第3話
僕がそう思い返す中、隣では安樂が、ユミさんと喧嘩する前に行ったというホテルの話を始めていた。僕はそれも聞き流して、新しく出て来たビールを少し飲んで思いに耽る。
そうだ。彼女は結婚する事が決まってから、とても穏やかな顔をして笑うようになったのだった――と、そう思い出した。
小さな喧嘩が起こっても、僕らもまた安樂夫婦のように「ごめんなさい」「すまん」の言葉は出なかった。ただ、謝れない僕がどうしようかと悩んでいると、いつも彼女がそっとこちらを見上げて、ちょっと罰が悪そうに笑ったのだ。
――「お喋りがないと、つまらないね」
彼女がそう言って、ピリピリしていた空気がふっとなくなる。僕は、それにとても救われていたんだ。だから大きな喧嘩には発展しなかったのだと、今更のように気付いた。
「なあ、聞いてるか? どうやったら、ユミちゃんは俺を許してくれると思う?」
「うーん、そうだなぁ」
すっかり聞いていなかったが、僕は神妙な顔をしてビールを口にした。顔を赤らめた五十代のサラリーマンが二人入店してきて、店主に「いつものやつと、ビールを二つ頼むよ~」と呂律の回らない声を喜々として上げるのが聞こえた。
その二人の客は、足取りもおぼつかず座席へと座り込んだ。彼らはすぐに出て来たウィンナーのつまみに手を伸ばして、それを口に運ぶ。どちらも管理職の人間らしい話をしていて、厚ぼったい二人の男の口元でウィンナーの肉汁が弾けていた。
カウンターの中に戻った店主が、手際良く料理に取り掛かりながら、ふと安樂を見た。
「こういう時は、素直に謝ればいいんだよ」
「謝りましたよぉッ、なんべんも!」
そう安樂が間髪入れずに言った途端、わっと両手を顔に押し当てて再び泣き出した。競馬とゴルフの話から、株へと話題が移行していた三人の客が彼の方を覗き見て、そのうちの上座にいた一人が、唾を飛ばすほどに熱をこめてこう言った。
「女には素直に謝るしかねえ!」
その男は、新しく入ってきた客と同じくらい、ぐでんぐでんに酔いかけているようだった。凛々しい様子で拳を掲げて、「いいか若造!」と三十五歳の安樂に力強く言う。
「女には男の嘘なんてお見通しなんだ。愛してんなら、本気で謝らんと駄目だ」
腰を浮かせてそう力説した五十代の彼の向かい側で、部下らしき四十代の男二人が「うんうん」と肯く。ウインナーをつまんだ二人のサラリーマンは、会話を途切れさせて、暇を弄ぶようなだらしない座り方でこちらを傍観していた。
すっかり注目されてしまっている。僕は、今すぐ逃げ出したくなった。上司ほどの年齢の酔っぱらい男に喝を入れられた安樂が、鼻をすすって希望がちらつく目を彼へと向ける。
「それ、本当っすか? 謝ったら、ラブラブしてくれると思います?」
安樂が、助言を求めて情けない声で尋ねた。その男は「そうだとも」と自信たっぷりに答えてから、部下らしい二人との話しに戻っていった。
それを見届けた安樂は、ビールジョッキに残ったビールをぼんやり眺めた。僕が見守っていると唐突に「よし」と意気込んで顔を上げた。
「俺、ユミちゃんにとことん謝ってみるよ。声を大にして、俺はユミちゃん一筋なんだって事を伝える!」
…………まあ、それで一旦解決になるんなら、それでもいいか。
僕は隣でビールをちびちびと飲みながら、気の強い彼女が、大声でストレートに想いを告げられる事に関しては若干――いやかなりウザがっている事を思い出していた。この一件がきっかけで、これ以上に安樂の夫婦仲に問題が起こらなければいいのだが。
その時、またしても『居酒屋あっちゃん』の木戸が開いた。僕を含めた全員が、次は一体どの常連だろうかといった風に振り返る。
そこにいたのは、二人の若い女性だった。長い黒髪の女性が、笑みを浮かべつつ困ったように首を傾ける。
「あの、雑誌に載っていたので来てみたのですが……二人、大丈夫ですか?」
遠慮がちな声は、お喋りが止まった店内によく通った。彼女の後ろに立っていた癖毛のセミロングの女性は、ひどく小柄で薄化粧の顔は幼さも窺えた。どちらも店内の第一印象は悪くなかったようで、それぞれが期待感にドキドキしている初々しさを漂わせていた。
女性のお客さんなんて珍しい。僕がそう思っていると、雑誌の取材を受けて良かったと喜ぶ店主よりも先に、数分前に安樂に喝を入れた男がにんまりと笑って立ち上がってこう答えた。
「むさ苦しい男の店へようこそぉ!」
彼がシャツの下の贅肉を揺らしつつ、機敏にポーズまで取って歓喜を見せた。
おいおいおい。その第一声はないだろう、常連その1よ。
僕はそう思って、意見を求めるように隣の安樂を見やった。直前まで泣いて相談していた彼は、恋する乙女のようにうっとりとして「若くて美人だなあ」と呟いていて、奥さんの件はどうしたよと張っ倒したくなった。
「歓迎するよ、お客さんはビールかな?」
店主が愛想良く言うと、立ったままの中年男が「まっまっ、好きなところに座りなよ」と常連風に促して腰を下ろした。
すると、黙って様子を窺っていた二人のサラリーマンが、少し酔いが覚めたらしい顔つきで「この店の『お任せおつまみセット』、結構いけるぜ」とのんびりした口調で言う。それに便乗して、安樂が元気いっぱいに挙手すると「俺のオススメを教えてあげるよ!」とキラキラ輝く目で主張した。
僕は心底呆れてしまった。疲労感を覚えた拍子に、なんだか彼とはずっとこのような関係が続いていきそうな気もしてきて、自棄(やけ)になってビールをぐいっと喉に流し込んだのだった。
◆◆◆
安樂との飲み会の翌週いっぱい、くたびれるような残業に遭ってしまった僕は、土曜日の終業後に本屋へ寄って新刊本を買った。
サラリーマンが待ち焦がれる日曜日は、僕にとっても解放感溢れる貴重で素晴らしい休日だ。会社は第二、第四土曜日と日曜日以外に休みはなく、その上残業もかなりあるのでいつもくたくたになってしまう。
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