01:虫の男
湖の近くから町の明かりを眺めるのが私の趣味だった。
あちら側には人間が住んでおり、彼らの気配を感じられるのが楽しかった。
私の身体はとても小さかったが、夜でも目は効き遠くまで見渡せることができるし、いろんな音を聞き分けることができるので不自由と感じたことは一度もなく、むしろこれくらいの方が何かと都合が良いと感じるくらいだ。
私は人間たちの前に絶対に姿を見せることはない。虫たちの前にも頻繁に姿を見せることはない。
「人間はともかく、自分たち虫の前にはもう少しお姿を見せて下さい」
これは虫たちの言い分だ。もちろん、面と向かって彼らから聞いたわけではなく、遠くで誰かが言ったことを、私の身体が聞いていたに過ぎない。
彼らから私は、神さまと呼ばれている。虫の神さまだ。
このネーミングはどうかと思う。ただの神さまではいけないのか。何度か変えようと思ったこともあったにはあったのだが、結局一度も変えたことはない。他に何も思い浮かばないし、わかりやすいからこのままで通している。周りには私のような存在がたくさんいて、みなそれぞれが神さまだから、区別をするためにはちょうど良いのかもしれない。もともと虫専門の神さまだったわけではなく、ここいら一帯を管理しているうちに、気づいたら虫たちにそう呼ばれるようになっていた。放っておけば良いものを買って出てしまったわけだ。
私は毎日、虫の世界の秩序を守るために彼らを見守っている。決して監視ではない。彼らの間で何か問題があれば、ただ黙って見ている。口出しはしない。助けることもしない。では秩序を守ると言ったことが嘘かというと、そんなことはない。
彼らは私という存在がどこかに必ずいるとわかっている。だから神頼みをする。何かあれば必死に祈るし、何もなくても必死に祈る。一日の始まりにまず祈り、一日の終わりにもまず祈る。ここまで神に祈りを捧げる虫たちも珍しいものだと感心した。祈ることで、彼らは心の平和を保っているらしい。
この習慣がいつから始まったのか、私はよく知らない。一匹の雌カナブンが空に向かって前足を動かしているのを見つけた時から、私は祈りの存在を知ることになった。
その雌カナブンを見つけたのは、ある日の夜のことだった。
初めの内は可笑しな癖を持っている雌だと思っていたが、数日後、他のカナブン達も前足を空に向かって動かしている。それが朝にも行われ、たびたび昼間にも行われる。その可笑しな動きが祈りの仕草だと気が付いたのは、カナブンたちが私に向かって言葉を発しながら前足を動かしていたからだった。
こうして神頼みされることが日常茶飯事なので、気が向いた時だけ、その虫の願いを叶えてやることにした。例えば、樹の蜜を枯れないようにしてやるとか、草を少し増やしてやるとか、彼らの運命を大きく変えない程度の小さな願いを聞き入れる。この地上から彼らが絶えないように守ってやるのだ。虫たちの間で起きた問題は、虫たちだけで解決すれば良い。それ以外は手助けをしてやらなければならない。気を抜くと彼らは絶滅してしまう。
とは言っても、この仕事を長いあいだ続けていると次第に飽きが生じてくる。神さまでも飽きることはある。仕事は好きだが何か物足りない。その物足りなさが、私の落ち着きを日に日に無くしていく。毎日同じことを繰り返していると、阿呆になってしまう気がする。
神さまがこんなことを考え続けているのは良くはない。だから私はとうとうある年に、友人で信頼できる樹の神に悩みを打ち明けた。すると彼は意外な提案をよこした。
「虫たちの願望を、どんなものでも無条件に聞いてみてはどうだ」
というものだった。温和で真面目な彼から出てきた、とんでもなくおっかない言葉だった。
そんなことは出来ない。
そう答える私に樹の神は、そのままで正気を保っていられるのか、と聞いてきた。これには言葉が詰まってしまった。自信がなかったのだ。
「つまらないことを我慢する必要がどこにある」
無表情が逆に笑って見える樹の神の目が、私の目を見つめて言った。私は怖気付いたが、楽しそうだとも思った。
その夜から、カナブンたちの願いを無条件に叶えてやることにした。
ただし、明らかに虫の規模感から外れるような無理な願いは一夏に一度だけ。それ以外の簡単な願いはどれも叶えてやる。要は特別な願いを叶えるチャンスを得ることができるのは、早い者勝ちということだ。そんな決まりを自分の中で作り、楽しむことにした。
木の枝に座って虫たちを眺めながら、私は樹の神に聞いた。
「残酷だろうか」
樹の神は答えた。
「全く」
増えすぎたと感じたら、何百何千の樹木を枯らしても平気だ、と樹の神は言った。現に、数十年前に一度それを試したことがあると。
残酷だなと言いかけて、口をつぐんだ。私のしていることは樹の神がしていることと変わらない。
そうして私は、その残酷な楽しみ方を数百年間にわたって続けている。
長い間続けているとそれが当たり前になり、罪悪感も徐々に消えていった。
ある月夜の晩、私がいつものように湖から向こう岸の景色を眺めていると、一匹の雄カナブンが私の名を呼んだ。
