第2話

 彼は日頃から喜怒哀楽が多いものの、どうやら今回、安樂夫婦は記念すべき『七回目の大喧嘩』となったようだ。数時間前、会社を出た途端に安樂のビジネスマン風は崩れ去り、僕はビル前の往来ド真ん中で泣きつかれた。


 話を聞いてくれるまで帰さないと脅され、それを聞いた周りの通行人にピンクな誤解をされ、そこでこの居酒屋に引っ張ってきたわけである。


 プリン好きの馬鹿力め。たまには珈琲ゼリーくらい食えってんだ。


 毎日プリン話も聞かされている僕は、苛々してそう思いながら、ビールをぐびりと喉に流し込んだ。とにかく、めいいっぱい食べて飲めば、隣にいる友人をぶっとばさずに済みそうな気がする。


「ユミちゃんさ。俺が他の女に目を奪われたって言って、話を聞いてくれないんだ……」


 店主からの差し入れの焼き鳥をつまみながら、安樂はそう話す。

 僕は口の端についてビールの泡を拭いながら、シクシクと泣いているその鬱陶しい横顔を見やった。


「安樂。お前って昔から、しょうもなく女好きだもんな」

「失敬な。ふっ、俺が今愛しているのはユミちゃんだけなんだぜ――」

「すみません塩焼き鳥一つお願いしま~す」


 僕は、奴が決め顔で台詞を述べるのを遮って、ビールジョッキを軽く上げる。向こうで別客の注文を取り終わった店主が、愛想良く「あいよ」と声を上げた。


 やや煙がこもっている店内には、小さな厨房から調理される食材の音や匂いが漂っていた。僕らの他には、先客でいた三人の男が座席に腰を降ろして、競馬とゴルフについて楽しげに話している。


 奥の座席にいるのは、着崩したスーツを着た五十代ほどのふっくらとした男だ。彼の部下らしき四十代の男二人が、こちらに背を向けるようにして並んで座っている。そこでされている陽気な会話からは、親身な雰囲気が滲み出ていた。


 泣き疲れたらしい安樂が、ビールジョッキに割り箸を突っ込んで意味もなくぐるぐると回した。僕は三人の客の明るい話題を背景にした彼を眺めながら、随分と温度差の激しい店内だなと思って、フッと力なく笑ってしまっていた。


 すると、彼が夫婦喧嘩の原因についての話を再開した。


「俺はな、すげえ美人だなぁって見ただけなんだよ。ほら、美人だと男女関係なく目がいっちゃうの、分かるだろ?」

「おい。そもそもお前は、なんでビールを混ぜてんだよ。不味くなるぞ、冷えてるうちに飲め」

「それにさ、彼女はどこかユミちゃんに似ていたんだ。そう言ったのに、彼女ったら俺の話を全然聞いてくれなくてさ~……」


 こちらの指摘をキレイに聞き流した安樂のビールは、冷えた汗をかいたジョッキの中で細かい気泡がぐるぐると舞っていた。


 僕は呆れて、仏頂面で頬杖をついてこう言った。


「ようするに、お前が他の女に気をとられたのが悪い」

「おい、俺の話し聞いてたか?」

「僕はきちんと聞いてたさ」


 先程聞き流された苛々を込めながら、僕はそう答えた。気分直しに枝豆を口に放り込んで、それを咀嚼しつつもごもごと言葉を続けた。


「つまり二人で歩いていたんだろ。それなのにお前は、その時ユミさんの隣にいながら、堂々と別の女の尻を目で追っちまったって事じゃないか。なら、お前が悪いよ」


 割り箸から手を離した安樂が、憐れむように僕を見た。割り箸がビールジョッキの中で、流動しているビールに引かれるように、ゆっくりとグラスの縁を滑っていく。

 ややあってから、彼かふうっと息を吐いてビールジョッキから割り箸を引き抜いた。その横顔は、『馬鹿なお前に教えてやるぜ』と悟りを得たような表情をしていた。

 僕は、言葉もなく人を苛立たせる人間っているんだな、と思いながら見ていた。すると、奴が案の定、こんな言葉を切り出してきた。


「お前は分かっちゃいねえよ」


 お前にだけは言われたくない。


 そう言おうとした言葉は、目の前に塩焼き鳥が置かれてタイミングを見失った。安樂はビールを飲み干すと、店主に追加注文してまた一から話し始めた。


 僕は彼の話を聞き流しながら、ふと、妻との間に多く起こっていた小さな喧嘩を思い出した。のんびりと構える僕に対して、彼女は不意に細かくなる場面があり、付き合っていた大学時代から何かと衝突していたものだった。


 服の種類によって畳み方があり、衣装棚に掛ける上着も彼女の中では選別されていた。


 その基準は、今でも全く分からない。いつも彼女は「どうして分からないのよ。これは、畳んじゃ駄目ッ」と言って、僕が持っていた洗濯物を取り上げたりした。だから、手伝っていた僕の方は、なんだか居心地が悪くなってしまうのだ。


 掃除もきちんとする女性だった。大学から一人暮らしだった僕も、掃除や家事には長けている方だったのだが、彼女とは少々勝手が違っていて手順を一から説明される事があった。


 元々身についていた掃除の仕方を変えるのは癪で、結婚後しばらくもすると全て彼女がやるようになった。僕は週に一回、トイレと風呂の清掃を担当するばかりだ。


 どちらも、意地が強かったのだと思う。喧嘩なんてしないような大人しい二人だったから、怒鳴り声もない小動物同士のむっとした対立だったようにも思う。


 思い返せば、はじめての旅行先も海か山で意見が割れたものだった。デートでは行き先なんて意地を張らなくても良かったのだけれど、初めてのお泊りとなると、彼女にも理想の形があったのかもしれない。


 結婚式のプランでは、僕は彼女のお姫様のようなウエディングドレス姿が見たかったし、彼女は貴族のような格好をした僕を見たがって、互いに主張し合った。でも互いに「着て欲しい」「見たい」と素直に言えず、僕らは「女はこうであるべき」「男の人は普通こうじゃないかしら」と言い合ったわけだ。


 多分、あの頃はまだ若かったんだろう。


 彼女が素直な言葉を口にするようになったのは、いつの頃からだったろうか?

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