第4話

 だから、時間に追われる事なくシーツを洗濯して、ゆっくりと服を干し、珈琲を飲みながら読書の出来る日曜日は貴重だった。疲れ果てた心身を回復する、絶好の機会なのである。


 帰宅後、缶ビールを飲みながら、休日前くらいにしか出来ない夜更かしの読書に耽った。ふと、明日は気分転換に海浜公園へ散歩に出かける予定を思い立って、一人にやにやとして早々に床についた――はずだった。


 一体何がどうなって、こうなってしまったのか。


 待ち焦がれていた日曜日、僕はパスタを茹でながら慎重に考えていた。


 鍋の中で湯の上に浮かぶオリーブオイルの粒が、秋へと移り変わる日差しの中キラキラと光っている。見慣れないマンションのキッチンは広く、カウンターの向こうに置かれた質の良い四人用の食卓には、安樂とユキミさんが腰かけている姿があった。


 僕らより二つ年下のユミさんは、三十三歳とは思えないほど若い容姿をしている。街灯のアンケートで「二十六です」とサバを読んでも気付かれないくらいだから、誰の目にもそう見えるだろう。


 ユミさんは美容会社に勤めていて、均等の取れた美しいプロポーションを持っており、背丈は百七十センチ近くあった。手入れが行き届いた赤み混じりのショートヘアーは、きりっとした彼女の端正なフェイスラインに合っている。


 モデルのような彼女と並ぶと、長身の安樂もイケメン感が増して様になるのだから不思議だ。勤務中は彼も真面目な男にしか見えないので、彼らを知らない人間は、この夫婦のツーショットを羨望の眼差しで見送る事が多々あった。それを、僕は何度も見ている。


「俺の愛はお前一筋だ。俺にはお前しか見えない!」

「ふうん、それで? リョウコとアキコって誰よ」


 うっとりとした表情で身を乗り出し、彼女の手を握る安樂とは対照的に、ユミさんは美麗な顔に刺すような冷気を帯びた表情をしていた。それを傍観している僕は、つい、美人が怒ると怖いという言葉を思い浮かべてしまう。


 リョウコさんとアキコさんは、先週『居酒屋あっちゃん』にやってきた新入りである。共に二十七歳で、近くの印刷会社に勤める事務員だった。


 店の雰囲気が気に入った彼女らと同様に、店主や安樂を含む常連客たちも、新規の客である彼女を気に入ってしまった。元々女好きの気がある安樂は、ナンパの如く二人とメールアドレスを交換し、そのアドレス帳を早朝、ユミさんに見つかってしまったのだ。


 身の潔白を証明するためという口実で、僕は安樂の勝手な下らない判断で呼び出されて、昼食作りをさせられていた。


 きっと大喧嘩に持ち込まないために、彼なりに考えた策略なのだろう。ユミさんは、確かに訪ねてきた僕を見て、一旦表情を和らげていた。しかし、その直後に忌々しげに安樂を睨みつけていた事を思い返すと、あまり緩和効果はないのではなかろうかとも思う。


 こうして僕は、今、パスタを茹でている。


 二人が付き合い始めた当初から、料理がてんで駄目な安樂の部屋で――当時は僕も彼も薄給だったから自炊だった――時々夕飯を御馳走していたから、妙な構図ではないのだろう。


 何せ結婚後も互いの家族として交流は続いていたし、僕がここで料理を作っている風景は、見事に安樂夫婦の中に馴染んでしまっているわけで……。


 いや、やはり妙だろう。


 なんで日曜日に夫婦喧嘩ド真ん中の食卓を眺めながら、僕がこうして料理を担当しているんだよ。呼び出したあいつ、ほんと馬鹿んじゃないのか?


 僕はパスタを茹でながら、難しい顔を上げて首を捻った。なぜ夫婦喧嘩の行われている彼らのマンションで、僕は貴重な日曜日の朝十時から昼食を作っているんだ?


「あんた、またナンパしたんでしょ。あたし以外の女に色目使うなって、散々言ったのに」

「本当に違うんだって。リョウコちゃんとアキコちゃんが『居酒屋あっちゃん』にこれからも通う事になって、それでついその場のノリでメル友になったんだけど、この辺の店をよく知らないっていうから、ついついやりとりが続いているというか――」


「何よ、その『つい』って? それで普通メールのやりとりまでする?」


 ユミさんは、ジロリと険悪に睨みつける。


 喋るたび自ら墓穴を掘っているというか、彼女の機嫌を損ねる言い方をしているとは気付かないのだろうか。


 僕は安樂に対してそう思いながら、一度視線を下ろしてパスタの固さがもう少しであると確かめてから、再び食卓で向かい合う二人に目を戻した。


 不意に、そのどこにでもあるような、向かい合う夫婦の光景にふっと気付かされた。


 思えば僕と妻は、四人用の食卓でいつも並んで座っていた。素直じゃない僕は、安樂たちのように向かいあって座る事もあまり出来なかったな、と思い出した。


 そこには、夫婦になっても初々しい気恥ずかしさもあったせいだろう。好きだとか愛しているだとか、真面目な話になると、いつも僕が先に身体の向きをそらしていた。


 それでも僕は、彼女の声には一心に耳を傾けていて、一字一句を聞いてへらりと笑っていたのだ。


 彼女は、とても料理が上手だった。男料理だった僕が、西洋、中華、和食と幅広く作れるようになったのも、彼女のおかげだ。安い食材で、美味しい料理を自宅で食べられるようになり、今では揃えたスパイスも慣れたように使える。


 パスタは、硬過ぎても柔らかすぎてもいけない。鍋に入れたオリーブオイルは、吹きこぼれを抑えてくれるし、パスタをざるに引き上げた時にかける油と同じ効果を発揮する。


 そう思い出しながら、僕は壁にかかっている時計を見た。鍋の中でかき混ぜていたパスタの硬さを、箸の先で確認して火を消した。


 僕は、妻の手作りカルボナーラが好きだった。付き合い始めた頃、喫茶店でカルボナーラばかりを食べに行く僕に気付いて、スーパーで買い物をした後、彼女は安い材料で手軽に作れる、美味いカルボナーラを僕に披露してくれたのだ。


 当時の僕は、すぐにその手順を覚えられなかった。二人で同棲を始めて、キッチンで彼女の料理風景を見てるうちに、自然と材料となる食材や調理方法が頭に入ってくるようになった。そして次第に、僕は彼女と一緒に食事を作る喜びを覚えていったのだ。

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