第3話 硝子のハートの巻
月は二月から三月へと変化した。
この日は三月の初日。
季節は冬から春へとゆっくり変化してきている。
証拠として、今まで低かった気温が緩やかに上がってきていたのである。
新生活が始まるということで入念に準備をしているもの。
師匠に鍛錬を積んでもらっている者。
はたまた自らの恋路を果たすべくメモ帳にこれからの生活を書き記している者。
これらの情報はあくまで同学校に進学する高校一年生の生活内容である。
ともかく、世間はこれからの新生活の準備を刻々と進めていた。
そんな中、次に進める行動をせずに過去に向き合っている男がいた。
とあるアパートの12m²、家賃6万円の部屋。部屋内には、飲み干されたノンアルビールや割れた食器が散見される。部屋の内装は、最低限の生活用品はそろっている。
が、これほどの費用を払って住みたいかと聞かれたら断る人間が大半だろう。
木製の人物確認用の穴がある玄関を開けると、靴を置く棚入れが視界に入る。
靴入れにはボロボロになるまで使い古された茶色のトレーニングシューズやひもが切れたスパイクが乱雑に置かれている。
左側には錆びた流し台とコンロが置かれており、年数が経過した古いものだと分かるだろう。勿論、自動食洗器などという高級なものはあるはずもなく、洗われていない食器類が無造作に流しの中に入れられている。
左手奥にあるスペースには扉があり、その奥には正方形上のプラスチックで作られた湯舟が置かれている。
右手にも同じく扉があり、そこには洋式トイレが置かれている。
幸い、洋式トイレは清潔感が溢れていた。
勿論、洗濯機はない。そのため基本的に使ったユニフォームやパジャマはコインランドリーを用いて洗っている状況だ。それにも関わらず、服は床中に散乱している。
血が固まったような異臭が放たれた汚らしい汚部屋とでもいうべきだろうか。
また、布団は過去にバザーで売られていた5000円のものである。
寝心地は中々良いものの、寒さをしのげるかと言われると心ばかし世知辛いというのが事実である。そんな環境で、男は過去に執着していた。
その男こそ、荒畑宗平である。
この男は、クビにされてから虚しさにかられつつ暴飲暴食を繰り返していた。
アルコールも入っていない酒で酔い、ただ眠る日々。お金も利益も生み出さない空虚な日々に男は慣れてきてしまっていた。
今何日かも思い出せない。今何をすべきかもわからない。
けれど、生きるには動かなくてはならない。
そう思った荒畑は「Gunma」と書かれている赤色のTシャツと赤色の紐付き半ズボンのパジャマを着たまま試合映像を見ていた。
荒畑は今まで、オフェンスという点にしか焦点を当ててきていなかった。
それが選手としての価値であると感じていたからである。
だがしかし、前回の話し合いでその発想はもはや無価値であると思い知らされた。
自らの考え方を変革させなければならない。そうしなければ、一生過去にとらわれたままだ。
過去の自分を救うため、未来の自分自身に活かすため。
そのために、荒畑は鮮明に記録されている試合映像を見ていたのである。
5分間荒畑は試合を見続けた。
真剣に瞬きもせず、じっくりと現実を受け入れていった。
最終的に、映像を見たのは8分間。
その間に荒畑の体に起きた事象は非常に興味深いものだった。
開始2分で手を震わせた。
開始4分で唇を震わせた。
開始6分で言葉が反響した。
開始8分で、真実を知った。
伊佐美が提示してきていたグラフは事実ということだ。
試合映像に記録されていた中で荒畑がスプリントした回数はおよそ10回。
それに対して他の選手たちのスプリント回数は30回をゆうに越している。
実際の試合でも、走れていなかったのだ。
あのデータは嘘ではなかったのである。
荒畑は、深く腹からため息をつきながら、スマートフォンをテーブルの上に置く。
黒色の瞳にはハイライトなど入っていない。
荒畑は、足を震えさせつつ椅子に座る。
天井を見て「ふ――」と息をついた後、椅顔を下げ机においてある手帳を手に取る。
使い古された赤色の手帳。そこには荒畑がかつて関わってきた人々の連絡先が書かれている。
尤も、チーム内で会合をしているときに酒を飲んでいるふりをしながら受け取った連絡先なので、深い関係性は築いているわけではない。
とどのつまり、ボッチである。
シラフの状態で連絡先を交換していた荒畑はそのことをちゃんと理解していた。
このメンバーに、仲が良い人が一人もいないこともだ。
荒畑自身、プライベートの時間を一人で練習することに充てていたため自業自得ではあるが頼れる人がいないというのはやはり心もとない。
将来が空白になってしまっている状況の中で、人脈もない状態。
自ら広げていくための力を持ち合わせていないということも相まってまさに絶望的。
そう思いながら寒々とした外を窓から眺める。
木々には最近降った雨が冷え固まり
荒畑は、玄関前の段ボールに置かれているサッカーB級ライセンスとフットサルB級ライセンスの修了証に目をやるが、すぐに目線を切り、机に置かれている様々な冊子の山から一つを無造作にとった。
