第21話 夢追う少女と希望持つ男の巻

 沢江蕨高校から下校した私は、直ぐに風呂に入ることにした。

 温かな電球の光が化粧室を照らす中、部屋の鍵が閉まっている事を確認し終えた私は着替え用のパジャマと体を拭く用のタオルをタンスから出す。

 一通り準備を終えた後、服を洗濯籠の中にしまい風呂場へ入った。


 私が風呂場に入った直後、湯船のお湯が溜まっていることに気が付いた。どうやらお母さんが用意してくれたようだ。

 きっと気を利かせてくれたのだろう。お母さんに心の中で感謝しつつ、私は風呂での作業を始めていく。


 風呂場で最初にやることは、体をお湯に慣らすことだ。

 体全体にシャワーのお湯を浴びせ、程々に温める。

 こうすることで、体の疲れが少し取れると私は思っている。


「あったかぁ――い。ちょうどいい温度だ」


 この日のシャワー温度は適正だった。

 温かいお湯に顔の表情を緩ませつつ、私は全身を濡らしていく。

 

「よし、こんな感じでいいや。先ずは頭を洗おう」


 程々に温まった私は、風呂場のシャンプーを両手に出す。両手を擦り泡立ってきたことを確認してから、頭皮や髪の根元を重点的に洗っていく。

 二分ほど経った後、髪の毛についている泡を洗い流す。これでも十分だと思うのだが、私は決して忘れない。


「接那、男の人みたいにシャンプーだけじゃ駄目よ! 絶対にコンディショナーとかトリートメントを使いなさい!」


 トリートメントとかシャンプーは中学時代全く使わなかったが、かなちゃんに注意されてからはしっかりと使う様にしている。


 わしわし、わしわしとシャンプーとリンスを用いて泡を作っていく。髪の毛が程よく泡立った後、ボディソープで体を洗った。お湯で洗い流した後は、湯船につかる。体の芯から温まっていく感覚を味わいながら頬が高揚していく。


「荒畑さん、コーチを引き受けてくれてよかったぁ……」


 私は肩までつかりながら安堵の声を出す。これでサッカー部に入部する機会を得られた。それだけで無く、荒畑さんが練習試合で出場させることを確約してくれたのだ。荒畑さんの提案によって、私がプロになるための道が開けるかもしれない。


 そんな淡い期待を抱きつつ、私はストレッチに励んでいた。


「ふぅ――気持ちよかったぁ。じゃ、ストレッチやるか」


 熊の刺繍が施されている紫色のパジャマを着た私は自室へと戻っていった。自室でやることはまずストレッチだ。私は体育の授業でやるような手順でゆっくり体をほぐしていく。筋肉が喜びの声を上げているのが理解出来た。


「よしよし、ほぐれてきたなぁ――」


 私は独り言を呟きながら身体の可動域を確認する。今の所、長座体前屈の様なポーズをするとつま先まで付くようだ。最低限これをキープしよう。そんなことを想いつつ、私は明日からの学校の準備を始めるのだった。


 一方その頃、エスガバレー埼玉にて――


「失礼します」


 黒色のジャージを身に纏った荒畑が扉を開ける。彼の視界にうつったのは、光り輝く黒長髪を持った端正な顔立ちの女性だ。その女性は黒色の二―ソックスに黒色のズボン、白色のワイシャツを身に纏っており落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 その女性は荒畑が来たことを横目で確認してから「どうぞ、お座りなさい」と静かに黒色のソファーを指し示す。


