いちごミルク

朝比奈爽士

Sugar×Sugar

 僕は耐えきれなくなって家を飛び出した。


 雪が積もった道に、ザク、ザクと足音を立てながら歩く。

 髪は降っている雪で真っ白に彩られ、視界は僕がはぁーと吐く白い息で遮られている。

 

 手は冷たいなんて感覚すら残っておらず、氷のように固まったまま動かない。

 体は芯から冷え切ってしまっている。

 

 それでも僕は、歩くことをやめられなかった。

 家でじっとしてなんかいられるはずがない。

 まさかあの女に息子を連れて家を出ていく、という行動力があるなんて思いもしなかった。


 僕が仕事から帰ってきたら家の中に温もりは無かった。

 妻も息子もいない、ひんやりとした家は僕のことを歓迎してはくれなかった。

 どこまでも冷たく、何を叫んでも誰にも届かない。

 

 何だか昔もこんなことがあったような気がする。だがよく思い出せない。

 

 息子のためを思って、少し厳しく教育しただけなのにどうしてなんだ。

 父から殴られるなんて当たり前じゃないか、軟弱者め。

 そう心の中で言い訳をしても、反応なんてあるはずがなかった。

 

 冷静になろうと外を歩いているはずなのに、ただただ怒りが増していくばかりだ。  

 感覚がなくなってしまった手を、ただ力任せに強く握りしめていた。

 どうしようもなく理不尽な怒りに比例するように、足もどんどん速くなっていった。


 しばらく歩いたところで、何かとても固くて大きなものにドンッとぶつかった。


 もしや、人にぶつかってしまったかもしれない。

 僕はもとより血色の良くない顔をさらに青くしながら、すみません、すみませんと何度も頭を下げた。

 恐ろしく冷たい風がびゅうと、僕を殴るように吹き付ける。


 反応がないことに疑問を感じてゆっくりと視線を上げる。

 目の前にあったのは蛍光灯が煌々と輝く赤色の自動販売機だった。

 その自動販売機は、今にもこぼれそうなほど雪の帽子をかぶっていた。

 

 そのことに気づいた瞬間恥ずかしくなって、急いで周囲を見渡す。

 周りに誰もいなかったのが唯一の救いだ。

 

 安心するとまた猛烈に怒りが沸いてきて、たまたま落ちていた石ころをガンッと蹴り飛ばした。


 そうして気を取り直し、少し温かいものでも飲もうとポケットの中を探る。

 ポケットの中には、氷みたいに冷たい100円玉があった。

 震える手で自動販売機にその100円玉を入れると、何十個ものボタンがピカピカと点灯する。

 

 本来は一番下の段の、温かいコーヒーのボタンを押そうとしたはずだった。

 だが、感覚の無くなった手は言うことを聞かず、一つ上の段のボタンを押してしまった。

 

 いちごミルクが、ガシャン!と盛大な音を立てて落ちてくる。

 もう一度冷えた手を使ってコーヒーを買おうとする気力も起きず、白い息を吐いてからいちごミルクを手に取った。

 氷のように冷たい缶を手に持って、じっと見つめる。

 

 しばらくして思い出す。このいちごミルクは、息子がよく飲んでいたお気に入りのものだということ。

 また自分も幼い頃大好きな飲み物だったこと。

 

 なぜ忘れてしまっていたのだろう?

 そんな疑問を感じながら缶の蓋をカシュッと開ける。

 鼻にはいちごの甘酸っぱいような、心地良い香りが入ってきた。

 

 そして、缶に口をつけてグイっと飲む。甘いいちごと甘いミルクが合わさった、甘い甘いいちごミルクがごくごくと音を立てて流れていく。

 そうして甘さだけが取り残された、とても甘ったるい口を僕は開いた。


「甘くてたまらない。これが子どもか……」


 この甘さが昔のことを思い出させる。

 幼い頃、デパートへ買い物に行った帰りに、母親に自動販売機でいちごミルクを買ってもらったこと。

 そして公園のベンチに座って母と一緒に飲んだこと。


 二人とも笑顔で、とても甘くて幸せな時間だった。


 だがそのまま家に帰ると、父親に思いきり殴られた。

 僕はその勢いで一瞬宙に浮いてから、部屋の床にビタン!と叩きつけられた。

 

 後から聞くと、どうやら父は自分だけ置いて行かれたことが不満だったらしい。

 拳を握りしめながら怒る父に、泣きながら怒鳴る母。どうしようもなくなって、部屋の隅で泣きじゃくる僕。

 

 あの頃の僕は苦さなんて知らなかった。大人の苦さなんて知るはずもなかった。

 だから幼い僕には、どうして母親が僕を置いて家から出て行ってしまったのか本当に分からなかった。


 このいちごミルクのような甘さしか知らなかった。


「僕の子どももいつか苦さを知るだろう。だがそれを知るのは今じゃなくていい」


 僕はそうつぶやくと飲み終わったいちごミルクの缶を、カランとゴミ箱に入れた。

 

 そしてスマートフォンを取り出し、妻の携帯番号を入力した。


 雪はもう止んでいた。

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いちごミルク 朝比奈爽士 @soshi33

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