「神さま。聞こえているなら、どうか出てきてください」
くつろいでいるところを邪魔されたくなかったが、私はカナブンの前に姿を表した。突然のことに驚いたのか、カナブンは目を丸々とさせたまま動かなくなった。
呼び出しておいてそれはないだろう。
動かなくなったカナブンを元に戻すために、彼の背中に思い切り張り手を食らわした。呻き声を上げた彼は同時に正気を取り戻し、涙まなこになって言った。
「神さま、どうか僕を人間にしてください」
嬉しいのか悲しいのか、それとも私が食らわした張り手のせいか、雄カナブンの目からは涙が溢れていた。
この雄カナブンは人間に恋をした。人間の雌、いやこの場合は女。人間の女に近づくためには人間の雄の姿になるのが一番手取り早いと考えた末、わたしに願いを叶えてもらい、湖を越えて人間の世界に入ろうとしていたのだった。
「簡単ではないことは、わかっています」
彼らの寿命は短い。その短い寿命を使ってまで人間になり、一か八かの賭けに出るという。例え人間になったとしても、思い人へ気持ちが伝わるかわからない。失敗するかもしれないのだ。それなら虫の世界で子孫を残すことを考えたほうが賢明だと、私は彼に言った。失敗した虫たちを私は大勢見ている。
「それでも良いんです。失敗しても一生虫のままで後悔するより幸せですから」
震える雄カナブンを眺めながら、私は昨晩のことを思い返した。
昨日の夜も、人間になりたいと申し出てきた雄カナブンがいた。
人間に復讐するのだという。自分のたちの住む土地を奪い、仲間を奪った、その復讐だ。以前、樹の神がぼやいていたことがあった。自分の力では止められない虐殺がある、と。
復讐カナブンの願いをすぐに叶えようとはしなかった私も、樹の神の言葉を思い出し、結局は復讐カナブンの願いを叶えてやることにした。
「残念ながら今年はもうそういう類の願いごとは叶えることはできない」
私は、昨晩に起きた事実を目の前の雄カナブンに説明した。雄カナブンは途方に暮れ、肩を落とした。
しかし驚いたことにこの雄カナブンは立ち直りが異様に早かった。悲しんでいるかと思えば、顔を上げた瞬間にはもう笑顔になっていた。
「わかりました。僕、諦めます」
諦めは肝心だが、あっさりとしすぎてはいないか。私を呼んでいたときのあの必死さはどこにいってしまったのだろう。
雄カナブンは言った。
「僕の命は、あと七日で尽きます。それまでに、良い繁殖相手が見つかると思いますか?」
「お前が願えば見つかる。それくらいの願いであれば私が叶えてやる」
「本当ですか? ありがとうございます」
雄カナブンは礼儀正しくお辞儀をすると、翅を広げて飛んでいってしまった。切り替えの早い虫だ。
カナブンたちが自分より強い者、美しい者に生まれ変わりたいと願うのは一種の憧れ、夢というやつだ。昔なら、せいぜいアシナガバチとかアゲハ蝶とかあたりが無難だったが、まさか人間とは。何も考えず、木の蜜を舐め、子孫を残す人生で十分ではないか。人間になるのが虫界の流行りなら、そんな奇妙な流行りを作る手助けするのは遠慮したい。
翌日になって、カナブンたちが騒いでいるのを樹の神が教えてくれた。昨晩のことで疲れてしまい、私は熟睡していた。
「虫の神だろう。ちゃんと見張っていてやれ」
樹のことしか興味がない樹の神が私に忠告をしてくるなど、よほどな事態だ。それとも、単に面白がっているだけだろうか。
「あそこだ」
樹の神は、大木の切り株を指差した。
見下ろすと、私に願いを申し出てきた二匹の雄カナブンが並び、息絶えていた。
樹の神が相変わらずの無表情で言った。
「一匹がもう一匹を噛み殺したそうだ」
復讐カナブンが人間になる直前で、もう一匹の雄カナブンと刺し違えた。親友だった二匹は、互いを出し抜こうとした。それが一歩遅かった雄カナブンが、復讐カナブンを妬み、行為に至った。これらが、樹の神が見聞きした事実だ。彼は残酷だが、嘘はつかない。
「なんとも馬鹿な話だ。欲張るからこういうことになる。そう思わないか、虫の神よ」
「ちゃんと見張っていてやれというのは、そういうことか」
私は言った。
「お前は見ていたのか」
樹の神は細い目を更に細めて言った。
「見ていたが、これは虫の世界の問題だ。木の問題であれば俺は手出しをするが、これはお前の仕事だ」
樹の神は言った。確かにその通りだ。
「彼らは、親友だったはずだ」
「それになんの意味がある。後悔している暇があるならすぐにカナブンを増やすことだ。それがお前の仕事だ」
樹の神は声だけを残してどこかに姿を消した。
二匹のカナブンの周りには、たくさんの虫だかりができていた。
こうなった原因は私にもあるのではないか。虫が人間になるという浅はかな願いを私は聞き入れた。そのせいで、彼らは夢ばかりか残りの人生までを失くすことになってしまった。
その時初めて、私は命あるものに哀れむことの真の意味を知ったのだった。
やがて二匹は蟻や鳥たちの餌になり、残った翅や足は雨に打たれ、土に還っていった。
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