7 タビト ⑤  

 居心地の良い自分の居場所。そこに私は、とっぷりと浸かった。

 穏やかな、温かい時間がゆったりと流れていった。

 

 半年ほどたったある日曜日、この日は妙に敬子と「父さん」がそわそわしていた。思い起こせば、数日前から、敬子の様子がおかしかった。十二月の大掃除でもあるまいに、普段はやらない部分まで念入りに掃除している。しかも、そこは昨日やったでしょ、という場所まで、再び掃除しているのだ。洋服ダンスの中から、あれこれと服を取り出して眺めては、ため息をつく。自分の服だけでは飽き足らず、「父さん」の普段着まで並べて首をかしげながら見ている。

 今日は、朝から何度時計を見ていることやら。

 時計を見る頻度が尋常じゃない状態になったとき、ドアホンがなった。

「は~い!」

やっと決意を固めて選んだらしい、えんじ色のプルオーバーと紺色のスカート姿で、いそいそと敬子が玄関に向かった。私も、これはしっかりと見届けなければ……と、急いでついて行く。

 一体どんな客が来るのか思ったら、ドアを開けて入ってきたのは、朝からどこかに出かけていった玲弥だった。「どういうこっちゃ?」と首をかしげていたら、玲弥の後ろから、女の子がおずおずと、うつむき加減で入ってきた。

