貴族

 クラシック音楽好きで知られる元名人佐藤天彦九段の脳内では、対局中でありながら、ある音楽の旋律がいつしか流れていた。圧倒的な勝ち将棋の場合であれば、自らの壮大な構想・鋭い踏み込みの本手・発見した相手玉を詰ます好手順に酔いしれ、自分の好きな交響曲の調べが流れることはある。しかし、なんだ、この不気味な恐怖と不安が背中を這い上がってくるかのような感覚は!?戦慄の旋律ってか?いや、そんなオヤジギャグを考えている場合じゃない!でも、どうしようもない。。。俺の別名は貴族だろ!もっと気高き心構えで居られないのか?これじゃあ、まるで没落貴族みたいになっちまうぞ。しかし、その戦慄ともいうべき旋律はどんどん音量を増すばかりであった。佐藤天彦は今や、内部崩壊をおかしかけている自分を支えるため、現局ではなく、1ヶ月前の対局に思いを馳せていた。それは、現実逃避としては最高の一時の脳内麻酔であった。


 振り返れば、2ヶ月前から自分の人生はジェットコースターのようであった。そもそも、ことの発端は、やはりコロナであった。永瀬王座とのA級順位戦。佳境にさしかかってきた終盤の入り口で、マスク不着用の反則で負けを宣告されたのである。棋士として、満足な棋譜すら残せないことほど不名誉なことはない。


「俺は元名人であり貴族だぞ!俺の佐藤天彦対局全集にこんな不名誉な棋譜を残せるか!」


 立ち会いの鈴木九段から負けを告げられた際は、佐藤康光会長とも相談した上での決定であろうし、ルールはルールでもあるし、自分も元名人・貴族としての立ち振舞いもカメラの前では意識せざるを得ず、しぶしぶ裁定を受け入れ、帰ってきたものの、その日は、荒れた。どんなに酒を呷っても一睡もできなかった。


 弁護士とも相談し、日本将棋連盟相手に裁定取り消しの要望書を提出することにした。冷静に考えれば、コロナ禍を機に対局中は「長時間におけるマスクの不着用は負けとする」という特別ルールが設けられたのは事実であるが、それは、一体、”長時間”とは何分なのだ!?そんなの人や状況で異なるではないか?我々は棋士という頭脳を使う商売であるから、コロナに罹患してブレイン・フォグなど思考力や集中力が低下する後遺症にでもなってしまったら、棋士生命として終焉である。そういう意味では、永瀬王座は全く悪くない。立場が逆であったなら、自分も相手のマスク不着用を指弾していたかもしれない。それほど棋士の生命線に関わる話である。しかしながら、この曖昧なルールとも言えないルールで事前注意を受けることもなく、いきなりアウト宣告で屠られるのはあまりでないか?貴族がいきなりギロチンにかけられたに等しい。悪いのは「いつかこういうことが起こり得て、落とし穴に嵌まる者が出てくるかもしれない」と認識しつつも放置してきた、いわば「未必の故意」にも似た「曖昧さを残したルール」が悪いのである。したがって、永瀬王座に対して非難する気持ちは一切なく、30分とはいえマスク不着用であった自分の非を全面的に自認しつつ、棋士として対局仕切り直しの要望を出したのだ。


「俺は棋士だ。決着は盤上でつけさせてくれ!」その願い一つであった。そう、名人3期を務めた自分にも永世名人まであと2期なのだ。自分もまだ19人しかその資格を保持した者がいない永世名人の称号は、貴族 佐藤天彦には絶対必要であり、どうしても獲得したいものなのだ。


 しかし、そんな騒動の中でも時間は無情にも過ぎていく。気付けば、そんな心落ち着かない最中、順位戦と同様に重要かつ久しぶりに勝ち抜きを続けていて、タイトル挑戦も視界に入ってきた棋王戦の挑戦者決定トーナメントも準々決勝 棋界のスーパースター藤井聡太五冠戦を目前に控えていた。しかし、それまでの公式戦での対戦成績は0勝3敗。未だに一度も勝てていない。


 気持ちもささくれだっていたこともあり、いつも「タイム イズ マネー」と思っている自分は、その日いつにも増して千駄ヶ谷の将棋会館にギリギリでの到着になった。ネット配信のコメント欄には、すでに「ピコ、来ねえな」「いや、アイツはいつも5分前行動」「マスク忘れて取りに戻ったんじゃね?」みたいな会話が繰り広げられていた。


 将棋会館に着いてみるといつもファンからの励ましの手紙などが届いていることが多いが、今日はなんと薔薇の花束が届いていた。しかし、時間がない!そこで冬の対局にも関わらず、汗をかきながら、薔薇の花束と共に対局室に向かうことにした。


 対局室に姿を表した佐藤天彦を見たネット市民たちは、一様に声を上げる。

「おぉ、マスク忘れて来ないかと思ったが来たぞ!」

「なんだ!?あの薔薇の花束は?」

「まさか、藤井聡太に求婚するのか?」

「究極の盤外戦術!これは藤井聡太の読みにはさすがにないだろ!?」

「初手 お茶を上回る、初手 薔薇」

「佐藤バラ彦!貴族だけに妙にお似合い」

 などと凄まじい勢いでコメントが飛び交う。


 無心で気負うところがなかったのが良かったのか、局面が進むにつれて、対藤井聡太戦において、なんだか、初めて光が見えてきた。


 詰めろを掛け始めたあたりから、ゾクッとするような良い音で脳内にマーラーの交響曲第二番「復活」の旋律が低弦のフォルティッシモでが流れ出した。局面は進み、ちょうどフィナーレの凱歌が鳴り響いた頃に、なんと望外の対藤井聡太戦の初勝利を手中に手繰り寄すことができた。なんたる陶酔感!気持ちイイ!これぞ、佐藤天彦、復活の凱歌である!見たか!先の永瀬王座戦での不本意な巨人 佐藤天彦の死は、この復活を以てまた立ち上がるのだ!


 ネットでのコメントもまさかの展開にコメント欄が埋め尽くされる。

「ピコ、スゲェー!やるじゃないか!」

「さすがは元名人!」

「バラ彦、バラ彦!!」

「これから初手 薔薇の花束とか、そういう戦術流行るんじゃねぇか?」



 奈落と陶酔、両方を味わったこの2ヶ月間の来し方に思いを巡らせる現実逃避から自分の注意を再び盤面に戻したのは30分ほども経った頃だった。見る者には、長考に沈んで打開策を講じているように見えたかもしれない。


「ハーッ」全ての肺の空気が出てしまったかと思われるほど深いため息が思わず漏れた。


「なんなのだ、この目の前に座る男の将棋の進化の速さは!」再び思考が現局面から先日行われた棋王戦 挑戦者決定戦第一局 対藤井聡太戦へと離れてしまったーーー。





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