 荒畑は女性の指示に従い、背筋を伸ばしつつ座った。目の前にいる女性は机に置かれているティーカップを数秒間口元へ運ぶ。三秒程度ゆっくり茶を口へ流し込んだ後

に音を立てることなく元の場所へ戻した。


「うん、やはり紅茶はおいしいね。荒畑君、君も飲むかい?」

「いえ、遠慮しときます。初音さん」

「ふふっ、そこは飲ませていただきますって言うべきだと思うけどね、まぁいいさ」


 初音はそんなことを呟きながらティーカップを机の上に置く。


「さてと。少し話そうか」


 初音は荒畑の顔を見つめながら椅子に深く腰掛ける。荒畑を見る際の表情は優しげでありながら狡猾さも見えるようだった。そんな様子に荒畑が気が付かない。


「今回の一件は、私としてもかなり焦らされたよ。何せ、急に君がいなくなったものだからね。お陰で高校の先生からお怒りの電話が来たよ。幸いこちらで何とかできたものの、次同じようなことがあったらこれからの共同活動は無しにするってさ」

「……すみません」

「まぁまぁ、私は怒りたい訳じゃない。次回気を付けてくれって話さ。それにしても、荒畑君――どうも一人の女子生徒に興味を持っているらしいが、それはそういう事じゃないって思ってもいいよね?」

「絶対違いますよ!!」


 荒畑が声を荒げると、初音は「ハハッ、冗談だよ冗談」と笑みをこぼしながら笑ってみせる。声色を聞いた荒畑は彼女が怒っているのか許しているのか分からず冷や汗をかきながら焦りを感じていた。


「ほっとしたよ。流石に変な感情を持っていたら契約打ち切りしようと思っていたからね。いやぁ、良かった」

「俺そんな風に見られていたんすか……」


 暗い表情の荒畑に対し、「そうじゃなかったから良かったよ本当に」と言いながら乾いた笑いをする。その様子を見た荒畑は「そうっすね」と軽く言いながら膝上に置いてある両手を軽く握りしめた。一旦咳払いし、初音が話し始める。


「今シーズンはJ3昇格。これを目指して戦っていく予定だよ。勿論、Jリーグ百年構想クラブには認定されているから安心してね」

「そうですか、すると2位以上に上がれればJ3昇格が出来るんですね」

「そういうこと。私達は一致団結して戦っていく必要がある。その一員に加わって貰うためには……ちゃんと結果を残してもらわないとね」


 荒畑は初音から提示された目標に対し適当に相槌を打った。選手としての価値を希望していた彼にとって、試合に出られないにもかかわらず提示される目標などゴミ同然だからだ。


「けどね、荒畑君。私達は勝てていない。その理由は何だと思う?」

「普通に弱いからだと思うんですけど、違うんですかね?」

「ストレートだね。それは確かにそうだ。けどね。もう一つ理由があると思うんだ。それはね、内部競争が少ないからだよ」


「内部競争が少なければ、チーム力の底上げには至らない。これはどんな組織でも一緒だ。競争を高めるために、荒畑君はコーチング力を付けてほしい」

「コーチングって……?」

「コーチングは簡単に言うならば、選手自身が答えを見つけ出すという力だ。ただ教えるだけの教師とは違う、答えを提示しない教え方だと想像すれば良い」

「なるほど、そういうことか。けど、何でその力がいるんだ?」

「さっき言った様に内部競争を生むためさ。きっとその時になれば、君も理解出来る様になるだろう。だから、君は沢江蕨高校でコーチとして仕事をしてくれ。勿論、君が相応の力を手にしてくれたら、試合出場を認めよう」


 初音が言った言葉に対し、荒畑は目を見開いた。今シーズン試合出場がかなわないと思っていた彼にとって思いもよらないチャンスが巡ってきたからだ。ここで断れば二度と選手としての道が開かなくなるかもしれない。ならば、ここでつかみ取るべきだ。


 そう考えた荒畑に、迷う余地は一つも無かった――


「分かりました。私、荒畑宗平は沢江蕨高校サッカー部を鍛え、全国で結果を残します。それだけでなく、霧原接那もより良い選手になるように鍛え上げていきます」

「分かってるならいいんだ、荒畑君。私を失望させてくれるなよ」


 初音は真剣な表情をしている荒畑に対し目元を細めながら柔らかい声色でそんな風に言った。荒畑が部屋から出た後、初音は窓に映る月を眺めていた。


 長い、長い夜が終わった。


 紆余曲折しながら重なり合った二人の物語は、これから始まる――

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