罪と罰のプラットホーム
黒砂糖
罪と罰のプラットホーム
次の各駅電車が到着するまで、あと十五分残されている。
黄色い点字ブロックの内側で、俺はその電車が来るのを手持無沙汰で待っていた。
アルコールで顔は火照っているが、ただそれだけだ。きつく締めたネクタイに息苦しさを感じ、少し緩めて息を吐く。
職場の先輩に誘われ、仕事終わりに居酒屋へ寄ってきたのだ。とはいえ気持ちよく酔っていたのはもっぱら先輩で、俺は彼のご機嫌取りに努めて酒を楽しむどころではなかった。
先輩が言うには、独り暮らしで帰っても寂しいからとのことだが――だからといって付き合わされるこちらは堪ったものではない。
そもそもこの先輩、仕事は出来るのものの何かにつけて愚痴を口にするせいで部下からの人望は薄い。もちろん俺もそのうちの一人だ。
飲みに誘われたところで、普段なら適当な理由で断っている。現に他の社員もそうしていた。だが今日は予定がないと同期の社員に話しているのをたまたま近くにいた先輩に聞かれてしまい、断るに断れなくなってしまったのだ。
あんなこと言わなければよかったと後悔している。明日は土曜日で先輩は休めるだろうが、俺は休日出勤なのだ。早く帰って眠りたい。
プラットホームは閑散としていて、まるで人気はない。元より利用者の少ない駅で、停車する電車の本数も限られている。通勤には不便でたまらない。
ここには俺の他に誰もいない――そう思っていたところ、ちょうどホームへと階段を降りてくる人の姿があった。三十代後半の縁なし眼鏡をかけた男だ。
俺が気になったのは、その男の足元がどうにもおぼつかないからだ。階段を降りる様子も見てるこっちが冷や冷やとするくらい危なっかしい。ずいぶんな量の酒を飲んできたようだ。
ホームに降りてきた男は、ふらふらとした足取りで点字ブロックのところまで歩く。
大丈夫だろうか? 無事に自宅まで帰り着けるだろうか?
俺に関係のないことながら、少し心配になってしまう。
間もなく急行電車が通過する頃だ。俺が乗る電車は、その次になる。
そのときだった。どさっ、と何か大きな物が落ちるような音が聞こえたのは。
音がした方へ思わず顔を向けると、さっきまでいたあの酔っ払いの姿がない。さっ――と血の気が引いた。線路を覗けば、やはり男が転落していた。それから体を起こして自力でホームに上がろうとするも、上手くいかないようだ。
何やってるんだ! さっさと上がらないと電車がくるぞ!
急行電車が近づいてくるのが見える。今から非常停止ボタンを押しに行っても間に合わない。
俺は急いで男に駆け寄り、その両腕を掴んで引き上げようとした。男も俺の腕にしがみつく。だが俺一人ではどうにもならない。前のめりになりながら全身の力を使っても無駄だ。
横を見ると、急行電車は今にもホームに入ろうとしている。このままでは俺も巻き添えを食ってしまう。
「もうダメだ! 離してくれ!」
しがみついている男の手を振り解こうと、必死でもがく。だが男は手を離そうとしない。
「離せって言ってるだろう!」
それでも男の手は、俺の腕をぎゅっと掴んだまま離れない。急行電車はすぐ目と鼻の先まで来ている。
「離せよ!この!」
俺が男の手を何とか引き剥がして体を引いた、その直後――急行電車がホームに滑り込んだ。
悲鳴はしなかった。だが電車が男を轢いたときの嫌な音だけは、いつまでも耳に残って離れなかった。
それからというもの、俺は罪の意識に苛まれるようになった。
周りに人気がなく、運転士も俺が男の手を振り解いた瞬間に気付いていなかった。俺の罪は、俺しか知らない。
もし俺が直前まで諦めなければ、男を助けられただろうか? だがもし間に合わなければ、二人とも死んでいただろう。仕方がなかったんだ――そう考えようとしても、恐怖に歪んだ男の表情と、電車が男を轢いた音が鮮明に蘇ってくる。まるで俺に、己が犯した罪を決して忘れさせないかのように。
あの事故が起きてからというもの、俺はふとしたとき死んだ男のことを思い出すようになった。同じ駅を利用したとき、似た外見の男を見かけたとき――そのたびに俺は罪悪感に襲われた。俺があの男を殺したのだという罪悪感に。
こんな日々がいつまで続くのだろうか? この苦しみもやがて時間が解決してくれるのだろうか? いずれは解決できると信じなければやっていられなかった。
そして俺は心に決めた――もしまた同じことが目の前で起きたとしたら、もう絶対に諦めたりはしないと。
だがそんな偶然にそうそう出くわすわけもなく、何事もないまま月日は流れていった。
事故が起きた日から、ちょうど一年が経ったある金曜日の夜のことだ。いつものように仕事を終えて、同僚と居酒屋に寄ったその帰りだった。
相変わらず静けさに包まれたホームには俺と、もう一人の男だけだった。男は三十代後半で、これまた死んだ男と背格好が似通っていた。
時間を確認すると次の各駅電車まで十五分あり、その前に一本急行電車が通る。
どうしてもあの日を思い起こさずにはいられないが、あくまで偶然が重なっただけだ。毎日同じ駅を利用していれば、そういう日もあるだろう。
俺はそれ以上は深く考えず、点字ブロックの手前に立って、同僚とLINEのやりとりをしていた。
間もなく急行電車が通過するという、そのとき――。
どさっ、と重い物が線路に落ちる音がした。
何が落ちた? まさかあの男が?
見るとやはり、ホームにいるはずの男がいなくなっている。落ちたのは男で間違いない。
俺は迷うことなく駆け出した。今度こそ、最後まで諦めない――俺の頭にあったのはそれだけだ。
とにかく男を助け起こさなければならない。俺は急いで線路に下りる。
「え……?」
そこには、誰もいなかった。線路に落ちたはずの男がどこにもない。
「そんなバカな……」
いったいどこに消えたのか――ふと顔を向けた先、ホームの退避場所に潜り込んでいる男の姿があった。
電車のヘッドライトに照らされて、男の顔がはっきりと確認できた。
縁なし眼鏡をかけたその顔は一年前、ここで死んだあの男と瓜二つだった。
男は、じっと俺を見つめている。
これが、俺のしたことへの罰なんだな。
電車が視界いっぱいに迫ってきて――意識は断ち切られた。
罪と罰のプラットホーム 黒砂糖 @kurozatou313
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます