第6話

 その頃、三人だった僕らは、安樂をきっかけにユミさんが加わって四人になった。


 男二人に女二人の、馬鹿みたいに仲がいいカップルのダブルデートは、毎回飽きずに遊園地の南側に広がるコスモス園に寄るのが定番だった。毎年、そこのコスモスの時期が訪れると、僕らはまるで春が来たかのようにはしゃいだものだ。


 そう思い返した僕は、ぼんやりと手元を見下ろした。


 よく覚えている。隣の地区に面する太平洋の海から吹いて来る潮風が、コスモス畑に溢れたいい香りを時々巻き上げていっていた。ユミさんは、彼女とお揃いのふんわりとしたスカートを着て黄色い声を上げていて、安樂は『美女二人』の光景をすごく嬉しそうに見ていた。あの時僕は、妻の足を見ていいのは僕だけだと、声も出さずに彼に鉄拳を見舞ったのも覚えている。


 きっかけは、コスモスが好き、と言った妻の一言だった。そうやって僕と安樂もコスモスの風景が好きになり、ユミさんも僕らの輪に加わった。


 僕らは、現実から切り取られたようなコスモスの世界に目を奪われた。そこに溢れ返る花の香りだったり、暑さが少し和らいだ風の匂いだったり、そんな空気に包まれた場所がとても好きになったのだ。


 ありきたりの『好き』だけを口にするのは容易い。けれど、その理由についての詳細をきちんと述べるのはとても難しい。


 僕らが知っている言葉は限られていて、その感覚の全てを伝える術を、僕は持っていなかった。それでも、きっと皆と一緒に行くからこそ、コスモスの風景は美しいのだろうと答えられる。たとえ、もう四人で過ごす事は永遠にないと知っていても――。


 つまり僕らは、あの暖かな時間が忘れられずにもいた。


             ◆◆◆


 家に帰った時の「ただいま」を忘れた事はない。


 何気ない日常で、当たり前のようにある「いってきます」も「いただきます」も「ごちそうさま」も、それでいて大切な言葉の一つなのだと僕は知っていた。


 僕は、素直になれない男だった。真面目な顔をして正面から向き合い、気持ちをぶつける事も出来ない男だった。


 安樂の家でパスタ料理を作った翌週末、カレンダーに赤い丸をつけた日がやってきた。僕はこの日、そんな自分の自尊心だとか意地だとか、その全てを忘れる。意図的して忘れようとしていた以前の努力はなんだったのかと呆れるほど、この日を素直に過ごせるようになったのは、どうしてだろう、と今でも少し考える。


 毎年、この日はよく晴れた。


 雨が降ったのは、僕が安樂のように初めて泣いた、四年前の一度だけだ。


 今日も見事な晴れ空が広がっていた。陽が昇ったばかりの透明な青空を仰いで、僕はそっと目を細めた。雲も見当たらないその空は、地上との境も曖昧なまま膨らんでいるようにも見えるほど広く思えて、その色彩に吸い込まれて行きそうだった。


 開け放ったベランダから、肺の奥深くまで息を吸い込む。そうすると、潮風と秋に穂をつける緑の香りがした。シーツとマット、洗濯物をベランダに干すと気分はますます良くなり、珈琲の味もとてもまろやかに感じる。


 年に数回、僕は妻とじっと向かい合う。


 妻は四年前にこの世を去った。三十一歳のまま、もう歳を取ることがない妻は、あの頃の美しいままに遺影の中から僕に微笑みかけている。


 平成十八年九月十五日、享年三十一歳だった。彼女と同い年だったはずの僕は、もう三十五歳になっている。それを思いながら真面目に正座をして、背筋を伸ばして真っ直ぐに彼女を見つめる。そうやって雑念を追い出して、僕は彼女と素直に向かい合った。


 こうして彼女と向かい合うたび、僕はいつも、彼女と過ごした多くの事を思い出した。笑いあった日々、いっぱい小喧嘩をしたこと、美味しい料理を食べて二人で並んで座ったこと、いつでも家で食べられるようになったカルボナーラ。


 それでも、一番多く思い浮かぶのは、困らせてしまった彼女の顔だった。


 最初から最期まで、僕は「ごめんね」も「ありがとう」もあまり言えなかった。なかなか素直さを出す事が出来なくて、言葉をぎこちなく態度にする。


 きっと伝わっていないんじゃないかと悩むたび、彼女は僕に「分かっているから」と言って微笑んだ。僕は、僕の全てを受け止めてくれる彼女に甘えて、そうして多くの言葉をほとんど言えず呑み込んだまま、彼女を失ってしまった。


 いつだって、別れは突然やってくる。病は、彼女を待ってくれなかった。


 愛していた、失いたくなかった。それでも僕は、僕を愛してくれた彼女のためにも、この世界を一人きりでも歩んでいかなければならない。四年前の雨の日に、しっかりしろと僕を殴り飛ばした安樂とユミさんと、彼女の家族にもそれを誓っていた。


 僕は十代だった彼女を、大学生の頃から知っていて、誰よりも一番長く一緒に過ごしたんだと思う。僕の中には、沢山の彼女が残されている。料理を作っている時だったり、服を畳んでいる時や食材を選んでいる時、ふと指先に彼女を感じる事がある。


 共に過ごした日々は、とても幸せに満ちていた。だから、こうして彼女と素直に向かい合うたび、僕は心の中で、遠い空の向こうにいる彼女に話しかけるのだ。



 いっぱい小さな喧嘩をしても、いつも歩み寄って仲直りの機会を与えてくれたのは、君だった。いってらっしゃいのキスも、本当はすごく幸せだった。


 僕は、君をいっぱい困らせてしまったけど、本当はずっと、「ごめんね」を言う機会を探してもいたんだ。どうか病に負けてしまわないでと言って、苦しんでいる君を困らせて本当にごめん。



 もう少しだけ一緒に生きたかったんだ。


 さよならなんて、したくなかった。


「愛してるよ」


 僕は、まっすぐ彼女の笑みを見つめ返して、静かに微笑んでその言葉を口にした。


 本当は、もっと君に言いたかった。肌で伝わるだけじゃない想いを、君にもっと沢山伝えたかった。


 愛してるよ、君が世界で一番好きだ。


 大好きな君を、いっぱい困らせてしまって、ごめん。



 僕は君が好きたった満開のコスモス畑を、今年も三人で見に行って、あの日の君に会いに行く。

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白状してはダメですか。僕は……さよならなんて、したくなかった 百門一新 @momokado

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