第10話

      *

 都内に構えるマンションの一室のリビングで、紘は筆を手にキャンバスと向き合う。


 被写体はこの間スーパーで買ったリンゴだ。既に鉛筆による下描きは終わり、今は下塗りの段階である。リンゴは赤いが、水彩画の場合、そのまま赤で塗ることはしない。彩度の高い黄色系の絵具で色付けした後、ようやく赤い絵の具の出番となる。


 紘は、絵を描くのが好きだった。絵を描いていると、世界という仕組みを徐々に解体し、自分なりの理解が深まってくると思う。このリンゴの水彩画の描き方を知った後、よくよくリンゴの果実を観察すると、確かに全体が赤いわけではなく、黄色系だった実が段々と色づいて熟していったのだと改めて実感できた。超能力界隈に身を置くことが無ければ、美術の道に進む選択肢もあったのではないかと、たまに思う。


「わー! お兄ちゃん、相変わらず上手だね。いつも思うけど、何処で覚えたの?」


 今日は土曜日の昼。部屋の中をうろついていた芹那がキャンバスを覗き込む。


「独学だよ。特務にぶち込まれる前、研修教場で似顔絵の講義はあったけどな」


「……それは容疑者を特定するための人相書きの講義だったのでは……?」


 芹那の言う通り。富士演習場の僻地にある国家行政内証機関第六部局・厚生労働省養成局管轄の研修施設に叩き込まれたのは十一歳の頃。蘭子と出会ったのもその時期だ。


 地獄の教場生活を記憶の彼方に追い出していると、芹那のスマホに着信が入る。


「もしもし? あ、巨永さん! この間は挨拶出来なくてごめんなさい。――そんな、謝らないでください! 巨永さんは忙しいんですから。はい。あたしは元気です! 学校もちゃんと毎日通ってるんです。偉いでしょう? えへへー。――え、お兄ちゃん? 居ますよ」


 通話相手は巨永のようだ。先日会えなかったことを詫びているらしい。あの男は、紘には厳しいくせに、芹那には甘いところがある。これはジェンダー問題ではなかろうか。


「お兄ちゃん。巨永さんが話したいことがあるって」


 仕事の話か? 出動命令だったら嫌だなーと思いつつ、芹那のスマホを受け取る。


『――紘だな? 先日のベトレイアの件で分かったことがある。芹那を連れて、今から本部まで来い。可能な限り、早くだ。時は一刻を争う』


「え、今から? ……分かった。すぐに向かう」


 そう返答すると、通話が切れる。なんだか、巨永の声はいつになくハッキリしている。


「芹那、いまから特務に行くぞ。準備してくれ。課長がお呼びだ」


「ふぇっ? でも、今から昼ドラの再放送が……。新妻の浮気相手がバレる回なのに」


 情緒教育に悪影響を及ぼしそうなあらすじを語る妹をせっつき、紘は芹那と自宅を出る。


 最寄りの地下鉄に乗車し、都心へ向かう路線へ乗車。休日でごった返す車内で紘は、芹那を救う手掛かりを得たであろう巨永に対し、期待が膨らむ思いでいっぱいだった。


「お兄ちゃん、なんだか凄く嬉しそう。巨永さんの声も明るかったし」


「課長が……? あの男がわくわくしているなんて、想像もできないな……」


 芹那でもそう思えるぐらい、課長は何か明確な手掛かりを掴んだのだ。この組織に入って五年。ようやく、自分の努力が実を結ぼうとしている。芹那への贖罪への努力が。


    *


 青く広い太平洋沖を航海任務中の護衛艦・DDG‐174「きりしま」。

 

 米国との技術協力の結晶であるイージス艦内で突如、警報が鳴り響いた。


 前方甲板に備え付けられた垂直発射装置Mk.41のセル一基が自動的に開放され、白く巨大な煙を上げて円柱の物体が姿を現したのだ。


 そして物体の下部が火を噴き始め、飛んだ。


 飛翔体の名前は、BGM‐109。 


 この対地用巡航ミサイルは、海上自衛隊に保有されていないはずの装備だった。


     *


 空気を震わす轟音が、国会議事堂前駅地下構内にまで響く。


 それに端を発した揺れに驚き、芹那は「わっ」と思わず紘に抱き着いてきた。紘はすぐさま、スマホの警報アプリを見る。


「地震か? 速報は特に出てないようだが……」


「でも、すっごい大きな音がしたよ? なんか、……隕石でも落ちてきたみたいな……」


 芹那は時折鋭いことを言う。妹の表現は紘にも腑に落ちるものがあった。周囲の利用客も驚きや怪訝、困惑の表情で溢れかえっている。


「――とりあえず、外に出よう。事故でもあったのかもしれない」


 階段を昇り、SSI本部ビルを目指すと、ごった返す人々の群れに出くわした。


「建物の側から離れてください! 周辺は危険です! 爆発の可能性もあります!」


「お兄ちゃん……。何、あれ……? ロケット?」


 紘は絶句する。それは、宇宙を目指すロケットと同種の技術で構成される一方、水平・降下飛行させることを主目的とする軍事兵器。それが、原形を留めた形で、SSIビルの窓ガラスと壁面をぶち破り、突き刺さっていた。地面にはガラスと鉄骨が散乱している。


