあるよ」


 一ノ瀬いちのせ君が見守ってくれるなら、手術、受けてみようかな。

 月森がそう言って笑うから、俺は情けないことに、彼女にしがみついてしばらく嗚咽を漏らしていた。

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風穴 ヨムカモ @yomukamo

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