第3話

 味噌汁は、味が薄くてほんのり甘さがある。いつも適当に味付けされているのに美味しく仕上がっていた野菜炒めも、柔らかくて白いご飯も母の水加減そのままだった。


 あの頃の夕食が再現されたような料理を見下ろして、何もかも一緒だ、と涙腺が緩みそうになる。なんで、どうして、思う言葉が込み上げるのに声にならなかった。

 懐かしい味と匂いを噛み締めながら、ただただ一口一口を味わって食べた。それでもどんどん思い出してしまって、涙が出そうになり、最後は夢中でそれを口に運んで皿を空にした。


「…………ご馳走様でした」


 日野宮は、最後に箸を置いて手を合わせた。声が少し震えてしまっていた。


 奥の方からオウミが出てきて、空になった食器を見てにっこりと笑った。けれどこちらの様子を察してか、何も言わないまま食器をさげて一旦戻っていく。

 隣から、鴉丸が首を伸ばしてきた。


「美味かったか?」


 そう尋ねられて、日野宮は目を向けられないまま静かに頷いた。溢れかけた涙を拭ったら、彼が黙って水を差し出してきたので受け取って飲んだ。


「オウミ、美味かったそうだ」


 言葉が出ない日野宮の変わりに、鴉丸が奥へ声を投げた。すると出てきたオウミが、「それはよかった」と言って、カウンターのテーブルに氷だけが入ったグラスを置いた。

 日野宮は、それが何を意味するのか分からなくて首を傾げた。思わず目で追いかけてみると、オウミは鴉丸の前にも同じグラスを一つ置いていた。


「いいのかよ、俺まで」


 鴉丸が嬉しそうに言う。


「今夜は特別にサービスですよ」


 ふふっと上品に笑ったオウミが、そう答えた。

 二人のやり取りを不思議に思っていると、鴉丸が氷だけが入ったグラスを持ち、まるで水を飲むように口を付けてぐいっと傾けた。そして、「やっぱ美味いなぁ」と満足げに笑った。


「あの……、これって?」


 困惑して尋ねたら、オウミが穏やかな笑みを浮かべてこう言ってきた。


「お酒ですよ、とても美味なお酒なんです。サービスですから、どうぞ」


 どうぞと言われても……日野宮は、氷だけしか入っていないグラスに目を落とした。そんな彼の様子に気付いて、鴉丸が声を掛ける。


「人間の目でも、酔えば見えるようになる酒だ。滅多に咲いてくれねぇ『とある気紛れ花』からしか取れない霊酒で、飲めるのはかなり貴重なんだぜ」


 だから飲んどけ、そう言われて勧められるままグラスを持ち上げた。


 ちょっと揺らしてみても、やっぱり何も入っていないようにしか見えなかった。けれど彼らが『在る』というのなら、今の自分に見えていないだけなのだろう。


 二人が見守る中、日野宮はグラスを口に当ててゆっくり傾けた。喉がひやりと潤って、冷たくて甘い味が口に広がり「あ」と思う。


「……すごく、美味しい……」


 すうっと胃に染み込むのを感じながら、びっくりして吐息混じりに呟いた。鴉丸が「そうだろ」と自慢げに言い、オウミがふふっと上品に笑う。


 再び見下ろしてみたグラスには、桃色のとろりとした水が入っていた。少しグラスを傾けてみると、甘い香りが漂い、中の氷がカランと音を立てて移動する。隣の鴉丸のグラスにも、同じような色の水が半分入っているのが見えた。


 これまで飲んだことのある酒とは、かなり違っているような気がした。どう違うのかと問われれば難しいけれど、アルコールで酔っぱらう、という感覚がまるでないのは確かだ。


「こちらは時間の流れが遅いですから、そろそろ戻った方がいいかもしれません。人間世界では、そろそろ〇時前頃くらいでしょう」


 オウミにそう声を掛けられて、日野宮は「そうですね」と答えてグラスの中を空にした。最後は喉に流し込んでみたものの、やはりカッと熱くなる事もなくひんやりと喉を滑り下りていった。酔っている感じはない、でも気持ちはどこかすっきりとしていた。


 そのまま、グラスをカウンターテーブルに戻し、足元から鞄を拾い上げて立ち上がった。


「今日は、色々とご馳走になりました。本当に美味しかったです――お代はどのくらいになりますか?」

「ふふふ、いいんですよ。今日は私の奢りということで。次いらっしゃる時には、通常料金を取りましょうかね」

「また来られるかも分からないのに……」


 恐らく、自分がここへ来られる事はもうないだろう。

 ここは、人間の大人が出入りする事はないという摩訶不思議な『海中通り』だ。たまに子供が迷い込むだけの場所であるという説明を思い返して、日野宮は小さく苦笑を浮かべてそう言った。


 オウミが答えないままにっこりと笑って、続いて「鴉丸さん」と隣へ声を掛けた。


「彼は『出入り口』が分からないと思うので、『通りの外』まで連れて行ってあげてください」

「おう、そのつもりだ」


 そう言いながら立ち上がると、鴉丸は日野宮を見た。


「さぁ、行くぜ」

「よろしくお願いします」


 立つとますます大男に見える鴉丸に促され、日野宮はオウミに再び会釈をしてから店を出た。




 外は先程と変わりなかった。宙を泳ぐ魚達を眺めながら、真っ黒い大きな鴉丸の後ろをついて歩いた。

 しばらく真っ直ぐ行ったところで、彼が街灯の細い柱を三回叩いた。


 不意に、ワントーン視界が暗くなってくらりとした。目が慣れるまで瞬きを繰り返した日野宮は、住み慣れたアパートの通りにいると気が付いて「あ」と言った。


 本当に摩訶不思議な通りだ。そう思いながら礼を言おうと振り返ったところで、ハタと動きを止める。つい直前まで大きな彼がいたはずの位置には、誰も立っていなかった。


「あれ……? もしかして俺だけが出てきてしまったのかな」


 あたりをきょろきょろとしたら、随分下の方から鴉丸の声が聞こえてきた。


「どこを見てる。俺はここだ」


 そちらに目を向けてみると、大きなカラスが立っていた。話しかけたのは自分だぞと主張するように、鳥らしからぬ様子で右の翼だけを広げて振っている。


「……鴉丸さんて、カラスだったんですねぇ」

「驚きが浅い、もうちょっと他の反応の仕方はなかったのかよ?」

「なんか顔付きとか、普段見るカラスより強そうな感じが『鴉丸さんっぽい』」


 思ったことを伝えたら、彼が「ふうん?」と言ってニヤリとした。バサリと大きな翼を広げると、目の高さまで飛んできた。


「俺、お前のこと気に入ったぜ。また店に来いよ。俺は常連客だからいつでもいる」

「うん、きっといつか行くよ」


 行き方なんて分からないよ、とは答えなかった。満足げに一声鳴いた鴉丸が、あっという間に空を飛んでいくのを見送った。


 魚が宙を泳いでいる通りがあって、喋るカラスと言葉を交わしたなんて、まるで夢みたいな時間だ。日野宮は、美味な酒の甘い香りを覚えながら、気持ちがいいまま背伸びをした。


 明日になったら、忘れてしまっていたりしないだろうか。


 そんな物語の寂しいオチを思って、微笑む口の中に「――俺は覚えていたいなぁ」と酔い心地みたいに呟いた。それから、自分の住んでいるアパートへと向かって歩き出したのだった。

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あやかし海中通り店 百門一新 @momokado

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