「こんにちは……」

「いらっしゃい。どうぞ、あがってね。汚くしてるけど……」

これだから、人間ってやつは……。あんなにきれいに磨きあげた部屋なのに、そんなふうに言ってしまうとは……。

 まぁ、これで事情はわかった。この女の子は、玲弥の彼女なのだ。今日、初めて家に連れてくるという予告があって、その結果が突然の大掃除となったのであろう。

「お邪魔します……」

もじもじしながら、消え入るそうな声で言うその顔に、見覚えがあった。

「初めまして。本宮早紀です。」

あの子だ。縁側に腰掛けて、夕焼け空を見上げながらウンウンうなっていた子。私が紡いだ銀糸で薔薇の花の根元から缶を掘り出し、涙ぐんでいた子。

 そうか。この子は、悩んだあげくに、玲弥を選んだのだ。そして、玲弥とこの子は、めでたく付き合っているんだ。

「本宮、遠慮せずに上がって。」

おいおい、玲弥。お前、いまだ、呼び方は「本宮」か……。

 当の本宮早紀は、足と手が一緒に出てるんじゃないかというくらいの緊張ぶりで、よろよろしながら、玲弥の後を追っかけて、リビングに歩いていった。

 リビングでは、本宮早紀以上に緊張している「父さん」が座っていた。

「こ、こんにちは……本宮早紀です。」

「あ、こんにちは。玲弥の父です。」

双方、ガチガチのあいさつがおかしすぎる。

「俺の部屋、こっち」

早紀はペコリとお辞儀をして、そそくさと玲弥の後ろをついていった。私もそっと後を追い、するりと一緒に部屋の中に入る。

「おじゃまします……」

 小さなガラステーブルを挟んで座った二人だが、どうにもぎこちない。早紀は困ったようにうつむき、膝の上で両手を強く握っている。 

 ここは、やはり私の出番だ。

「にゃぁ」と鳴いてアピールすると、その時初めて、早紀は私の存在に気づいたようだ。それまでは、舞い上がってしまって、何も目に入らなかったのだろう。

「あ……、この猫……」

「タビトっていうんだ。」

玲弥の説明に、早紀が首をかしげる。

「タビト?」

「うん。実は、七年前、祖母から預かってうちにちょっとだけいたんだけど、すぐにいなくなっちゃって……。それが、何ヶ月か前に、帰ってきたんだよ。」

「この子……」

早紀はまじまじと私を見た。

「私、この子、見たことあるかも……。そう、こんなふうに、真っ黒で、足の先だけ真っ白で……」

「え? そうなの? タビトが野良猫時代に会ったのかな……」

私はヒラリと早紀の膝の上に跳び乗った。

「おいおい……タビト、いくら何でもいきなりすぎるだろ。」

あせって止めに入ろうとする玲弥を遮り、早紀は私をまじまじと見つめた。

「大丈夫。私、猫好きだから。それに……そう、やっぱりこの子よ。あの時も、こんなふうに私の膝に乗ってきて……」

「あの時?」

「うん。ああ、そうだ。この目。この子に間違いない。」

早紀は私の背中をそっと撫でた。

「そうかぁ……。タビトっていうんだね。まさか、玲弥君ちの猫だったなんて。不思議……。」

「奇跡的な偶然だな……」

「奇跡……。そうかもしれない。だって、この子、本当に奇跡をおこしてくれたもの。」

「奇跡?」

早紀はちょっと言葉に詰まったが、やがて意を決したように口を開いた。

「笑わないでくれる? 信じられないかもしれないけど、本当に奇跡が起きたの。」

真剣な面持ちで続ける。

「私、玲弥君に交際申し込まれて、どうしようか、すっごく悩んでたとき、この子がうちの庭に現れて、今みたいに、ピョンと膝の上に上がってきて……。それで、私の額のところに手を置いたら、そこから、銀色の糸がスーッと出てきて……。その糸がふわふわ舞って落ちたところは、昔、私がとっても大切なものを埋めたところで……」

とつとつと話す早紀の言葉を聞きながら、私もあの時のことが思い出された。

 当時、早紀の白い額に手を当てると、肉球を通して、早紀の中にある「何かいろいろ」が、私の中に流れ込んできた。幼い頃の記憶、母らしき人の断片的な映像、「母」に手渡された数字が書かれた白い紙、薔薇の花、お菓子の空き缶……。それらと一緒に、私の身体に直に押し寄せてくる悲しみ、切なさ、懐かしさ、会いたいと思う強い強い思い……。外に出たいけれど出られなくて、もわもわしているものたち。それをそーっと優しく引き出していった。一本の銀糸として。


 早紀は玲弥に、長い長い話をした。玲弥は神妙な顔で受けとめていた。

「この子が思い出させてくれた。だから、私は、ちゃんと自分に向き合って、決めることができた。ありがとう、タビト。あなたのおかげ。」

あなたのおかげ。

ありがとう。

ああ、この言葉。身体の奥底から、えも言われぬ喜びがこみ上げてくる。そうだ。私はこの言葉を聞きたかったんだ。こんなふうに幸せそうな早紀を見たかったんだ。


 昔々、「母さん」が話してくれたお話を思い出した。

 芥川という人の書いた「蜘蛛の糸」という話だ。

 極楽にいるお釈迦様が、地獄に落ちて苦しんでいるカンダタという罪人を哀れんで、蜘蛛の糸を一本、垂らす。その糸は、地獄から抜け出ることのできる救いの糸だ。

「お釈迦様って、神様みたいなものなの。」

母さんは、ふーっとため息をつきながら、つぶやいた。

「私にも、救いの糸が降りてこないかしら……。私なら、もらったその細い糸を、大切に大切にする。切ってしまわないように、大切に……。」

 この話は、人間の業の深さ故に、アンハッピーエンドで終わる。だが、場合によっては、ハッピーエンドになり得る話かもしれない。

 「神」はいない。もし本当に「神」がいるのなら、私の「母さん」を死なせたりしないはずだ。「母さん」は本当に良い人だもの。

 「神」はいない。

 でも、人を救う糸はあるのかもしれない。

 人と人を繋ぐ糸。過去と現在を繋ぐ糸。新たな「何か」とつながる糸。

 ほんのささいなことで、人は変わる。救われる。

 細い細い一本の糸で「何か」とつながることで、人は変わっていく。自分の意志と、糸でつながった「何か」があれば。

 糸が必ず救いをもたらすわけではない。でも、その人の捉え方次第では、「救い」となるかもしれない。

 「神」はいない。でも、「糸」を授けてくれるものは、いる(在る?)のかもしれない。

 私は、銀糸を紡ぐ力を得た。その力は「神」とは言えない、何か大きな存在によってもたらされたものかもしれない。あるいは、私が強く強く願うことで、生み出した力なのかもしれない。

 いや、もう深く考えることはやめよう。あれこれ考えることは、猫には似合わない。私は自分の感覚のまま、自由に動けば良いのだ。それが、私の歩んでいく道だ。

 

 早紀の長い長い話の後は、玲弥の長い長い話が始まった。

 早紀は、私の額をくいくいと強めに撫でてくれた。さすが、「猫好き」と自分で言うだけのことはある。我々猫の気持ちよいポイントをよく分かってる。私は早紀の膝の上で、心地よい眠りに落ちた。




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