04:眠るなら暁を待て


 白く楕円の形をした硝子張りの部屋がある。部屋は塔のてっぺんにあり、階下にはたくさんの窓がついた建物が見える。塔の周辺には似たような家屋が並び、建物間を移動できるよう、空中回廊や橋がかかっていた。楕円の部屋の硝子は、霧をかけた陶器のようにも見えるが、実際は窓の向こう側の曇った空がそう錯覚させているだけだった。

 この部屋に呼ばれるときは、部屋の主人である「東雲しののめ」と名乗る取締役から、重要なことを伝えられる。

 基本的には、始まりと終わりの日。それ以外は何らかの手違いで問題を起こしたとき。解雇宣告を受けた者は二度と帰ってこないという噂が流れ続けていることもあり、始まりの日以外にこの楕円の部屋に呼ばれたときは、誰もがみな顔を青白くさせ無表情で廊下を歩いて行く。部屋の入り口から東雲の座る机の前まで随分と距離があるので、辿り着くまでに緊張と恐怖で倒れそうになった者もいるとかいないとか。


 従業員のあかつきもまた、無表情で楕円の部屋へと続く長い廊下を歩いていた。暁の顔は色白だったが、青白くはない。元々表情に乏しかったため、無表情でも普段と変わらない。

 昨晩、派遣先から戻ってすぐに、明日楕円の部屋に来るようにと言われたときも、ついに自分にもその日が来たか、と思う程度だった。ただ淡々とその日終えた仕事の報告書を書いて送り、着替えてからいつも通りの食事をとり、眠る準備をした。


「会いたい人はいるかい」

 座り心地のよさそうな椅子に腰掛けて、東雲は言った。彼の前には暁がひとり、まっすぐと前を見つめたまま立っていた。

 白い制服に身を包み、何にも興味がなさそうな顔をしている。

「君たちには友人というものが多くはないと思うが、もしいれば」

 暁はしばらく考え、

「派遣先の、何人かは」と、答えた。

「行きたいんだね」

「はい。とても良くしてくれたので」

「ではこれを」

 東雲は引き出しから小さな箱を取って机の上に置くと、つつっと暁の前に差し出した。前を見つめるだけの暁も、さすがに小箱には視線が動いた。

「頑張った君への贈り物だ」

 小箱を見つめたまま微動だにしない暁に、東雲は言った。

「そんなに怖がらなくても大丈夫。開けてごらん」

 東雲に急かされ、躊躇いながらも箱を手に取り蓋を開けた。

 中には、光沢のある布の上に、白い札が大切そうに置かれていた。

「これは」

「どこにでも行ける切符」

「どこにでも」

「街の電車や車に無制限で乗ることができ、旅に必要な物や食べ物を買うことができる。娯楽施設も宿も、好きなときに好きなだけ使えるよ。僕がいつどこに行っても施しを受けれるように、その札を持っていれば君も同じ待遇を受けられる。つまり、僕の分身のような札だ」

 東雲が自慢げに口上を述べ終える頃には、暁は札の入った箱を机の上に戻していた。それを見た東雲は、立ち上がると小箱を取り、暁の手に強引に握らせた。

「半年間やる。息抜きをしなさい。それと明日、おびだまをもらうのを忘れないようにね」

おびだま?」

「君が暮人くれびとという証。札と合わせれば君の旅は終始安全だ。みんな良くしてくれる」

「……わかりました」

 暁は一礼すると部屋を出た。扉の横には、東雲の秘書が無表情で立っている。暁を見ても微動だにせず、美しい耳飾りが少し揺れるだけだ。

「ねえ、佩って誰からもらえるか知ってる……」

 暁が尋ねても、秘書は黙ったままだった。冷ややかな目元に一直線に結ばれた口元。何を考えているのかわからない。側から見れば、自分もこんな顔をしているんだろう。暁はそう思った。

「ああ……、そうだよね。何も言っちゃいけないって決まり」

 楕円の部屋の中や周りでは、無駄な言葉を話してはいけないと言われている。だから暁も、佩のことを東雲に聞けないまま部屋から出てきてしまった。


 自室に戻ると、暁は小さな鞄に入るだけの荷物を詰めて、会いたい人の名前を書き連ねた。仕事で派遣された先の家族や企業、そこで知り合った人々。思いつくかぎりを記していき、限られた時間の中で本当に会いたい人の名前だけを残した。暁が出会った人々はとても多かったが、暁自身が会いたい人は決して多くはなかった。

