仕合わせに触れる

帆尊歩

第1話  仕合わせに触れる

仕合わせに触れる



「美幸、パンもう一枚食べる?」エプロン姿の明がフライパン片手に言う。

「朝からそんなに食べられないよ」

「でもしっかり食べないと」

「なんで」

「最近仕事辛くないか」

「どうしてそうなるのよ」

「だって、大変そうだから」

「当たり前でしょう。仕事なんだから。やっと入社一年が回ろうとしてこれからなんだから、ここが踏ん張りどころだから」

「でもさ」

「そんな事言っているから入社半年で会社辞めたんでしょう」

「いやそれは。夢があるから」と明の声が小さくなる。

でも美幸の言葉は容赦がない。

「今時バンドでメジャーデビューなんて。夢じゃないから。絵空事って言うんだよ。世界中の貧困と、紛争が解消されるくらいの出来事だよ」

「そこまでいうこないだろう」

「ねえ明くん。現実を見よう。大学の就活の時、話し合ったよね。二十代で結婚して、三十前に子供が二人、三十五でマイホーム。それがまっとうな人の幸せっていうものだよ」

「イヤそれは美幸が勝手に」

「頷いていたじゃない」

「イヤだからそれは」

「とにかく、今日はハローワークに行くんだよ」

「ああ」

「朝ご飯作ったからと言って、でかい顔しないでよね」

「なんでそこまで言うんだよ」

「入社一年目の給料で二人分を賄っているんだからそれくらい言わせてよ」

「うん」

「たまには、ビーフシチューでも作ってみなさいよ」

「すごい、捨て台詞だな」という明を無視して、美幸は部屋を出た。


満員電車で押しつぶされそうになる。

美幸は自分の名前が美しい幸せが舞い込むようにとの願いを込めて両親がつけたと聞いていた。

じゃあ幸せって何。

と思い就活の時、彼氏の明と自分への鼓舞を込めて、幸せの設計図を高らかに語った。

でも明はバンドという、傍から見れば。逃げの理由にしかならないようなことを言って会社を辞めた。

いろいろあったのはわかるけれど。

でもお前は男だろう。

という思いが拭えない。

幸せから一歩遠のいたように思う。

卒業と同時に、結婚を前提に同棲を始めたが。本当に結婚なんて出来るのだろうかと最近思う。


美幸は、財閥系の大手企業に奇跡的に滑り込めた。

とはいえ一年目の女子社員だから、さほど給料は高くない。

でも幸せのためのに明を支える。


朝礼が始まった。

昨日の営業成績が発表される。

悲喜こもごもの天国と地獄がはじまる。

ここでは社員は使い捨てだ。

出来なければ退場。

今日の集中砲火は四人。

そういえば先月一人辞めている。

今月はあの人かな、なんて目星が付いてしまう辺りが、問題だなと思うが、幸せになるためにはこういうことに耐えなければならない。

美幸はそこまでキツくないが、慣れればこの中に入らざるをえなくなる。

明もこんな目ににあっていたのか。

でもあんな事に耐えた先に幸せはあるんじゃないか。

そんな気がしていた。

いやそれは自分が女子社員だからか、確かにどこかおおめに見られているところはある。


「おはよう」加奈子先輩が声をかけてくる。

「おはようございます」今日は加奈子先輩とお茶当番の日だった。

こんな旧体制以前の習慣が残っていることに、みんな反発を持っているが、給湯室と言う逃げ場があるのもまた事実で、女子社員から不満が出ないのがこの張り詰めた部内の空気のせいと言えなくない。

お茶当番は女子社員だけだが、成績の悪い男子社員もお茶当番のローテーションに入れてもらえないかと願っている人は絶対にいる。


「あっ美幸ちゃん。第三応接室にお茶、後帰りに第二を片付けて」加奈子先輩は的確に仕事をこなしていく。

お茶当番といえども的確にこなしていれば、営業関係のツッコミが入らない。


湯飲みをお盆に載せて美幸が給湯室に戻ってきた。

「ご苦労様」

「どうしたんですか皆さん」課の女子社員四人が集まっている。

「里江先輩が寿退社するって」加奈子先輩が言う。

「そうなんですか。おめでとうございます」自分の目指す幸せに進む里江先輩を、美幸は羨望のまなざしで見つめる。

里江はお局に片足突っ込んだ年長女子社員だった。

「あんまりめでたくはないんだけれどね」

「どういうことですか」

「もういい加減嫌気がさしたの。寿とは言うけれど具体的なことは何も決まっていないし。こんなくそみたいな仕事を十年もやったんだから」

「でも里江先輩はやり手だったじゃないですか」と美幸は言う

「そのために何を犠牲にしてきたと思っているのよ」

「本当よ。里江先輩がどれだけ女を捨ててきたか。若いくせに、お肌はボロボロ、爪はワレ、目の下のクマに、シミに、日焼け、女の美しさと、幸せの全てを失って、奴隷のように働いてきたか」と加奈子先輩が言う

「おい。言いすぎだぞ」と里江先輩。

「まあ、美幸ちゃんも適当なところで見切りはつけたほうがいいよ、里江先輩を見習って」

「でも加奈子先輩、そいう先輩はこの会社に骨を埋めるつもりなんですか」

「まさか。私だって幸せになりたいんだから」


「おいお前たち、何油を売っている」課長が珍しいことに女子のオアシスに乱入してきた。これはおそらく、非常事態だ。

「席に戻れ。加藤が取引先で倒れた」加藤さんは次の犠牲者と目星をつけた人だ、ただ飛ぶんではなく、倒れるとは。

これはしばらく荒れそうだなと美幸は思った。



帰りの電車で釣り革にぶら下がり美幸は今日のことを考えていた。

加藤さんは軽度の心筋梗塞だった。

大事には至らなかったが、会社のストレスなのは明白だ。

おそらく退職ということになりそうだった。

仕合わせってなんだろうと美幸は考えた。

加藤さんみたく体を壊してまで行き着くところが、幸せなんだろうか。

疲れ切った体を引きずるように部屋に戻ると、明がご飯の用意をして待っていてくれた。

「おかえり、美幸、今日はビーフシチュー作ってみたんだ」

「何それ。材料費高かったでしょう」

「まあね」

「誰に食べさせてもらっているのか考えてよね」

「それは考えてるよ。忘れちゃった。今日は出会った記念日なんだよ」

「えっ」

「だからビーフシチュー?」

「そう」

「ばか」と言った美幸は、なんだか嬉しくなった事を明に気づかせないように、平静を装った。

そして美幸はなんだか、仕合わせに触れた様な気がしていた。

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仕合わせに触れる 帆尊歩 @hosonayumu

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