「じゅ、巡航ミサイル⁉ な、なんで、こんなところに突き刺さっているんだ……?」


 報道機関が我先にと集まり、リポーターが切羽詰まった顔で叫んでいる。


「――本日、午後2時すぎ、千代田区霞が関で『建物が倒壊するような音が聞こえた』と119番通報がありました! 警察と消防が駆け付けたところ、民間のビルにミサイルのような物体が突き刺さり、消防と警察による避難活動が始まっています!」


「お、お兄ちゃん! 巨永さんは、大丈夫なのかな……?」


 芹那はその惨状を見て、唇を震わせている。顔色は蒼白となっていた。


「分からない……。何が……起こっているんだ……?」


 紘はスマホを取り出し、いの一番に「巨永幸彦」の連絡先をタップしようとする。が、その時、当の巨永本人からメールが来ていることに気付いた。件名は「課員へ」。文面は、


『現行の任務を中断し、待機命令を下す』。――なんだ、これは……?

 送信時刻はきっかり一四時。前後関係は不明だが、ビルの惨状と無関係ではないだろう。


 すぐに巨永へ電話を試みるが、『おかけになった電話は~』とお決まりの台詞を告げる。


「クソ、こんな重要局面で、まさか死んでねーだろーな、あのオッサン……!」


 エムザラ遺伝子の手掛かりを手にしようとした直前でこれだ。何か関係があるのか?


「あ、ちょっと、お兄ちゃん! どこ行くの⁉」


 紘は人ごみをかき分け、ビルの周辺に近づく。


 入居企業の関係者として、火災の手掛かりを掴めるかもしれない。そうした魂胆から、野次馬の前列までやって来た。すると、


「ったく、思い切りが良すぎるのよ、アンタは。周辺が滅茶苦茶じゃない……!」


「――見せしめですわ。私達に逆らうとどうなるか、各内証機関は今頃真っ青でしょう」


 二人の少女が、野次馬から離れた場所で何か話している。不機嫌そうに相手を詰っている、洒落たオーバルフレームの眼鏡を掛けた金髪の少女と、変わった敬語口調で金髪をいなす、黒い長髪にノートPCを携えた紘と同年代の女。その顔には見覚えがあった。


「アイツは……この間埠頭に居た女……⁉」


 新入り? 知らされていない特務の構成員? 


 ――違う。だって、さっきの会話は……。


 紘が思考を張り巡らせていると――少女二人組が、自分を見たような気がした。


 強烈な悪寒が駆け巡る。紘は本能的に人ごみを逆走し、芹那の手を掴んで走る。


「――ちょ、ちょっと、お兄ちゃん! どこ行くの⁉ 巨永さんは? 特務の人達は⁉」


「走れ、芹那! 出来るだけ早く、この場を離れろ! 自分の安否以外考えるな!」


 ――逃げなければならない。何か、とんでもない出来事に巻きこまれた。そんな直感が、


 紘の全神経に走る。あの二人組の女は、尋常じゃない雰囲気を発していた。


「アイツら……何者だ……? どうして、こんなことに……‼」


 その晩、日本の官庁街にミサイルが突っ込んだ大事件は、世界的なニュースになった。


 北の実験、在日米軍の誤射、中国の宣戦布告など、様々な噂が立ち込める中、総理は緊急会見で、米国から極秘に調達した、実験用対地攻撃用ミサイルの誤作動であることを認めた。敵基地攻撃能力が議論されている中、既に我が国が巡航ミサイルを導入していたことは、南スーダンPKOで大騒ぎしていたはずの国会の空気を一瞬にして様変わりさせた。


 死傷者は判然としなかった。だが、あのビルそのものが非公式機関の拠点だ。マスコミには適当な情報を流して、警察庁と防衛省が情報操作を行うのだろう。


 巨永は見つからなかった。死んだのか、行方をくらましたのか。それどころか、あの日以来、綾崎蘭子が登校していない。電話も出ない。高校ではちょっとした噂になっている。


 そして、天祐志乃。部長室に呼ばれたあの日以来、彼女も所在が分からなくなってしまった。


 彼女は何処へ行ってしまったのか。あの、無表情ながらも感情豊かな相棒にはもう、二度と会えなくなってしまったのだろうか。一つだけ確かなのは、この世界で最も信頼している人たちに、紘はもはや頼れなくなってしまったという事実だけだった。


 そして、高宮紘は警察庁特務情報部に対し、一切の連絡手段を失ってしまった。


 〝エムザラ遺伝子〟の手掛かりを目前にして。

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