 それでも、連ねた名前が思いのほか多かったので、きちんと移動計画を立て、それぞれの街に何日滞在するのかを決めていった。

 昨日の夜までは今日の派遣先のことを考え、戻ったら準備をしなくては、などと思っていた。その予定がなくなり、行くはずだった派遣先には違う従業員が派遣されている。

 やることが突然なくなるのは、なんだか落ち着かない。他の従業員も、旅に出る前はみんなこんなふうに思うのだろうか。準備を終えた暁は、灯りを消して寝床に潜り込み、目を閉じた。


 結局、佩というものを誰から貰えばいいのかわからないまま出発することになった。

 実は暁には、一人だけ思い当たる人物がいた。暁が仕事を始めた当初からいて、他の従業員と同様の仕事をしていたが、ひとつ違ったのは、その人物がうんと長い間、ここにいるということだった。そして噂では、暮人となった従業員が旅に出る前に現れては、手形のようなものを渡していくというのだ。噂は噂であるし、どこまでが事実かわからない。その人物が長い間ここにいるのも、東雲の気まぐれのせいかもしれない。

 もらった札があれば、最悪どうにかなると思った暁は、荷物を持って門へと向かった。

 廊下を歩いていると、暁と似た制服姿の従業員が立っていた。

黄昏たそがれ

 黄昏はいつもの制服の上から長いローブを羽織り、頭はローブと繋がる頭巾ですっぽりと覆っていた。

「何、その格好どうしたの」

「見送りに来た」

 ローブの間から差し出された黄昏の手には、見たことのない装飾品があった。予感は的中した。

「やっぱり、君だったのか。黄昏なんて名前、君しかいないから。そうじゃないかなと思ってたんだ」

 黄昏は手に持っていた佩を渡した。それは暁が思っていたより遥かに美しい形をしたものだった。白い石を削りなめらかにし、花のような刻印が彫刻されている。石の先端には編み込まれた紐が付いていた。

「気をつけて」

「ありがとう。もしかしてこれ、黄昏が作ってるのか」

「ああ」

「器用だね。知っていたけど」

「それ、ちゃんと付けろよ。身分証明になる」

「うん」

 暁が帯に佩を結びつけようとしていると、黄昏がすっと手を伸ばして手伝ってくれた。

「ごめん、ありがとう」

 バツの悪そうな顔で暁は笑った。

 従業員はみな平等に器用さを持ち合わせているはずが、暁は手先の仕事がすこし苦手だった。暁は黄昏に昔からいろいろ手伝ってもらったことを思い出した。仕事ではなく、主に身の回りのことだった。同じ能力を持っているはずなのに、黄昏は自分より覚えるのが早く、なんでも知っていた。そしてなんでもできた。他の従業員からも、黄昏は東雲から特別な加護があるのではないかと噂されていた。ただ暁にはそんなことはどうでもよく、黄昏が自分のことを助けてくれると、胸のあたりがあたたかくなる感覚が好きだった。

