逆境を味わう

帆尊歩

第1話 逆境を味わう

「今日は地下鉄記念日だと言うこと知ってる?」と、タコ社長は言ってくる。

知るかそんな事、どうだっていいわ、と美幸は思ったが、そんな事言えるわけなし、顔にも出してはいけない。

「そうなんですか。でも地下鉄記念日って、なんかやるんですかね」

「さあ、僕もよく分からないんだけれど」わからんのかい。

ツッコミどころ満載のこの社長に話を合わせ、預かり金の積み増しをお願いしなくてはならない。

そんなこと、とっくに分かっているタコ社長は、なんとか話をそらそうと必死になっている。

「川瀬さんは地下鉄ってどうやって、地下に入れると思う」こういう時は「さー」とか言って、会話を止めたりしてはいけない。

とにかくつなぐ。

つないで、つないで、つなぎまくって、話を自然な形で預かり金の方に持っていかなければならない。

「乗り入れていたりするんで、そういうところから、入れるんじゃないですか」

「乗り入れてないところは?」

「さー」しまった。

言ってしまった。

と美幸は思った。

「初めに地下鉄の車両を埋めていおいて、後から掘るんだよ。スコップとかにガーンとあたって。あった、あった、ってね」


さて困った、と美幸は思った。

さーって言ってしまって話が切れたかと思ったが、何とか話をつなげてくれたタコ社長だが、今度はとんでもない試練を美幸に与えた。

こういう場合どう切り返す。

冗談で切り返す方がいいのか、さらっと流すのがいいのか。

どうする!と美幸は自問する。

この逆境をどう跳ね返して、預かり金の積み増しを認めさせる。



今朝の朝礼だ。

例によって課長の檄が飛ぶ。

「今日は何の日だ。はい榊原」

「えーと。十二月三十日で、年内最終日です」榊原さんは恐る恐る答える。

「そのとおり。そして、今日の終業時には大納会を開催する。みんな今年一年ごくろうさまです。今日の大納会は是非大いに楽しんでください」ここでオーなんて雄叫びを上げるやつはこの会社にはいない。

そして課長は続ける。

「ただ、一つだけとても残念な事があります。目標がいっていません。私は、皆さんに心から大納会を楽しんで貰いたい。言いたいことはそれだけです」


美幸訳


(てめーら、分かってんだろうな。今日が最後だぞ。今日一日、死んでもノルマ達成してこい。いいな)


美幸が訳すまでもなく、みんなの耳にはこう聞こえているのだった。


「あっ最後に一つだけ。目標額によっては、これを逆境と思う人がいるかもしれません。でもこの逆境を味わうくらいの気持ちでぶつかっていってください。その先に見える物もあります。以上」課長としては優しい言い回しだと美幸は思った。

イヤこの言い回しを優しいと感じる辺り、ブラックに染まっている。



課長味わえないよ。

このタコ社長の言葉をどう返したらいい。

明、助けて!このままあたしは、撃沈するのか。

思わず美幸は同棲中の彼氏の名前を心の中で叫んだ。

その時、明の声が聞こえたような気がした。

美幸にちょっと力がわく。


「でも社長、掘る場所分からなくなったりしたら大変ですよね。ないぞーなんて」

「たくさん埋めておけばいいのか」

「違う路線で発見しちゃったりして、色が違うけど、いいかみたいに」

辛い。

この話はどこまで続ければいいのか。

イヤタコ社長も同じように思っているだろう。



美幸は今日の朝の事を思い出していた。

「美幸。会社、今年最後だろ」

「うん」

「じゃあさ。終わるころ会社の前で俺、待っているよ。たまには外食でも。今日は俺のおごりで」

「ありがとう。と言いたいところだけれど。今日は最後、大納会だし、そもそも、帰れるかどうか」ブラック企業を辞めた明にはこれだけで伝わる。

「そうか」

「ごめん」



タコ社長との会話が途切れそうになった。

地下鉄の話でつなぐには限界だ。

この積み増しがかなわないと今月のノルマは絶望的で、大納会という名の、ありがたいご指導が入る。

二時間くらいならいいが、それを越えると、大納会は日をまたぐ。


「社長、御社はさすがですね。どこも二十八日くらいで終わるのに、三十日まで営業なんてさすが。成長企業は違いますね」タコ社長は渋い顔をした。

「それはお宅もでしょう。金融なのに、三十日までなんて、元々そいう会社。

それともノルマが行っていないから」

美幸は、両方だよという言葉を飲み込んで。

「お客様の利便性と成長のためなら、当社は何でもやらせていただきます。全てはお客様の利益のためです」

タコ社長は美幸の顔をみつめた。

辛い沈黙が続く。

これを逆境と言わずしてなんと言う。

味わえねーよと、美幸は心の中で叫び続けた。



大納会は何とか三時間で終えた。

美幸以外にも逆境を味わえなかった人が複数出たからだった。

大体のこの年末の三十日に、投信だ、積み増しだ、聞くわけがない。

何はともあれ、今年は終わった。

ヘトヘトになって美幸は会社を出た。

身も心もズタボロの状態だ。

今誰かに優しくされたら、泣いてしまいそうだ。


「美幸」

「えっ、明!」

「お疲れ。今年一年ご苦労様」

「なんで。今日は遅くなるって言ったのに」

「でも、まだ今日は地下鉄記念日だよ。後三十分ある」

「地下鉄記念日?なんで明が知っているの」

「えっ、美幸も知っていたの。何だ驚かせてやろうとしたのに」

明の笑顔に美幸の張り詰めていたものが崩れた。

美幸は明に抱きついた。

「馬鹿。馬鹿、馬鹿」

「おい。美幸、なんで泣いているんだよ」

美幸は何だか仕合わせに触れたような感覚に落ちいった。

そして、仕合わせになりたいと思っていたけれど。

何だ仕合わせなんて、ここにあるじゃないかと思って、声を出して泣いた。

そんな美幸を抱きしめながら、明は戸惑うばかりだった。

そしていつの間にか、地下鉄記念日は終わっていた。

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逆境を味わう 帆尊歩 @hosonayumu

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