05:LEMONAID
あなたと、その周りの大切な人。そしてあなたが顔も知らない人。会ったこともない人。なんていうか、全人類。そんなたくさんの命を奪うために作られたもの、それがぼくだった。ほぼ無意識で、自覚もない。与えられた使命だけは脳みそにこれでもかってくらい刻み込まれてる。優しいあなたはそんなこと知らないままで、最後まできっとずっと知らないままなのだ。
「待ってよ、ハルア」
「待ちません」
「そんな格好で外に出たら、死んじゃうと思う」
「平気。もう感染してるし」
とハルアは鼻息荒く、ガムテープだらけの防護服も身に付けず、地上へと続く薄暗く湿った廊下を走り出した。
「えー?」
必死に止めるぼくを振り払い、全力で走り出すハルアが身につけているものは、タンクトップの上から羽織った大きめのくたくたシャツ1枚と、どこからか拾ってきたボロボロのズボンを短く切っただけの普通の服。いくらなんでも軽装すぎるというか、あれはただの気の抜けた部屋着でしかない。地上は今、防護服がないと息をすることさえ難しい。
「いてっ」
追いかけるぼくに、ハルアは廊下に落ちていた段ボールの切れ端やら、拾ってきたゴムボールやら、空になったペットボトルの大中小を投げつけてきた。
「暴力反対!」
飛んでくるそれらを必死によけつつ前に進もうとしたが、ハルアも諦めなかった。
「うるせえ! 黙ってわたしを上に行かせろ!」
ハルアの叫び声で、耳の奥でキーンという耳鳴りがした。別にハルアの声が特別に大きすぎたわけじゃない。何かが、ぼくの中で壊れたのだ。
決意新たに、数メートル先に立つハルアを見据えたぼくの目は、きっと今はなき陸上競技の走幅跳び選手のように鋭かったに違いない。思い切り走り出すと、ハルア目掛けて腕を伸ばした。だがハルアの足は予想以上に速く、ぼくの腕をしなやかによけて体をひるがえし、右に伸びる階段を駆け上った。ここでぼくに捕まれば次はないと思ったのか、ハルアは必死で逃げた。
「よせ! ハルア!」
急いでぼくも階段を駆け上がる。やがてハルアの姿は、地上から差し込む光に包まれ白く染まって消えてしまった。ハルアのばかー!って、心の中で叫ぶしかなかった。こんなに心配してるのに、どうしてわかってくれないの。
階段を登り切ると、すぐ近くでハルアは上を向いて乱れた呼吸を整えていた。
「残念でした」と、ハルア。「間に合わなかったね」
清々しさすら感じる横顔がきれいで、さっき投げつけられた段ボールとかペットボトルのことは、ちょっと忘れようと思った。
「外、きもちー!」
地下の生活で縮こまってしまった体を、うんと伸ばしてハルアは言った。ああやって普通に息が出来てしまうことが厄介で、病に侵されていく感覚がわからない。気持ちがいいのは結構ですが、そんなに深呼吸したら、もう肺目一杯、悪いものを吸い込んでしまっていることでしょう。
「あんまり無茶しないで」ぼくは言った。「いくらぼくに抗体があっても、ハルアに効くかどうかはわからないんだから」
「どうしてレモにだけ抗体があるの?」
ずるい、不公平だ、とハルアは続けた。もう知ってることだから、きっと拗ねているのだろう。
「それは……」
ぼくの出生は少し、いや、かなり複雑だ。自分で言うのもなんだけど、どうしてそうなったのかもよくわかっていない。わからないままハルアに拾われ育てられ、異様な速さで手足が伸びた。ハルアが言うには、「だいたい大学生くらいか、もう少し上くらい。わかんない」くらいのようだった。残念ながら頭の方は見た目と比べてだいぶ年齢が低いらしく、まだまだ成長途中だ。ハルアがときどき使う難しい言葉の意味がよくわからないし、複雑な感情は読み取れない。
「作ってくれるんでしょ?」
ぼくが言い淀んでいると、ハルアが言った。抗体で薬を作るってことだと思う。
「作るっていうか」ぼくは右腕を上げて、手首に流れる青紫色と少し黄みがかった血管を見つめた。「直接飲ませるっていうか」
「えー、それってどうなの」
あからさまに嫌そうな顔をされたので、彼女が実際にこれを飲んだ時、どんな顔をするのか見てみたい気がした。本当は、そんな日が来てはいけない。
「とにかく」ハルアの腕を掴む。「もう下りよう。十分だろ?」
この街にはもう誰もいない。車の走行音、バイクのモーター音、電車の電子音。人の歩く音、話し声。それらすべての騒がしさがなくなった街は、とても静かだった。ぼくは少しだけ振り返り、真っ青な空に包まれた街を見つめてから、ハルアの肩を抱いてゆっくりと階段を下りた。
その日の夜から、ハルアの体調はたちまち悪くなった。長い時間起き上がれなくなり、ベッドで過ごすことが多くなった。はじめのうちは、ぼくの抗体を飲むのを事あるごとに拒否していたハルアも、この頃は口数も少なくなって、抗体のことには触れもしなくなってしまった。ぼくに段ボールを投げつけ、怒号を飛ばしたあの日のハルアが懐かしく、思い出しては何度も笑ってしまう。
ぼくがまだ赤ん坊だった頃、毎日体を洗ってくれた。「レモンくさい」とか言いながら、ハルアがその香りが好きだったことをぼくはよく知っている。
「ぼくがレモンくさいのは」ベッドで眠るハルアに言う。「レモンから生まれたからであって、仕方ないことなんだよ」
なんたって細胞レベルでレモンなのだ。
「ちょっと予想外なんだけどね」と付け足して、ぼくはキッチンに向かう。
あなたの命を奪うために作られたものが元々のぼくだとすれば、寄生した植物との相性がよく、薬となって生まれたのが新しいぼくだ。
小さなナイフを手に取ると、刃こぼれが入ったそれに指を滑らせる。切れ味はあまりよくなさそうだが、皮膚を傷つけるくらいなら問題なく出来そうだ。
ぼくは、いつでも準備はできている。
忘却保管庫 Y/F @zizizhuji
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