 黄昏が自分の帯に佩をつけ終わる様をじっと見つめていた暁は、かがんで手伝ってくれていた黄昏と目を合わせた。黄昏は視線に気づくと、ゆっくりと立ち上がった。

「どうした」

「黄昏は、ずっとここにいるのか?」

「ああ」

「この先も?」

「たぶんな」

「いつまで?」

「わからない。東雲の気が変われば、すぐにでもいなくなるかもしれない。でも、いる予定だよ」

「その、もし君がよかったら、わたしが旅から戻ったときに、佩をあずってくれないかな」

「おれが?」

「ごめん、変なこと言って。迷惑だったらいいんだ。でもそうしてくれたら、嬉しい」

 黄昏は少し首をかしげ考えると、頷いた。

「わかった。預かる」

「本当?」

「ああ。約束する。さあ、もう行け」

「うん。ありがとう、黄昏」

 門の方向に向かい、何歩か進んで振り返ると、黄昏がまだ立っていた。

「もういいよ、部屋に戻っても」

「門番は暮人を見送るのが役目だ」

「知ってるよ。わたしが行きづらいんだ」

 黄昏は、意外そうに眉を上げた。

「それでも見送る」

「わかった。じゃあ後ろ向きに歩く。それならずっと君と話しながら進める。見えなくなったところで前を向くから」

「馬鹿なこと言ってないで、普通に前を見て歩くんだ」

 提案をあっさり断られ、渋々前を見て歩き始めた暁は、背中の温度がじんわりと上がり、緊張しているような気がした。きっと後ろから黄昏に見られいているせいだ。

 歩くと、腰に付けてもらった佩が揺れて美しかった。生まれてから装飾品を付けたことはないし、付けたいと思ったこともないが、佩は自分たちのためだけに作られた証だ。そう思うと装飾品も悪くない。暁は最後にもう一度だけ振り返り、小さくなった黄昏に手を振った。


 旅を始めると、記した名前の順に会って行き、一つ一つ、その度に名前を線で消して行った。住所や行き方は全て覚えているから、調べる必要もない。暁たちは、一度見聞きしたことは絶対に忘れないのだ。

 暁は口元を緩ませた。何故かおかしくてたまらない。生まれつきの便利な機能が、こんなときにも役に立つなんて。もしかしたら、自分たちにこの機能を付けたのは、最後に旅をさせるためなのかもしれない。だとしたら、そのことまで計算していた東雲はすごい人だ。

 息抜きが必要だと言われたが、実際は息抜きではなく、この旅が最後の仕事ということだ。会いたい人に会い、語らい、あるいは別れを告げ、食事をして遊ぶ。訪問先では、楽しい思い出を作り、笑って去る。そしてまた次の目的地まで旅を続けて、たどり着くとまた同じことをする。まるで儀式のように。それが、彼らが生きているあいだ得られなかった幸福であり、後悔であるとされているからだ。

 後悔がなくなったらこの世から消える。旅が終わったらこの世から消える。生きるフィールドがなくなったから消える。でもそれは、決して悲しいことではない。


 会いたい人に会い尽くし、やることがなくなった。東雲が持たせてくれた札のおかげで、旅の間の財布事情は何の問題もなかったため、自分で働いて小銭を稼ぐということもしなくて済んだ。暁にはこれまでの労働で得た蓄えが少しだけ残っていたため、いざとなったらそれを使えばいいという気持ちもあった。

 しばらく小さな街にとどまったが、秋の訪れとともに去ることにした。

(この街は小さいけれど、活気があって良いところだった)

 流れ者にも親切にしてくれる人が多かった。それは腰につけた佩のおかげだった。旅をしている暮人には、優しく親切にする人が大半だ。機能不全で動けなくなる前に、まだ元気なうちに。生きている時間のほとんどを人間に仕える労働で終える彼らに、感謝の気持ちをこめて。今、暮人になっている彼らが人間を助けてきたように、今度は人間が彼らに寄り添い、恩を返す番なのだ。


 冬が来て、旅を続けるのが厳しくなった。寒さや暑さに暁は強く、身体を悪くすることもない。ただ、雪や雨風で交通機関が止まり、足止めを喰らった。ここ数日は宿で大人しく天候が回復することを待っている。外は雪が積もり、そのまま歩けば土に埋まった野菜のようになってしまいそうだった。誰かがひっこい抜いてくれれば良いが、一人旅の暁には、その相手がいない。

「ねえ、ソリに乗ったことはある」

 窓の外の景色を眺めていると、どこからか声が聞こえた。甲高く、きれいな声だった。しかし振り向いても誰もいない。

「ここだよ、上見て、上」

 見上げてうろうろと辺りを見回すと、一階から伸びる螺旋階段の踊り場に、頬を真っ赤に染めた少年が座っていた。

 滞在している宿を営む夫妻の子供で、食堂や休憩室で何度か見かけたことがある。小さな体で薪や野菜を運び、両親の仕事をよく手伝っているようだった。

「ソリ、私はありません。君はあるんですか」

「あるよ」と、少年。「こっち来て!」

 急いで上着を着てついていくと、宿の裏側にいくつかのソリが置いてあった。少年は迷うことなく勢いよくソリを掴むと、一つを暁に差し出した。勢いに乗せられて、思わず暁はソリを受け取ってしまった。少年はもう、暁と雪の上を滑る気満々だった。

