第5話
食卓いる安樂は、ユミさんの手を握ったまま、相変わらず歯が浮きそうな愛の言葉を熱心に語り聞かせていた。ユミさんは整った顔を冷たい彫刻のようにして、安樂を見やっている。
その様子をチラリと確認した僕は、小さく息を吐くと、広いキッチンに用意しておいた材料の中から『カルボナーラのソース』を一袋取ってフライパンに入れた。続いて濃厚なオレンジ色をしたチーズを一枚入れ、買って来たばかりの生クリームを開けて適量を流し込む。
火を付けてチーズを溶かしつつかき混ぜ、僕は並んでいる調味料から塩コショウを手に取って振りかけた。続いてウイスターソースを少量入れ、更にかき混ぜる。
フライパンの中で、材料が溶け込んでソースがとろとろになったところで、一旦味見をしてもう少しばかり生クリームを足した。それから、仕上げに水を切ったパスタを放り込んで強火でソースを絡めた。
「いい匂いね」
パスタをフライバンの中でソースと絡め始めてすぐ、ユミさんがほぅっと息を吐いてそう言った。
ふっと気付いて顔を上げると、すぐそばには安樂が立っていた。彼はどこか感心したように、僕が作業を続けているフライパンの中を覗き込んでいる。
「邪魔だ。あっちに行ってろよ」
話し合いは済んだのかという目で僕が睨みつけると、安樂は「だってさ」と情けない声で言って、弱った様子の目を僕の手元に落とした。
「ユミちゃんが、料理も出来るし家事もばっちりだし、もうお前と結婚すればって言うんだもん……。お前なら夜もいけそうだけど、でも美人顔とはいえ同じ男だし、やっぱりちょっと無理があるというか。その同棲生活には自信がないっていうか」
「何が『美人』だ、ぶっ飛ばすぞ」
「うん、ごめん。だからフライパンをこっちに向けようとしないで」
ぐすっ、と安樂が鼻をすする。そのしょんぼりとした目は、よくよく見れば少し泣いたであろう痕跡も見られた。一体僕が目を離していた僅かの間に、どんなダメージが与えらてそう至ったのか大変気になるところである。
どうやら安樂は、何かしらきつく言い負かされて気落ちしているらしい。僕はその間にもパスタ全体にソースを絡めていて、しっかり仕上げに乾燥バジルを振りかけた。
カウンターに肘をついてきたユミさんに指示されて、安樂が長身の図体を屈めるように三つの洋風皿を持ってきた。僕がそこにパスタを盛りつけ、買って来たパセリを最後に添えると、見守っていたユミさんがにっこりと微笑んだ。
「ほんと、料理が上手ねぇ」
「元々簡単にではあるけど、料理はやっていたから飲み込みが早かっただけですよ」
「うん、そんな感じはするわ。あの頃の『男の料理』も、とても丁寧で美味しかったもの」
安樂が先にパスタの盛られた二皿を食卓に運ぶ間も、ユミさんはキッチンに残ったカルボナーラを、どこか慈しむように見つめていた。
「それにね、あなたの指先って、彼女と同じ感じがするわ」
そう言われて、僕は視線を上げた。
ユミさんも目を上げてきて、僕らはしばらく見つめ合った。
「そんな感じが、しますか」
「するわよ。私がどんなに見よう見真似でやっても、彼女みたいには出来ないから羨ましいわ。だから彼女の仕草や雰囲気が残っているあなたの料理を見て、食べるのが好きなの」
ユミさんはそう言うと、そっとカウンターから離れた。
安樂は説得に失敗したと思っているようだが、僕を召喚するという作戦も少しは功をなしたのか、彼女の機嫌は良くなっているようだった。しかし、ユミさん自身が弱っている彼の様子を楽しんでいるようだったので、僕はしばらく黙っている事にした。
全員が食卓についたところで、ユミさんの隣に移動した安樂が、楽しげにテーブルを覗き込んだ。
「ほんとに美味そうな匂いだなぁ。市販のソースで少しアレンジしても、クオリティが高いまんまってすげぇわ」
「パンでも焼けば良かったかしら。でも味付きパンなのよねぇ」
「今回は、そのままいただきましょう」
午後にでも、二人は和解後のデートがてら外食するだろうと分かっていたから、僕はそう言って『いただきます』を促した。
安樂に紹介されてから随分経つが、ユミさんに対する僕の敬語は健在だった。どうやら僕は、妻以外の女性とは敬語で話しているらしい。砕けた話し方をするのは、少ない男友達相手だけだと安樂に指摘されて、打ち解けても敬語交じりだと笑われた。
「なぁ、来週の休みは釣りに行こうぜ」
食事を始めて早々、フォークとスプーンを使いこなせない安樂が、箸でパスタをつまみながらそう提案してきた。
僕は眉を顰めると、胡乱げに「来週?」と反芻する。
「最近ご無沙汰だったろ。だからさ、川釣りに行こう」
「あら、来週はコスモスが見頃じゃなかったかしら? なら、そっちの方が先よ」
「ずっと釣りしてないんだぜ? 来週も天気がいいらしいしさ。なあ、行くだろ?」
安樂に意見を求められた僕は、肩を少し竦めて見せると、「その日は先約が入ってるんだ」と答えた。
「コスモス畑には、再来週明けにある祝日に行こう。きっと一番の見頃だと思う」
そう言って小さく微笑んだ僕を見て、安樂は露骨に顔を顰めた。ユミさんが彼を一瞥したあと、笑顔に戻って僕に向き直る。
「大切な日だものね。そうね、コスモスは再来週、三人で見に行きましょう」
「ふふっ今回はピクニックを兼ねて、一緒にお弁当でも作りましょうか?」
「あら、嬉しいわ。じゃあこの人には、オニギリを握ってもらおうかしらね」
ユミさんは楽しそうに笑った。不器用な彼独特の楕円でも丸でもない、歪で大きなオニギリを僕たちは忘れてはいなかった。
その時、安樂がようやく思い付いたような顔をして「あ、そうか」と声を上げた。
「早いなあ。もうそんな時期かあ。すまん、日付をうっかりミスってたわ」
彼はそうしみじみと呟くと、箸でつまんだパスタを口に入れてずるずると吸い込んだ。それを見たユミさんが「ラーメンじゃないんだから」とたしなめるのも構わず、彼はもぐもぐと咀嚼しながら、気が抜けそうな顔で宙を見やる。
大学時代、僕と妻と安樂の三人で、よくコスモス園に行った。小さな遊園地の一角にあったそのコスモス園は、次第に面積を広げられて、僕らが社会人として慣れた頃には都会で見られるコスモス畑として有名になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます