第46話

 ――そうだ。あの時俺は、引かなかった。だから、これからも選び取れる。絶望的な選択肢の中でも、自分が今できる最善のことを、成さねばならないのだ。


「志乃……。どこだ……? 居るなら、返事を、してくれ……」


 満面の笑みが似合うあの少女ではなく、いつも無表情でとぼけた少女の名を叫ぶと同時。


 生と死の狭間の世界に居たはずなのに。


 気付けば紘は、雨が降る公園の砂場に立っている。


 そして、その足元には、嗚咽を漏らして泣いている少女が、居た。


 現実ではない、魂の世界。本物の志乃の魂が存在するなら、「二次生産品」である志乃の魂が存在するのも当然だ。


「――だって……だって……わたしは、普通じゃ……ないから……。もう、コウに褒められた笑顔も、芹那を泣き止ませた優しい顔も……もう、作れないから……。茉莉やセレナーデと、笑いあうことが、もう出来ないから……」


 そのまま、志乃はしゃくりを上げて顔を伏せる。


 ――寒い。紘も志乃も全身がびしょ濡れだ。どんよりとした曇り空は、まるで自分達の心象を具現化しているのではないかと思ってしまう。


 だが、天気に自分達の心象を定義される謂れは無い。雨が降っているからって、悲しみにくれる必要はない。笑顔が幸せを定義するとは限らない。無表情が無関心を意味するとは限らない。そんなこと、紘はとっくに知っていた。隣に居る少女が、そうだったから。


「――普通って、なんだろうな?」


 水浸しになった泥沼に置かれた志乃の横に、紘が座る。肩が触れ合う。少し驚いたのか、志乃がビクっと震えるのが分かった。


 その反応が普通の女の子みたいで、ちょっとおかしかった。


「……志乃はどうなれば普通で、どんな状態なら、大丈夫だと思えるんだ?」


 志乃が鼻を啜る音が聞こえた。


 そして顔を上ると、真っ赤に腫らした目で、こっちを見る。


「――嬉しい時に笑えて、他人を喜ばせる人間……。それが、普通ではないのですか?」

「それは、大多数のひとがそういう反応をするだけの話だと、俺は思う。笑ってなくても楽しんでいるヤツが居ることを俺は知っているし、――その姿を見て、楽しいと思えるヤツも、俺は知っている……」


 志乃がポカンと口を開けている。――驚いた。コウがそんなことを言うなんて。とでも言いたげな顔だ。だが、紘だって現実ではこんなこと言えない。

ただ、生と死の狭間の世界だから、直接的な表現しか出来ないだけだ。多分。


「で、でも……あの時、茉莉の能力でコウの望みを聞きました! コウが会いたかったのはわたしではなく、あちらの〝志乃〟なんでしょう⁉」

「あれは……いや……そうだな。俺は確かに、あの子に会いたかったんだ……」


 その指摘を紘は甘んじて受け取る。でも、


「聳え立つ山や青々とした木々。大海原に光り輝く太陽。それに美しさを感じる人はいっぱい居る。俺だって、そういった大自然を被写体に絵を描きたいと思うし、それが自然だとも思う」


 志乃が「やっぱり、そうなんじゃないですか……」と言って、俯く。


 しかし紘は「でも、」と切り出して、志乃の手を強く握って、言った。


「キャンバスに描かれた架空の人間を美しいと思っても、いいと思う。コンピュータグラフィックで作られた架空の世界の風景に感動を覚えても、いいと思う。何に価値を見出すかなんて、誰かに決められる謂れは……無いんだ」


 そして紘は、志乃の両肩を掴んではっきりと目を見る。


「志乃。俺は、お前と一緒に外の世界へ帰りたい。矛盾だらけで責任も取れない大人達が跋扈する世界でも、俺は……志乃と一緒なら、何処でも戦えると思うんだ……」


 だが、志乃は悲しげな顔を浮かべて目を逸らす。


「……〝本物〟のわたしと居た方が、ずっと、素晴らしい世界が造れるかもしれないのに?」


 そうかもしれない。満開の桜のように、見る人の誰もが幸せになる笑顔の女の子と一緒なら、自分や芹那、蘭子のような人間も、エンテレケイアのような存在も苦しまないユートピアが実現できるのかもしれない。


 けれど――。


「――でも、俺は、自分だけが知っている綺麗な花が見られるなら……その花が咲いていないユートピアよりも、その花が一輪だけでも咲いているディストピアを、選びたいんだ……」


 あの時。巨永に銃を渡されたあの日に、紘の生き方は決まっていたのだ。一緒に生きていたいと思う人達が居るなら、天国なんかに逃げるよりも、苦しんで傷つく地獄を選ぶ。


 自分が理不尽な目に遭っても、誰かを助ける人間でありたいから。


 その覚悟を聞いた志乃は、また瞳に涙を浮かべ始めた。そして、恥ずかしそうに再び俯むくと紘の懐に飛び込んで、ポカポカと胸板を叩き始める。


「…………ば、バカです! コウは大バカです! 本当にバカです!」


 紘は苦笑しながら、黙って叩かれる。そして、志乃はひとしきり殴り終えると、


「……でも、コウが大バカだなんて、とっくに知っていることでした……」と声を漏らし、

「――まったく、世話が焼ける相棒です、コウは……」

と上目遣いでこちらを見上げて、バカにするように、呟いた。

「はっ、それはこっちの台詞だ、志乃。UV級のエンテレケイアでも、頼れる相棒が居ないと、本領を発揮できないはずだ」

「自分を買い被りすぎです、コウは。フラグシップ・モデルのわたしと並び立てることを光栄に思わなければいけないところですよ、ここは」

「お前なんかと一緒に並び立てるやつなんて、俺しか居ないだろ?」

そして、お互いを見つめる。志乃はもう泣いていなかった。


 雨は降り続いている。


 だが、寒くても濡れていても、もう二人なら、平気だった。


「……なら、行きましょう、コウ。――もう、わたしは〝わたし〟に負けませんから」

「――ああ、帰ろう。俺達の……地獄に」


 志乃が差し出した手を、紘が手に取る。


 そして、雨雲も砂場も公園も、描き割れた絵画のように亀裂が走り、再び真っ暗な闇の世界が、姿を現した。


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