「こんなことしたら、怒られるんじゃ」

 自分は良い。今は休暇中だから犯罪さえしなければ何をしても許される身ではある。しかしこの少年は、父親か母親かのどちらかに、宿泊客と無断で遊んで迷惑をかけたなんて、怒られやしないだろうか。そんな不安が頭をよぎる。昔の派遣先でも、よくあったことだ。その時は、だいたい自分が怒られる役だったが。

 ただ、今はソリに乗らなければ場が収まらないということも、暁はよくわかっていた。

 「仕方ないか……」

 ため息をつき、ソリに乗っかる。

 ソリは子供用だったが、暁の細い体には十分な大きさだった。

 ソリは予想以上にスピードが出て驚いたが、悪くないな、と思った。

 自分に子供時代があれば、冬の雪山でソリをして遊んだことを懐かしく思い出したりすることもあったのかもしれない。


 少年が飽きるまでソリを楽しんだあと、二人は無事に宿に戻った。

 宿の夫妻は少年が遊んでいたことを知ると、申し訳なさそうに謝った。その日の夕食は、暁の提案でみんなで同じテーブルで食べた。夫妻が気を遣ってくれたのだろう、出された食事がこれまでより豪華に思えたからだった。普段から暁たちは、派遣先などで出会った人々から何かをもらったり、逆に何かをあげてはいけないという決まり事がある。無論、この旅も同じ決まり事が敷かれている。だが、思い出は別だ。思い出ならば形には残らずルール違反にはならない。ソリが楽しかったせいで、少年と離れがたくなってしまった。もうここに二度と戻ることはない。ならばせめて夜、自分が眠りにつく直前までこの温かい気持ちを保っていたい。そう思った。

 

 翌朝、旅立つ前に、少年が木でできた小さなソリの置物を暁に差し出した。

「父さんが作ってくれたんだけど、あげる。またソリしに来て」

 ソリをしにきたわけじゃないんだけどな、と思いながら暁は答えた。

「うん、ありがと。でも、これは君が持っていて。それはお父さんがくれた大切なものでしょう。だから君が持っているのがいちばんです」

 少年の後ろに立っていた夫妻がそっと言った。

「また、来てくださいね」

 暁には、「また」という言葉はない。しかし、”自分たち”であれば、またここにくることができるかもしれないのだ。

「ご親切に感謝します。また」

 暁は、夫妻から言われた言葉の欠片を繰り返した。旅人が休む場所を営む二人にとって、この宿は彼らがいつでも戻ってこれる場所であってほしい。暮人である暁にも、同じ思いを抱いていた。

 少年と夫妻は、最後まで見送ってくれた。暁は何度も振り返り、雪が積もった坂で3人の姿が見えなくなるまで手を振った。


 旅の途中、暁は東の空を見渡せる広い丘の上に出た。ちょうど夜明けだった。森の平線から太陽が昇り始めていた。

 昔、調べたことがあったのだ。自分の名前の意味を。暁は、東雲が名付けた名前。東雲は暁が生まれたときから存在しており、暁がなぜ生まれ、これからどう生きていけば良いのかを教え導く人だった。着るものや食べるもの、眠る場所を東雲から与えられた者は大勢いる。だから、皆平等に愛というものを貰っているのだと思っていた。だが、彼と同じ意味を持つ者は、暁しかいない。だから黄昏と同じように、自分だけが東雲に甘やかされていると、噂話をされたこともあった。だがそれは完全には否定できない。実際に暁は東雲からの愛情を感じていたし、他の従業員よりは、はるかに手塩にかけてくれていた。気味が悪かったが、黄昏には、愛されることを楽しめ、と言われた。意味がわからなさすぎて腹が立った。

 ある程度の時が経つと誰かがいなくなり、新しく知らない誰かがどこからともなくやってきて、消えた者の代わりになる。消えた者のことは、誰も口にしなくなる。東雲でさえそうだった。そんなサイクルに、暁はすぐに気がついた。自分もそのサイクルの中の一部だということに。どれだけ愛されていても、愛していても、その流れを変えることは、東雲にもできないのかもしれない。

