第2話
「えぇと、あの、魚が宙を泳いでいたんですけど…………先程あなたは『人間の大人』と俺のことを言いましたよね……? 一体ここって何なんですか……?」
「ここは海中通りと言いまして、どこからでも入れる異空間になっています。子供達が迷い込んでくることは時々あるのですが、大人はあなたが初めてですね」
男はそう言うと、ふふっと笑う。
日野宮は、ますますわけが分からなくなったような表情をした。
「じゃあこの店、実際は存在しないとかそういう感じだったりするんですか?」
「この店は実在していますよ? ただ、人間が見つけられないだけです。本来なら人間以外の方しか来店しないものでして」
「はぁ。つまり人間の利用がない通りと、その店……?」
「その通りです。私だって人間ではありませんよ。人の姿をしていますが、精霊の一種です」
日野宮は「なるほど……?」と疑問形で言って、首を傾げた。
「ああ、申し遅れました。私はこの海中通りの『責任者』で、店主を勤めさせて頂いているオウミと申します」
「あっ、俺は日野宮です」
日野宮は、丁寧に挨拶されて慌てて会釈を返した。
すると、隣の男が顔を顰めて「おいコラ」と言った。
「何馴染んでんだよ。普通はもっと驚くもんだろ。嘘だとか、騙されているんだとか思わないのかい」
「うーん、なんというか、信じられないくらいびっくりしているんだけど」
日野宮は言いながら、思わず苦笑いを浮かべた。
「実際、目の前を魚が泳いでいるのを見たら、他にそんなことが起こっても不思議じゃないかもなぁと思いまして。人間じゃないと言われても、いまいちピンとは来ないけれど」
正直に打ち明けたら、何故かオウミが上品に笑った。男が仏頂面で姿勢を戻して、水の入ったグラスを手に取る。
「けっ、都合のいい頭をしたヤローだぜ」
「まぁ、落ち着いてください
疑い深い嫌な人間の大人とは違いますから、とオウミが言う。
鴉丸と呼ばれた男は、何も答えないまま無言で水を飲んだ。ふっと微笑みかけた彼が、日野宮へと目を向けて尋ねた。
「さて。ご注文はどうします?」
「あっ、そういえば普通のお金で大丈夫なんですか? 注文したいのは山々なんだけど、ここ、俺の知っている店とは大分違うみたいだから……」
ポケットに入れている財布を取り出そうとして、ハタと気付いて不安になる。問い掛ける彼の表情と目は、どうしよう、かなりお腹は空いているんだけど、と物語っていた。
オウミと鴉丸が、きょとんとして顔を見合わせた。それから、二人揃って唐突に笑い出した。
「え……? あの、なんで笑っているんですか?」
おろおろと二人を交互に見やっていると、隣にいた鴉丸にバンっと肩を叩かれた。
「あんた面白ぇな!」
「何が面白いのか、俺にはさっぱり分からないんだけど……?」
「馴染むのが早いっつうかなんつうか。まぁとりあえず人間のお金も大丈夫だから、ちゃちゃっと注文しな。さっきから腹の虫が鳴いてるぜ」
鴉丸に指を向けられて指摘され、日野宮は顔を少し赤くして自分の腹に手をやった。小さな音だったから気付かれないと思ったのに、とじわじわと恥ずかしくなってしまう。
ちらりとカウンターの上にあるメニューを見やった。何を食べようが悩んですぐ、ふと、『母の味』と書かれているメニュー名が目に留まった。それには料理の種類や説明は載っていない。
「あの、質問してもいいですか……?」
「はい、なんでしょう?」
戸惑いがちに小さく挙手した日野宮は、訊き返してきたオウミにこう続けた。
「――『母の味』って、どんな料理なんですか?」
すると、普通の人間に見える店主の彼が微笑んだ。目元をふんわりと優しく細めると、女のように細くキレイな白い手を上げて説明する。
「『母の味』は、『母の味』ですよ。記憶に残っている母の手作り料理の中から、一品を私が作ります」
「そんなこと、出来るんですか?」
「はい。記憶を調味料にしますから、出来ますよ」
そんな味付け方法なんて聞いたことがない。よく分からないなと思いながら、日野宮は再びそのメニュー名へちらりと目を向けた。
大学を卒業して以来、忙しい毎日で実家には帰っていなかった。時々、海の匂いがする故郷を思い返しては、とても恋寂しい気持ちになる時もあった。母がよく作っていたベーコンの入った野菜炒めと、薄いけれど甘みのある味噌汁の味だって今でも覚えている。
「……じゃあ、『母の味』をお願いします」
「はい」
そう答えたオウミが、そっと手を伸ばして日野宮の頭に触れた。そして、ぱっと何かを掴んだように手を握ると、足早にカウンターの奥へと消えていってしまった。
例の、不思議調味料というやつだろうか……?
疑問を覚えながらも、いつの間にか出されていた水に気付いてコップを手に取った。氷が入っているわけでもないのに、それはとても冷たくて美味しかった。
しばらくすると、懐かしい匂いが鼻をかすめた。
「美味そうな匂いだな」
ふっと少しだけ顔を上げて、鴉丸が呟いた。
「そうだね」
相槌を打つ日野宮は、彼と同じくずっとカウンターの奥の方を見つめていた。
匂いに意識を向けていると、料理を作る母の姿が脳裏に浮かんだ。いつも大雑把に材料を切り、手際よく調理していたものだ。腹をすかせて帰ってくるたび、畑から急いで戻ってきて短時間で料理を作り上げてしまう、とても優しい母親だった事を思い出した。
知らず手を握り締めてしまった。オウミの「お待たせしました」の声が聞こえて、ハッとして顔を上げると、湯気のたつ料理皿を載せて戻ってくる姿が見えた。
鴉丸が無言で見つめる中、彼がそれを日野宮の前に置いた。
「どうぞ」
そう言うと、にっこりと笑って再びカウンターの奥へと戻っていった。
片付けのためだろう。日野宮は、目の前に視線を戻した。そこには米茶碗に盛られたふっくらとした白米、醤油の香ばしい匂いがする野菜炒め物、それから温かな匂いを漂わせて湯気を立ち昇らせる味噌汁……――。
「……いただきます」
まるであの日と同じメニューだった。ゆっくりと軽い箸を持ち、記憶と違わないその『夕飯』に手を伸ばした。
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