【サク読み】お早よう。

きょち

お早よう。

例えば朝起きたとき、今日初めて会った人への挨拶、彼との会話の枕詞。

祖母が教えてくれたこの一言の持つ色が好きで私は小さい時から随分とこの言葉に頼ってきた。

だけど、その時の想いと重なり脚色され、明確な輝きを持って発されるこの挨拶を今の私はできないで居る。

朝起きて鏡の前に立って理想の自分を描いていく。鏡の中の私はきっと今までのどの私よりも優れていて、涼しく魅力的なのだ。その「私」に少しでも近づきたくて熊野筆を顔に押し付けてみる。結果、豪勢で綺麗な女性が出来上がった。中身のない秀麗さに嫌気が指すも、これが自分が望んだ姿なのだと割り切って鏡を見る。空気の入っていない新品のサッカーボールのような顔がそこに映るが、「大丈夫、ちゃんと綺麗だから」と自分自身に暗示をかける。こうでもしないとそこに映る「何か」に気づいて今にも吐き出してしまいそうになるから。精一杯のお呪いを全身にかけて赤いヒールを履いて玄関を出る。ドアがしまる鈍い音を背中にやや軽い足取りで地を踏む。

履いたヒールからはイラつく程綺麗な音が出る。


※※※


次に玄関を開ける時には私が今朝のほとんどの時間をかけて作り上げた理想は枯れに枯れ、まるで使い捨てられたボロ雑巾のようになっていた。

六畳程のリビングの灯りをつけてベッドソファーに倒れ込み、今日を耐え抜いて二倍も三倍も重くなった身体をゆっくりと沈める。

暫くそうしたあとで喉の乾きに気づいて冷蔵庫を開ける。缶ビール一本と何となく買って食べないでいたキムチきゅうりを少し迷った挙句、取り出して閉める。 心の中で「乾杯っ!」と叫んで一気に三分の一飲み干す。それからまたクッションに顔を埋めてスマホで動画アプリを起動する。

お笑い番組を枕から顔を少しズラして観る。大して面白くない漫才師のネタもこの時だけは有り得ないほど面白いと、画面に薄ら映るしっかり笑えている自分に気づくときそう思う。それを最後に私は突っ伏したまま眠った。

それから一月程経ったとき、

朝は憂鬱で昼は綺麗な死体の様で夜は何もかもが面白い、そんな変わり映えのない毎日は一本の電話を持って終止符を打った。


※※※


祖母の葬儀は割とあっという間に終わってしまった。

祖母の死は寝耳に水だったが、八十七の長寿であったと聞くと何となく理解ができる。

両親を含む親戚とは久々の邂逅だったがほとんど何も話さなかった。家族絡みのどうたらこうたらは苦手だから長野県の小さな火葬場の控え室を抜け出して煙突を眺めながらひとり煙をゆらす。

特別おばあちゃん子な訳ではなかったから涙こそ出なかったが、幼い時の祖母との思い出は何故か鮮明に覚えている。

みだしなみはあしもとから、という事。

ありがとうとごめんなさいはいのいちばんに言う事。

ひとりになってはいけないという事。

ちゃんとあいさつを交わす事。

・・・。

思えば祖母が教えてくれたほとんどのことを今の私は出来ていない。

せめてもの感謝と謝意を込めて煙突から空へとのぼる祖母に遅すぎる「ありがとう」を煙草の煙と共に吐き出す。


※※※


祖母の葬儀から帰った日、私は数週間ぶりにベッドで寝た。

休日だったから起きたのは十一時過ぎで、何年か振りの熟睡だった。

何かおもしが取れたみたいにすっきりとした高揚感に浸りながらカーテンを開ける。

真昼の日照りが私の目の奥まで届く。

その時、世の中の基準値が私に定まっているかのように思えて。

蚊の鳴くような声で、しかし全力で、私は言う。


お早よう。


_____例えそれが遅すぎる挨拶だとしても。




【完】

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【サク読み】お早よう。 きょち @kyochi0823

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