 目の前の大きな力強くあたたかい光のかたまりは、東雲の歪んだ愛情ですら、もう一度触れたいと思わせた。


 白い建物の門をくぐり、階段を登って、楕円の部屋を目指す。

 途中、上を見上げた。

 建物の橋の上に、誰かが立っていた。暁を見つめている。暁にはそれが誰なのかよくわかっていた。黄昏だ。最後の最後に、黄昏は自分のことを見送りにきてくれたのだ。それが門番である黄昏には許されている。しかしどうして門番である黄昏が、直接自分を迎えにきてはくれなかったのか、暁は不思議だった。すぐに思いついたのは、東雲のルール変更だった。黄昏に自分の佩を預かってもらうという約束は、もしかしたら果たせないかもしれない。戻ってきた暮人は、普段とは違う道順で楕円の部屋に向かわなくてはならない。その間、もし他の従業員に出会っても、誰とも口をきいてはいけない決まりだ。それは門番であっても同じこと。

 きっと何か理由があって、直接は来ることができなかったのだろう。

 その証拠に、黄昏は暁がその場を歩ききり、楕円の部屋へ通じる通路に入るまで、ずっとその姿を見守っていた。


 楕円の部屋の前につくと、東雲の秘書に、佩を黄昏に預けてほしいと小さな声で伝言した。秘書の耳飾りがわずかに揺れた。最初から期待はしていなかった暁も、秘書が少しばかり動揺していることに気がついた。耳飾りと同時に、秘書の瞳が揺れたからだ。本来、旅から戻ってきた暮人が口をきくことなどあり得ない。動揺するのも当たり前だ。しばらく待つと、秘書は静かに佩を受け取り、すばやく自分の帯の隙間に入れると、何事もなかったかのように扉を開けた。

 心の中で、暁は深く頭を下げた。


 部屋の中では東雲が待っていた。

「君たちを送り出すのは何度やっても慣れない。特に君のときは本当に苦心した。無事に戻ってきてくれて嬉しい」

「はい。お暇ありがとうございました」

「便利だったろう?その札」

「ええ、とても」

 笑みを浮かべていた東雲の顔が一瞬曇った。

「佩はどうした?」

「無くしてしまいました。ここに戻る直前だったので、特に不便もなく」

「無くしたのか」

「はい……すみません」

「あれは使い回しだから良いんだけれど、君の佩は黄昏に特別に作らせたものだから、誰かの手に渡って悪用されでもしたら悲しい」

「すみません。そこまでしていただいたものだとは知らず……」

「まあ、いいよ。人間が使っても価値が出せないだろうし……。で、旅はどうだった」

「旅、ですか」

「ずいぶん、表情が穏やかになった」

「そうですか。気づきませんでした」

「何か得るものはあったかい?」

「暁を見ました。あそこまで美しいと思えたものは、初めてでした」

 東雲は眉をあげると、すぐにまた穏やかな顔つきに戻った。

「そう。それは良かった。ここは曇っていてなにも見えないからね」

「自分の名前を誇らしく感じました。これで、悔いなく眠れます」

 東雲は満足げに微笑むと、片手を暁に差し出し言った。

「おいで」

 暁は言われるがまま東雲のそばに行くと、ひざまづいて東雲の膝下に頭を垂れた。視力が落ちはじめていた。

「もう私は暁を見ることはできません。あなたに言われた言葉を守ることも、もうできません」

 東雲が暁の髪を撫でると、暁の肺が一瞬大きく膨らんだ。

「君はよく尽くしてくれた。幸せな夢を見ておいで」

 体は泥のように脱力していき、皮膚が流れ血管と骨が溶け、髪は蒸発し、最後は東雲を見つめたままの、硝子製の眼球が残った。瞳は美しいままだった。

 そしてまた、新しい暁が生まれた。


 ずっと昔のこと。

「まずは明日の朝まで待て。それから一日、また生きてみろ」

 生まれたばかりの頃に、東雲が暁にかけた言葉だ。

 この言葉を思い出すと、少しだけ気持ちが軽くなった。朝を待ち、生きてまた一日を始める。その繰り返しだけで、自分たちは高貴で尊いものなのだと、東雲が教えてくれた。

 暁がまだ、自分の存在に意味を見出そうとしていた頃だ。

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