冊子には、IT系統から食品系などジャンル様々に事細かく仕事内容・給料などが書かれている。
この中から、どこかに応募をしなければならない。
しかし、荒畑はどこにも申し込む気が起きない。
その仕事に興味を持てる自信がないからだ。
かつて高校生の頃にやっていたパン屋のバイトも、簡単に飽きた。
機械マシーンのようにパンが入った袋に穴が開いていないか確認し続ける仕事は、足腰を鍛え上げることはできたが心肺機能は鍛え上げられなかったからだ。
荒畑はあくまで、仕事を選手として技術を向上させるための手段としかとらえられなかったのである。
しかし、残金160万円では働かないと生きていくのが難しいというのが現実である。
特に趣味に使ってはこなかったものの、光熱費や通信費、食費に家賃などから考えると半年間持たせることが出来るかわからない状況だ。
直後、心から黒いものが湧いてくる。
吐き出したくても吐き出せないもの。叫びたくても叫べないもの。
現実、つらい現実から目を背けたくても立ち向かわなくてはならないということ。
けれども、その黒いものに勝つことはできなかった。途端、虚しさが彼の心を満たした。
荒畑はこういう気持ちになればどうすればよいかを知っている。椅子に座りながら何も考えずに眠ることである。
そして、眠り続け落下することを待つのである。そしたら、黒い気持ちは少し安らぐのだ。
そんな時、扉を開く音が聞こえてくる。
突如聞こえてきた音に荒畑は驚き椅子から落下した。
背中から落下し、痛いと感じながらもすぐに体制を直してから、「はいはい、今開けまーす」と行ってから扉を開ける。
扉の前に立っていたのは、頭を丸くまとめている190cmほどの男だった。黒光りする筋肉質の肌を見て、スポーツをやっているのだろうかとふと脳裏によぎる。だが、紺色のジャケットに緑色のネクタイを身に付けていることからどうやら営業であると判断することが出来た。
「部屋を、間違えているんじゃないですか?」
「いえいえ。部屋は間違いないですよ」
荒畑は怪訝な顔をして聞くが、相手は途端に訂正した。
何か変なメールアドレスでも登録したかなと荒畑は脳裏によぎる。
何せ、このような場所に来ている時点で異常だからだ。
「はい、どうぞ」
紺色のジャケットに緑色のネクタイをつけている男が、荒畑に笑みを見せながら名刺を渡す。丁寧な対応に感心しつつ、荒畑は名刺に書かれている文字をじっくりと読んだ。
名刺には、エスガバレー埼玉所属兼営業部門マーキス・ホールと書かれており、どこかの企業の営業人物であると理解することが出来た。
荒畑は詐欺じゃないかと一瞬だけ思ったが、念のため営業かどうかを確認するためにこのように質問した。
「すみません、本社はどちらで?」
「はい、こちらに書かれている住所です」
「ありがとうございます」
荒畑はお礼を伝えてから、スマートフォンを用いて住所検索をした。すると、名詞と一致する名前が含まれた会社名が出てきたのである。荒畑はこの人物がちゃんとした営業マンであると理解した。
「なるほど……営業の方ですか。一体どのようなご用件でしょうか?」
「はい、今回はこの商品をぜひとも契約していただきたく……ってあれ? すみません、少し確認をさせてください」
マーキスは一瞬眉を上にあげてから、荒畑に名刺を確認させてほしいと頼み込んだ。そのお願いを断る必要性がなかった荒畑は、名刺を彼に確認させた。
「あ、申し訳ございません。どうやら名刺を間違えてしまっていたようです」
どうやら、営業部門のマーキスという名刺は取り間違えだったらしい。この発言に対し荒畑はさらに疑心暗鬼になり、目の黒さが更に濃くなった。
「申し訳ございません。私、このようなものです」
マーキスは謝意の言葉を述べながら、左ポケットからもう一つの名刺を取り出し頭を下げながら荒畑に両手で渡した。つるつるの肌触りの名刺には、黒色のインクでJFL所属エスガバレー埼玉スカウト部門マーキス・ホールと印字されていた。
この名刺を見た直後、荒畑の瞳に光が入る。疑心暗鬼になった気持ちはそのままではあるが、ともかく彼の心の中に不思議な高揚感が生まれていた。
「ああ、すみませんね。私は監督からあなたをスカウトするように言われたんです」
「……え?」
荒畑は意味のない言葉を口から漏らした。当然の反応である。
もしかしたら詐欺なんじゃなかろうか。そんな思いがよぎるのも無理はないのである。
荒畑は、真剣に話を聞くために「部屋は汚いですが、入ってください」と言ってからマーキスを部屋に招き入れた。マーキスは部屋に入った直後、ゴミを見るような瞳を一瞬だけしていたが荒畑には見せることなどしなかった。
「さ、どうぞどうぞ。お座りください」
荒畑は下手糞な作り笑いを顔に浮かべながら、マーキスとの話をするために席を用意した。木製の使い古された椅子。マーキスは若干嫌な顔をしながらも、静かに椅子に座る。
そして、マーキスが座ったことを確認してから荒畑は扉の鍵を閉め、自らはりんごと書かれている段ボールに座る。
荒畑は、まずこのように質問した。
「何故、私をスカウトしにきたのですか?」
