8 エピローグ
私はさすらい猫である。
名前は、タビト。
空の青さは、もう怖くない。この空の向こうには「天国」があって、そこには母さんや父さんがいるかもしれないと思うと、むしろ好ましい場所のように思える。
「空」が変わったわけではない。私がどうであろうと人間がどうであろうと、そんなこととは関わりなく、厳然として空はそこにあるだけだ。日々、刻々と色や形を変えながら、存在しているだけだ。
そんな空を見てあれこれ思うのは、人や猫の勝手な思いに過ぎない。
空が変わったわけではなく、私の見方が変わったのだ。
敬子と玲弥は、私が戻ってきたことを歓迎してくれた。
あの家は、本当に居心地が良かった。私を温かく包み込んでくれる場所。私の大切な居場所。
でも、私は、自分の感覚に従うことにした。私は再び、隙を見てあの家を後にした。
敬子と玲弥は、多分、大丈夫。きっと何とかやっていける。決して悩みがなくなってしまうわけではない。すべてが上手くいくわけではない。でも、その中で、もがきながら、誰かと心を繋ぎながら、やっていける。そう思う。玲弥には、本宮早紀という、思いを伝え合うことのできる存在もできたし……。
心配になったら、また、様子を見にいこう。ときおり撫でてもらって、おいしいご飯をもらうのもまた良い。困ったとき、一人が寂しくなったとき、帰ることのできる私の居場所なのだから。
でも、それよりも、もっと「私」を必要としている人間たちがいる。私はそんな人間の心をつなぐために、旅をする。
いろんな場所で、いろんな人間と出会って、銀糸を紡ぐ。それが、私のもう一つの「居場所」だ。
自分が「タビト」だということを忘れてさまよっていた頃、その時の記憶もしっかりとある。思えば、苦しくて、しんどくて、自分自身のことさえ、「母さん」のことさえ、心のの隅に追いやっていたときにも、様々な出会いがあった。
野良猫としての生き方を教えてくれた、先輩猫。店の残りをそっとたべさせてくれた中華店のご主人。釣りの獲物を分けてくれたおじさん。公園に家の冷蔵庫から牛乳をもってきてくれた小学生。
そして、私が肉球を触れることで過去や思いを共有し、銀糸を紡ぎ出した人たち。
私は玲弥の家を出た後、かつて自分がたどった後をまわってみた。
「おー、久しぶりだな。しばらく顔を見ないと思ってたら、どこ行ってたんだ?」
猫集会に顔を出して諸先輩方にあいさつすると、逆に心配してくれた。
「で、お前が探してた母さんとやらには、会えたのか?」
野良猫の生き方を教えてくれたハチワレが聞いてきた。
「いえ……。母さんは、もういません。ガンだったんです。私を預けて入院していたみたいで……」
「そうだったのか……。」
「実は、以前預けられていた母さんの娘の家に、半年ほどいたんです。」
「そうかあ。それで、最近、顔を見なかったってわけだ……。なんだってまた、ここに来たんだ? その人間にいじめられたのか?」
「とんでもない!」
ヒゲを震わせて、玲弥たちの名誉のために否定する。
「とっても優しくしてくれました。」
「ふ~ん……。じゃあ、どうして?」
怪訝な顔で質問してくるハチワレ猫に答えた。
「外じゃないとできないことがあるんで。」
ハチワレは、「母さん」が玲弥に読んでやってた絵本に出てくるチェシャ猫のように、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「そりゃいい。外猫には外猫の生き方ってもんがあるわな。ま、どうしたって、お前が選んだことだ。せいぜい頑張んな。」
「はい。」
心強い言葉をもらい、尻尾をフルフルさせて応じた。
野崎誠と出会った空き地にも行ってみた。
夕方のあかね空をバックに、頓挫した建設途上のホテルが廃墟となって、黒々とそびえ立つ。黄味かかったオレンジ色の空は、上空にいくにつれ、徐々にその色を変えていく。赤みを帯びた黄色、そして、紫、さらに落ち着いた藍色。見事なグラデーションにため息が出そうになる。
そんな空を背負って、この前と同じように太いパイプに腰掛け、野崎誠は一心に本を読んでいた。
少し離れたところからその様子を見ていると、視線に気づいたのか、野崎は目を上げた。
「あ、お前、いつかの……」
野崎は本に栞を挟んでパタンととじ、脇に置いて立ち上がった。
「この前の黒猫だよな……」
その足下にそっと近寄り、顔を見上げる。
「その目……やっぱり……」
野崎は少しためらったが、そっと私の背中に触れた。
「にゃぁ」
軽く挨拶しておく。
「久しぶり。」
向こうも挨拶を返してきた。
「あれ、何だったんだ? あの銀色の糸……」
そっと撫でながらつぶやくように聞く。
「アレのおかげで、一歩、踏みだせたよ。『実験』は大成功だった。」
満足げな声が、耳に嬉しい。
「あれから、ちょくちょく、いろんな実験してみてるんだ。」
何だろう?
「聞きたいか?」
ちょっとうれしそうな声だ。
「美術部に入った。」
ほう……。それはまた……?
