第12話

 僕は先日の記憶を振り返りながら、一号室を踏み歩いた。婦人を撃ってから、その足で彼女の夫と太った息子を殺した。背中から心臓めがけて何発も撃った時、僕は、今と変わらず冷静だった。けれど記憶は鮮明に刻まれているというのに、ここで自分が三人の人間を殺したのだという実感は、まるで蘇ってこなかった。


 僕は、太った息子が倒れた先の部屋へと進み、そこにある窓から下を見やった。


 傾いた午後の眩しい日差しを受けた通りには、たくさんの人が集まっていた。怪我人を手当てする人、三日間の夜についてぎこちなく談笑するいくつかの人、よれよれの白衣を着て走り回る小柄な丸眼鏡の若者。


 壁に背を持たれて外部の人間に苦労話を聞かせる老女、そんな彼女を気にかけるように見やりながら煙草をふかせる男の労働者グループ。することも分からず、隅に座り込んで通りの人々を眺めている若者達……。


 テレビの世界の人間が、色彩のない町に突如として現れたような賑やかさがあった。僕の目に収まる短い範囲に、たくさんの人間の物語が同時に進行している。


 そんな目まぐるしくも飽きない光景を見ていると、何故だか肩から力が抜けていった。しばらくもしないうちに、ふと、僕は口寂しい空腹感を覚えた。


 何が食べたいかは浮かんでこない。ただ、食べるという行為がしたくなった。そういえば、喉もすっかり乾いてしまっている。通りのテントの一つに、食糧を配給している場所を見て、僕はゆっくりと踵を返した。


 その時、通りの賑わいを聞くのをやめた僕の耳が、室内から上がった微かな物音と気配を拾った。ごく小さな反応だった。しかし、まるで何者かに促されるように、僕は立ち止まって自然とそちらを振り返っていた。


 そこには、めちゃくちゃになった足場の隙間から、僕を窺う小さな黒い目があった。それはこの部屋に住んでいたネズミで、僕は痩せてスマートになったネズミを見て、すぐそのことを思い出した。


 そいつは、粒のような鼻をひくつかせ、そろり、そろりと姿を見せた。


 いつもブラッシングされていたような体毛は、すっかり薄汚れ、足元も弱々しく痩せてしまっている。温室育ちのそいつにとっては、今が栄養失調に近い状態なのか。


 ネズミは、僕のことを覚えていないようだった。一度後ろ足でふらふらと立ち上がって鼻を動かしたあと、メシをねだる様子もなく、途端に四つんばいになって床に顔を押し付け、すさまじい執念のような細かく素早い動きで餌を捜しにかかった。


 小さな屑を拾ってはかぶりつき、食べられないことに気づくと捨てる。そいつは床に散らばった衣類や割れた食器やゴミなどの上を、小さな身体で懸命に踏み越えて、何度も何度もそれを繰り返した。


 僕は、片膝をついてネズミを近くから眺めた。


「手の届くところに、必ず食べ物が約束されているなんて、ないんだよ」


 ネズミは言葉を理解しているのか、再び後ろ足で器用に立って僕を見た。濡れた瞳は、探しても探しきれない食べ物に悲しんでいるのか。それとも、彼の視線からだと見渡す限りの荒れ狂った世界に打ちひしがれているのか。再びやってくる夜の寒さに、たった一匹で耐えなければならないことに怯えているのか、僕にはまるで分からなかった。


 しばし見つめ合っていたネズミが、鼻をひくつかせると、忙しなく辺りを見回した。右を見やって僕に目を戻し、左を見やって再び僕を見る。


 彼はきっと、もう気付いているのだろう。守られていた自分の世界が終わってしまったこと、そうして何もかもが一変にして、全て一気に失われてしまったことを。――僕には、何故だかそう思えた。


 その時、ネズミが短い両前足に一度顔を押し付けた。


 ああ、まるで人間みたいだ――そんな感想を僕は抱いた。


 すると不意にネズミが顔を上げ、十数センチはある不安定な足場から飛び降りた。着地に失敗して転がり、それでもぐいと四肢を踏ん張って体勢を整える。


 再び動き出したネズミは、半径一メートル範囲の滅茶苦茶になった床の上を、右へ左へと細かく移動しながら食べ物を捜し始めた。踏まれて汚れた衣服の山に辿り着くと、そこにぐいぐいと鼻先を押し付けて、がむしゃらに突き進もうとする。


 そこで僕は、静かに手を伸ばしていた。


「もう、いいよ」


 そんな囁きが、僕の唇からこぼれ落ちた。


 いつもキレイにされていたネズミの身体が、短い間にすっかり汚れ果ててしまった意味が、なんとなく僕には分かったような気がした。


 もしかしたら彼は、本当のところは僕を覚えていたのかもしれない。知らない人間がやってくるたび、他の小動物と同じように必死で身を隠して息を殺して、そうして今日、僕がやってきから、わざと物音を立てて自分から進み出て来た――。


 いいや、でも結局のところは、どっちだって構いやしないのだ。必死に生きようとする小さな生き物を、無視するなんてもう僕には出来なかった。


 僕はこのネズミの様子を見て、親を亡くしたばかりの幼い頃、自分が必死に生きようとしていたことを思い出した。小さな手足を懸命に動かしている間に、一年が過ぎ、二年が過ぎて。


「僕もちょうど、食べる物をもらいにいくところなんだ。一緒に来るかい?」


 僕は、伸ばした手で彼の背にそっと触れた。痩せてはいるけれど、温かくて柔らかくて、確かな命の温もりをそこに感じた。


 ネズミが動きを止めて、そろりと僕を振り返る。様子を窺って戻すことも出来ない僕の手の指の間から、こちらをじっと見つめてきたかと思うと、


「きゅっ」


 そんな小さな震えが、ネズミの鼻先で起こった。彼は後ろ足で懸命に立ち上がると、短い手を精一杯持ち上げて、濡れた鼻先ごと僕の掌に押し当ててきた。


「そうか。一緒に来るか」


 僕は、彼をそっと手に乗せて、今度は一緒になってその部屋を出た。

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群衆とネズミ 百門一新 @momokado

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