山猫はなく

黒潮梶木

山猫はなく

冷たい風が吹く。草木が揺れる。フクロウが遠くで声を上げる。変わりないいつもの光景に山猫は大きな欠伸がでた。そして背を伸ばすと、暗い暗い森の中をまるでサバンナのライオンのように歩き出した。

落ち葉に枯れ枝、白い息。山猫は鼻で笑った。そして近くにいたネズミに狙いを定め、勢いよく飛びついた。ネズミは暴れる。そいつを山猫は頭から飲み込んだ。そしてまたゆっくりと森の奥深くへと入っていった。

いつもの獣道を歩いていくと、いつも通りやたら平らな通りに出た。人間がならしたというこの道を山猫は歩きやすいという理由で気に入っている。そこをひたすら登っていった。月が山陰から小さく顔を出している。

緩い坂を登っていく。昼間こそ車でうるさいのこの道も夜となれば獣道と化す。ところがその日は、どこかから車の走る音が聞こえたのだ。山猫は道の片隅に寄り、車が走り去るのを見送った。そしてまた、ゆっくりと登っていった。

月が遠くの山頂に腰をかける。山猫は道の隅に止まる車を見つけた。さっき追い越していった車だった。中には誰もいない。代わりに森の中へと進む足跡が残されていた。興味本位で山猫はその足跡を辿った。

近い。そう考えたのは匂いである。人間は独特な匂いがする。それも一人一人違った匂いがするのだ。山猫も何度か麓の街に降りたことがあるが、あそこは苦手だった。臭いしうるさいし、やたらと明るくて目が痛くなる。けどうまい飯にはありつける。だからたまに降りるのだ。この時の人間は汗の匂いが強かった。

風でどこかの山が唸る。山猫は瞳に人間を捉えた。そしてその人間の手には縄が握られていた。罠でも仕掛ける気なのだろうか。にしては様子がおかしい。狩人ならば匂いは愚か痕跡すら消す。しかしこいつは来たことを知らせながら歩いている。山猫は警戒しながらもゆっくりと人間に近づいた。

人間は山猫に気がつくと一瞬目を見張ったが、すぐに落ち着きを取り戻した。そしてゆっくりと地面に腰をかけ、大きくため息をした。山猫も人間の近くに座り込んだ。

その人間は何も話さなかった。ただゆっくりと時間が過ぎてゆくのを待っていた。気がつけば、月は空の高いところまで登っていた。山猫は欠伸をした。しかしなぜだか退屈ではなかった。目の前にいるこの人間がどうも気になって仕方なかったのだ。こんな真夜中に山奥で、それも一人でなにをしているのか。意味がわからないからこその興味であった。山猫は人間をよく観察した。腕の位置を変える、少し腰を上げてみる、空を見上げる。こんな何気ない行動になにか意味があるのでは無いかと勝手に思い込んだ。

月が降り始めた頃、山猫はゆっくりと人間に歩み寄った。これは謎解き解明のためのアプローチであった。山猫は人間の隣に座り、そして小さく鳴いてみせた。人間は山猫の鳴き声を聞くないなや、ふっと鼻で笑いごろんとその場に寝っ転がってしまった。謎は深まるばかりである。この人間は何がしたいのか。山猫はじっと人間を見つめた。人間は何も話さなかった。ただ一心に夜空に光る星々を眺め、時々ふぅっとため息を漏らすのだった。山猫はどこかに小さく蠢く恐怖に体が疼いた。

月が低くなり、夜空が微かに白く濁って見えてきた。人間は腕の時計を見て、大きく伸びをした。そしてゆっくりと立ち上がり、木の枝に輪のついたロープを吊り下げた。その瞬間、山猫は人間の足に噛み付いた。やはりこいつは狩人だ、この縄はやはり罠のためのものだ。山猫はそれを瞬時に判断し、人間に攻撃を加えたのだ。人間は勢いよく倒れ込み、やっとの思いで山猫を振り払うと、冷えきった地面に体を小さくうずめた。赤い血が滴る。枯葉の擦れる音が静かな森に響いた。

それから数分たった後、人間はまたゆっくりと立ち上がった。山猫は警戒した。まだ懲りぬようなら今度は足を引きちぎる。そんなことを思いながら喉をうならせた。そんな軽快とは反対に、人間の顔つきは恐ろしいほど穏やかだった。人間は山猫をみた。そして何かを決心したかのような目をし、ゆっくりと森を出ていくのだった。山猫が後を追うことはなかった。吊り下がったロープの下に寝転び、また大きく欠伸をした。月は歩き疲れたのか、先程とは反対側の山に腰をかけている。そしてどこからか、エンジン音が鳴り響いた。山猫は小さくなき、平和な森に眠った。








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