02:怒りの子供


 子供を語るには、まずその生みの親である一人の男から語らねばならない。

 男は科学者だった。名前はヴィクターという。どこにでもいる、普通の、平凡な、物静かな科学者だった。

 子供の頃から父親に英才教育を受けたヴィクターは、親を悲しませてはいけないと努力を重ね、有名な大学に入った。家族からも友人からも、将来を期待されていた。彼自身も、自分の未来を信じていた。

 しかし現実は違う。大学に入れば彼より頭の良い学生など大勢いた。

 在学中から目に見えるように成績が悪くなり、父からは失望され、母からは慰められるどころか、咎められることもなかった。弟はそんな両親の機嫌を取り、彼と距離を置くようになった。ヴィクターは次第に人が信じられなくなり、彼を心配する友人たちとすら会わなくなった。

 両親を失望させた悲しみ、おちこぼれた自分を嘲笑う友人への憎しみ、こんなふうになってしまった自分への怒り。彼の胸の中にはいつも真っ黒な雨が降っていた。


 そうして20年が経った。どうにか大学を卒業したヴィクターは、誰もが知る大きな企業に職を得て、事務員として働きながら長いあいだ自分の研究を続けていた。

 どうしたら、みんなが自分のことを認めてくれるのだろうか。そんなことばかりを考えていた。馬鹿馬鹿しいのはわかっている。科学は人の役に立たなくてはいけない。己の気持ちを満たすことだけを目的にしてはいけない。そうわかっていながら、ヴィクターは心のどこかで人々に賞賛されることを望んでいた。


「だったら、一番すごいと思わせるものを作ってやる」


 ある朝起きると、頭が冴えわたっていた。見るもの全てがいつもと違って見えた。誰もが間違いなく驚いて、自分のことを褒め称えるであろうもの。そんなものを作ってやろう。ヴィクターは密かに続けていた研究にさらに没頭した。


 研究の成功は、彼にとって自分がこの世に存在する意味が伴う瞬間だった。

 彼は、命を作り出すことが出来た。命を作り出す神になることが出来た。少なくとも、この小さな自分の部屋の中だけは、何もかもを自由にすることができた。



 それは、子供の姿をしていた。

 彼は、「怒り」から生まれた子供だ。科学者の怒りから生まれた子供。

 呪いと言っても良いかもしれない。

 言葉は与えられていなかった。ただ、思考することは許されていた。

 簡単な喜怒哀楽があった。それらが表情に出る術はなかったが、

 まるで本物の人間のようだった。


 「怒り」を生み出したヴィクターは、研究の成功と自分の命とを引き換るように数ヶ月後に死んでしまった。病気だった。怒りの存在を彼は隠し続けた。あれほど欲していた賞賛の声には、もう興味がなくなっていた。

 生きているあいだ、ヴィクターは自分の子供のように「怒り」を可愛がったが、怒りにはそれが一体なんなのか、まだわからなかった。

 家から出たことがなかった怒りは、外の世界に興味を抱く。 

 外に降る白いものはなんなのか。窓の向こうに見える丸く輝くものはなんなのか。家の外を歩く自分と同じような姿をしたものはなんなのか。

 怒りは家の外に出た。禁止されていたが、今はもう叱る人がいない。

 怒りはヴィクターから教えてもらった、ある6語だけをはっきりと覚えていた。


「命をなくした人にはお別れをする。こう言うんだ」


“さようなら”


「それと、好きなひとにはこう言う」


“愛してる”


 だから怒りはヴィクターとさようならをした。

 冷たくなった頰をなでて、ヴィクターが怒りにそうしたように、額にキスをした。


「さようなら、とうさん。あいしてる」

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