「絵を描いてる。主に、空の絵。」
空の絵……。
「『気持ち』を表情や言葉で表すのは、なかなか難易度が高い。じゃあ、絵ならどうかって考えた。絵で表せることもあるんじゃないかと。調べてみたら、発達障害を抱えている人で、画家になってる人が結構いた。じゃあ、自分にもできるかもしれないって思って……。ピカソはADHD、ゴッホはアスペルガーだったんじゃないかっていう説があるらしい。」
残念ながら、私は「ぴかそ」も「ごっほ」も知らないが、おそらく著名な画家なのだろう。「なるほど。いいね。」という気持ちを伝えたくて、尻尾をビュンビュン横に振ってみた。
「色合わせは面白い実験だ。しかも、塗り方にもいろんな技法がある。いろいろ教わって試してみると、面白い。世界が広がっていく。例えば、この空……」
野崎誠は頭上に広がる夕焼け空を仰いで言った。
「どうやってこの色を、この雲の感じを表すのか……、いろいろ試してみるのは本当に興味深い。」
空の色。様々な表情を見せ、刻一刻と移り変わる空の色。これを言葉で表そうとすると難しい。野崎はそれを「絵」という形でやろうとしているのか……。
「それに……」
一瞬、間を置いて続けた。
「僕が描いた絵を見て、いろんな人が感想を言ってくれる。これもまた面白い。誰が、どんな感想を持つのか。どんな言葉で伝えてくるのか。」
気のせいか、無表情な顔のどこかに、若干うれしそうな気配を感じた。
「美術部の部長は、僕の描いた雲の絵を見て、もっと違う描き方があると教えてくれた。影をつけると本物らしく見えるらしい。先に青色を全体に薄く塗っておいて、水を含ませたティッシュで拭き取って雲を作るというやり方も教えてもらった。」
今日の野崎誠は実に雄弁だ。
「同じ絵を見て、本宮早紀は『おいしそうな雲!』って笑っていた。『ウチのトラオに見せたら喜びそう』だってさ。あ、ちなみに、トラオってのは、本宮早紀の家にいる猫の名前。」
そんなことまで教えてくれる。
「本宮と一緒に絵を見に来た水谷玲弥は、えらく褒めてくれた。絵の才能があるんじゃないかって。グルデモのダンスだけでなく、絵も描けるようになったのかって、驚いていた。伸び代、ハンパないなってさ。」
野崎誠の新たな「実験」は、確実に彼の世界を広げている……。
本宮早紀の家にも行ってみた。
そっと庭をのぞくと、あの時、銀糸が舞い降りた薔薇の木が見える。たかだか半年ほど前のことなのに、妙に懐かしい。
いろんなことを忘れていたさすらい猫としてではなく、「タビト」として見ると、また微妙に世界が違って見えるから不思議だ。
感慨にふけっていると、家の縁側から、ヒラリと一匹の大きな猫が降りてきた。キジトラの彼は、実に艶やかな毛並みをしている。ぽってりとしたお腹を見ると、十分すぎるほどの食事を与えられていることが想像できた。
彼のテリトリーに侵入したことをとがめられるのかと思いきや、意外にも優しい声をかけてきた。
「お前さん、この前来てた猫だな。」
「はい。半年くらい前に……」
「俺はトラオ。」
「タビトです。」
お互い、鼻先で匂いを嗅ぎ合って、軽くご挨拶する。
「あの時、俺、家の中から、見てたんだ。」
「あの時?」
「ほら、お前が早紀の頭から、銀色の糸を引っ張りだした時さ。」
「あ……」
見られていたのか……。全く気づかなかった。
「あれは、いったいどういう仕組みなんだ?」
「う~ん……。どういうことなのか、正直、自分でもよく分からないんです。」
二匹で仲良く首をかしげる。
「まあ、いいや。仕組みなんてどうだって。」
トラオは続けた。
「大事なことは、あれから、早紀が元気になったってことだ。あん時は、泣いてたから、心配したけど、あれはいい涙だったんだな。」
うれしそうにヒゲを震わせている。
「俺、早紀が小学生の時に、この家に来た。早紀はずっと寂しそうだった。自分は母さんに選ばれなかったと思ってたからな。いろんな話を俺にしてきた。俺は、早紀の話を聴くことはできた。ぺろぺろなめてやることもできた。でも、根本的なところで、早紀の寂しさや苦しさをどうしてやることもできなかった。自分の無力さが情けなかった……」
同じだ。私が母さんに対して思っていた気持ちと一緒だ。
「そんな時、お前が来てくれた。早紀が変われたのは、きっとお前のおかげだ。ありがとうな。」
「変われたのは、きっと早紀さんの意志のおかげですよ。でも、そのきっかけになることができたのなら、うれしいです。」
「猫にはできないこともあるが、猫でないとできないこともある。お前さんじゃないとできないこともあるんだろうな……」
トラオは空を見上げながら、感慨深げにつぶやいた。今日の空は気持ちよく晴れ渡り、魚の形をした白い雲が、ぷかりぷかりと気持ちよさそうに浮いていた。
人の運命を変えることはできない。そんな力は私にはない。でも、運命への向き合い方を変えることはできる。人は「何か」出会うことで、変わる。「人」と関わることで、変わる。
私の紡いだ銀糸によって、「人」と「人」、「人」と「何か」が関わっていく。人は自分の中にあった「何か」に気づく。
それができたとき、私は限りない喜びを覚える。
私の「力」は、きっとそのために生まれたのだ。
だから、私は旅をする。
様々な顔を見せる空の下、今日も、空に向かって尻尾をピンと伸ばし、歩いていく。
さすらい猫は銀糸を紡ぐ T-aki @T-aki-mao
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