忘却保管庫

Y/F

00:透明人間の手前

 外に出ることを許されない僕は、自由になる時間のほとんどを屋上で過ごしていた。


 仕事が終わったあとや週末は必ずここに来て、遠くの街を眺めることを日課としている。だいたい来るのは夕方で、街を見て、コーヒーを飲みながら、日が暮れるまでの時間を潰す。こんなことをいつから始めたのかはあまりよく覚えていないが、外出禁止令が出てしばらく経ってからだったように思う。最初は屋上すら許可が下りなかった。移動して良いのは、自分の部屋がある建物の中だけ。建物の周りは森に囲まれているし、一番近い街だって何キロも先にある。誰も僕を見つけられはしないのに、どうしてここまでする必要があるのだろうか。思い悩んで仕事を休み、一日中部屋に閉じこもったせいで、好調とはいえなかった身体の調子が更に悪くなった。


 見かねた担当医が、屋上立入許可証を持って部屋に来たのは、そう遅くなかった。


 小さいけれど自由を手に入れた僕は、この遊び場が大好きだ。前方に見える山の麓には小さな街があって、その街の中を双眼鏡で探検するのが面白い。ある場所には塔の形をした住居がたくさん建っていて、ちょうど窓がこちら側を向いている。中の様子がよく見えるから、屋上据え置きのベンチに座り込み、住人の姿を探しては観察する。一日の中で唯一、自分のことを忘れていられる時間だ。


「また覗きか? 良い趣味だな」


 住人探しに夢中になっていると、後ろから馨の声が近づいてきた。三枝馨。僕の良き友人。


「ここからが一番良く見えるんだ。見るか?」


 と、双眼鏡を覗いたまま僕。


「遠慮しておく」


「まあ座ったら」


 ベンチの隣に座るよう声をかけたけれど、馨が動く気配はなかった。


「明日の投薬のこと、お前、覚えてるのか?」


 塔の中に夢中になっていた僕は、いきなり現実に引き戻された。


「え、嘘? 明日?」


「連絡はしたはずだ。メールを確認しないお前が悪い」


「前の投薬から一ヶ月も経ってないじゃないか……」


 僕に対する嫌がらせとしか思えない。予算は湯水のように涌いて出てくるわけじゃない。それ以前に、投薬は辛い。時間がかかる上に気分も悪くなる。それで症状が改善されればやる価値はあるが、これまでの薬はなんの結果も出さない上に副作用も強く、ただ苦しいだけだった。 


「今回は自信があるそうだ」


「その度に僕は苦しんでる」


「どうして開発に参加しない?」


「完成する見込みがあるなら参加する。でも現状じゃあ無理だ」


 馨の表情は険しかった。普段から表情は柔らかい方ではないけれど、ここのところ馨は、眉の間にずっと皺が寄ったままだった。もっと微笑んだら女性にもてるよ、と言ったら本気で怒られたことがあった。冗談なのに。


「暑いから脱いで良い?」


 了承を得ようとする僕に、気にするなと言った顔で、馨は肩をすくめた。


「では遠慮なく」 


 僕は頭部を覆っていた肌を鎖骨から持ち上げ、首、顎、顔面、額、髪の毛、と順にめくり上げた。


 残されたのは、白い頭蓋骨、窪んで深いクレーター状になった両目、隠しようがなくなった歯列たち。本来、人の顔としてそこにあるべきはずのものは何もない。しかしこれが、正真正銘、僕の素顔だ。


「やっぱり素肌が一番だ。これは顔が凝ってしかたない」


 剥ぎ取った人工皮膚のマスクは、僕の手の中でうな垂れている。


「雑な脱ぎ方だな。ホロが壊れたらどうする」


「大丈夫、大丈夫。いつもこの脱ぎ方だから」


 僕の頭と顔を覆っている人工皮膚には常時ホログラムが投影されていて、本来は見えない眼球や髪の毛、肌の質感が表現されている。遠くから見られる分には、違和感はない。


 馨は僕の顔を見慣れているせいで、マスクを被っているときも脱いでいるときも、態度は少しも変わらない。あえて言うなら、少しだけ悲しそうな顔をする。僕の気のせいかもしれないけれど。


「みんな必死でやっている」


「わかってるよ」


 返事半分に、僕はまた双眼鏡を覗く。


「楽しいのか? それ。ただの覗きだろ……」


「ここから出られないんだ。外の世界のことも知らなくちゃいけない」


「そんなに熱心に一体いつも何を見ている?」


「女の子だよ」


 双眼鏡のピントを調節しながら僕は応えた。


「女の子を探してるんだ。偶然見つけて姿を追ってたら、いつの間にか探すのが当たり前になった。どうやらその子、街の店で働いてるようなんだ。パン屋かケーキ屋か……わからないけど。その子が店の客と話してるのを見ると、何だか幸せな気分になる。ただ笑顔で商品を袋に詰めてお金を受け取って、客を見送るだけだ。そのルーティンをずっと見てる。でも幸せなんだ。それだけで」


「興味があるのか? その娘に」


「いや……、不思議なことを教えてあげるよ、馨。彼女に対してやましい気持は1ミリもない。ただ、普通の日常が送れる彼女が羨ましい。あれがもし自分だったら、と思いながら眺めてる。これは恋心を抱いたり、一方的な、曲がった愛情を持ってしまうより厄介なことなんだ。僕にとって」


 厄介だ。外に興味を持ってしまうことは。


 わかっていながら、僕は毎日、屋上に来ることを止められない。


「友人の素行が悪くなっていくのを止められなくて悔しいよ」


「……怒らないの?」


「怒る理由がない。それに、俺にも責任がある」


 馨はスーツの内ポケットを探り、煙草を出して火をつけた。


 髑髏のマークがついた黒い箱が、馨が好んで吸っている銘柄だ。戒めとかなんとか言っていたような気がする。毒薬でも入っているのかと見紛うようなパッケージだけれど、親近感が湧いてしまう自分が嫌になる。


「煙草、やめたんじゃなかったっけ」


「時々吸う」


「一本くれって言ったら怒るかい?」


「吸わないだろ」


「どんな味なのか知りたくてさ。今吸ったら面白いことになるよ。煙が骨の中を通って見える」


「面白くねえよ」


 馨は笑って、煙を吐いた。


 僕も笑みを浮かべて、また街を見た。


 髑髏模様の服を着た子どもが部屋の中で飛んだり跳ねたりしていた。手にはカボチャのバスケットを持っている。今日はお祭りだったようだ。

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