カエル
再び佐藤天彦の意識が漸く棋王戦変則二番勝負の第二局の盤面に戻ってきたと同時に、さっきから頭の中で鳴り響いていた音楽の正体が何なのかハッキリしてきた。
「ショスタコ レニングラード」思わず、そう心の中で呟いていた。ディミトリ・ショスタコーヴィッチが作曲した交響曲第七番、別名「レニングラード」。そう、今の局面と全く同じ状態とも言える。
自分も棋王戦挑戦者決定変則二番勝負の第一局では、世間で「暴玉」と呼ばれたほどの王自らのゴール前へのドリブル、マラドーナの7人抜きを彷彿とさせるゴールへの僅かな一条の道を切り開かれての豪快な勝利を献上してしまったものの、この第二局の出だしは、ショスタコーヴィッチの「レニングラード」の始まりよろしく勇壮に指し進められていたはずだ。メンタルも先日の対藤井聡太戦初勝利を糧に自信も取り戻せていたし、先日の第一局だって追い詰めていたはずだ。しかし、なんだ本局は?藤井聡太に一回も王手をかけられたわけでもなく、まだ手数もさして進んだわけではないのに、この閉塞感は!?気付いたら戦争が始まっていて、さらに知らぬ間に包囲されているではないか?これでは激戦地となったレニングラードの市街地よろしく蹂躙されてしまう運命が待ち受けているみたいではないか?俺は一体どこで負けたというんだ?どこに失着があった!?誰か教えてくれ!
「これじゃあ、俺はまるで茹でカエルじゃないか。。。」
必死に考えても、打開できる手はなく、頭に浮かんだのは、茹でカエルになっていつの間にか死んでいる己の姿と最初は牧歌的とすら感じられたはずなのに、今や葬送曲のごとく鳴り響くショスタコーヴィッチの交響曲の不思議な音色だけだった。
「なんか貴族がカエルになっちまう寓話もあったような気がするなぁ。」
もはや、手のつけようのない盤上には意識が向かなかった。そして、いつもの投了前の儀式に気が回ることもなく、茫然自失としていた。そして、残り時間が10分を下回っていたことによる記録係りの秒読みの声に意識を呼び戻された時には、失意と尿意が猛烈に襲ってきていた。いつもなら、勝機や敗勢がしっかりと分かるので、勝負どころの前や投了後の囲み取材なども考慮し、トイレに立つのであるが、それすらも忘れていた。いや、もっと正確に言えば、そのタイミングすら逸してしまうほど、じわじわと敗勢に追い込まれていることすら気付かなかった、いや、気付けなかったのである。
「負けました。ちょっと失礼。」
唐突の終局。そして、敗者が席を立ち突如、異空間が現出する。
「茹でカエルのツラに小便かぁ」
もはや、悔しさすら感じなかった。トイレに向かう道すがら思ったのは、桁違いの読みの量と精度の高さである。かつて、自分が藤井聡太を評して「我々、藤井さん以外の棋士と藤井さんとの読みの速さと量、そして精度の高さには徒轍もないほどの大きな差を感じます。これは、その読みを勝敗の糧にしている我々としては根本に関わる話。例えて言うなら、数値を言い当てる際に、藤井さんだけは少数点第2位まで言い当てるみたいな。八冠の可能性ですか?有り得るんじゃないですか?」と語ったが、今すぐ「小数点第3位まで」と「八冠は間違いない」と発言を訂正すべきだと思った。
粘り強さに定評のある佐藤天彦元名人が、さて、これからどういう手を捻り出すのか?と固唾を飲んで見守る最中、いつもの儀式もなく突然の投了を迎えたため、ネット中継を見ていたファンからも驚きの声が次々と上がる。
「おい、なんだピコが珍しく投了水やリップクリーム塗る儀式もなく投了しちゃったぞ!」
「さては、投了水の飲み過ぎか?」
「イヤ、きっと藤井聡太の記者会見の際に渡す赤い薔薇の花束を買いにいったんだろう」
「それにしても、藤井聡太は相手に王手すらかけずに勝っちゃうなんて、もはや仙人レベルかよ!」
トイレで用を足した佐藤は、いろんな意味でスッキリしていた。「あ~ぁ、いい夢見させてもらったよ。トーナメントで藤井聡太に勝って優勝した時はちょっと自分に期待しちゃったけどなぁ。将棋ファンは、皆、藤井聡太の八冠見たいだろうから、藤井の応援だろうけど、将棋棋士仲間だけは、俺に期待もしてたろうな。ただ、今日は正直何もさせてもらえなかった。。。残念だが、この結果を受け入れるしかない。ただ、ある意味一番俺の挑戦を望んでいたであろうナベさんにだけは詫びを入れとくかな。」
ここに佐藤”薔薇”彦の花はここに散った。
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