理由の一つ目は、ごく単純な疑問だった。野球のように能力が高い選手を視察しに来たということとは訳が違う。戦力外通告を受けた男を雇用しようとしているのだ。問題があってチームを辞めさせられた選手を雇用する必要性はないはずなのである。
その質問に対し、マーキスは笑みを浮かべながらこのように答える。
「決まっているでしょう。私達の監督があなたをスカウトするように指示したからですよ」
「……そうですか」
荒畑は魚の目をしつつ、指を膝の上で軽く動かす。
見ているとも気が付かずに動かしている姿を晒す荒畑に対し、マーキスは若干違和感を感じていました。数秒立つと、荒畑の指の動かしは止まりましたが明らかにそこには焦燥感が見える。
「もう一つ、質問いいでしょうか?」
「どうぞ」
「私に選手としての、価値はあるのでしょうか?」
そういった直後、荒畑は膝上で握り拳を作っていた。目が若干充血しており、体制が前に向かっている。その姿は静かではあるが微かに怒りを滲ませているのが読み取れた。
マーキスはこの場を保つべく、このように発言した。
「はい、ありますよ。あなたは得点王としてチームを引っ張ってきました。その証拠としてあなたのグッズは多く売れていました。それはつまり、チームとしてではなくあなたに魅力があったから購入されたんです。私達チームは、あなたのように熱情あふれた点取り屋を非常に必要としているんです」
「……そうですか、そうですかええそうですよね!!」
その言葉を述べた直後、荒畑は豹変した。
先ほどまでの暗そうな人物像ではなく、明るい人間像へと変貌したのである。
もはや狂気的である。
「この度は、チャンスを頂きまして誠にありがとうございます。チームに貢献できるように誠心誠意をもって尽くさせていただきます」
地べたに這いつくばり土下座をしながら、早口かつ声を震えさせながら、荒畑は伝える。
「分かりました。それでは、次回の連絡をさせていただきますので、こちらのメールアドレスに連絡をお願いいたします」
マーキスは、持っていていたメモ帳の一ページを破ってからボールペンでメールアドレスを書きこんだ。そして、彼の這いつくばっている姿を見る事すらなく部屋から去っていった。
扉が閉まる音と共に、荒畑は顔を上にあげる。
顔には埃が、床には抜けた髪の毛がついていた。
そんな姿を気にする素振りすら見せず、荒畑は頬を引っ張った。途端に、頬がちぎられるような痛みが走り「いたっ」と言いながら右手を離した。
同時に、先ほどの邂逅が夢でないと証明された。荒畑は部屋の中で汚い声を出しながら、むせび泣いていた。
涙の中で、彼は誓う。
絶対に、選手として認められてやると。
一方そのころ、マーキスは黒塗りの高級車を運転していた。集中しながら運転を行っている中、後部座席では談笑が行われていた。一人は黒色のスーツに緑と青のストライプ柄ネクタイをつけた中年男。もう一人は、頭が禿げかかっている50歳程度の金色のスーツを着た男である。
50歳程度の男はアルコールの匂いを口から出しながら、隣に座っている男に対してこのように話しかけていた。
「最近、JFLの試合を見てるんですけど、面白いですねぇ。プロ入りするんじゃあないかって、いわ、いわれていた選手達が老後の生活、を考えて企業法人が運営するサッカーチームに所属する。その集大成のようなリーグですからね」
「集大成ですか。確かにそうですね」
「いや――それにしても、エスガバレー埼玉のGMさん、だっけか。あの人見る目ありますよね。何せ、有望株のあんたを監督に就任させたんだからな」
「お褒めの言葉を頂き誠に恐縮です。そちらの会社の方も経営が上手く好転しているようですね」
「ははっ、近年の半導体需要には本当に助けられていますよ。特にITと医療を組み合わせたシステムは社会で爆発的に増えているからね。我々はあくまでその流れに乗ったまでよ。がっはっは!!」
控えめな男に対し、金色スーツを着た男は高笑いをしていた。
黒髪の男は軽く舌打ちをしていたが、そんな声など聞こえるはずもない。
そんな中、黒色のスーツの右ポケットの中でバイブレーションが鳴る。男は好機だと思い、「すみません、少々お時間を頂きます」と行ってから電話に出た。
「はい、エスガバレー埼玉監督の……です。はい、どうも……ええ、その件に関しましてはちょうど良い人材が見つかりました。フットサルB級コーチとサッカーB級コーチの両方の資格を持っている人材です。こちらのチームから派遣をさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします」
応答主はそう伝え終えてから、電話を切る。
「一体何の電話でしたか?」
「コーチ依頼だよ。前々から頼まれていた人材だが、
「いえいえ、誠にもったいないお言葉です」
男に対し、マーキスは丁寧な返答を行う。
それと同時に、マーキスは知っていた。
今回スカウトしたあの男には、きっと壮絶な運命が待っているということに――
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