天使は空を仰ぎ見る

あけぼの

第1話 脱走

 星の輝かしい夜空の下、真っ暗な冬の街の奴隷市で下品そうな男の怒声が響く。


「さっさと探せ!どうせ歩くのに慣れてねぇ羽族のガキだ!そんな遠くには行ってねぇ!見つからなかったらお前らの首を吊るして身体はグレムの餌にしてやる!」


 大事な商品に逃げられた偉そうな格好の商人は、怒りで頭に血が上って正気ではないようだ。


 彼の部下達はその激情的な命令に従って、焦燥感に駆られながら逃げた商品を追い始めた。


 路地裏の荷物の積まれた狭い隙間でポツンと独り、湿った石畳に座りこむ子供の名前はルシェと言った。

 ルシェは小柄な身体を背に付いた鳥のような白い羽で包み、夜の寒さと恐怖で身を震わせている。


 ルシェは顔を上げて、その綺麗な青眼で滲む輝く星を見た。

 

 ルシェの星を見上げる美しい顔は恐怖に支配されていた。


 震える唇は寒さのせいで青白く、元々雪のように白い肌は寒さと恐怖で血の気が引いて死体のような青白い色になっていた。


 衣類は服とも呼べない布一枚。靴は履いてすらいなかった。そのような状態で冬の夜の街に飛び出したのであるからルシェの顔色が悪いのは必然であった。


 ルシェの耳に再び荒い声が届いた。ルシェを追う商人たちに違いない。


 ルシェは、輝く空を眺めていた目を暗い街に向けると、頰を伝う涙を手で拭って立ち上がった。美しい金色の髪が街の冷たい風で靡く。

 ルシェは冷たい風の吹く路地裏のさらに奥へと再び歩き始めた。


 ルシェは暗く冷たい裏路地を裸足で歩きながら、幾度も羽を動かそうとしたが、羽は痙攣するだけだった。

 ルシェの美しい羽は薬を投与されてからというものルシェの思うように動かなくなった。

 偉そうな格好をした商人は、動かない羽を懸命に動かそうとするルシェをよく檻の外から恍惚とした表情で見ていた。

 それが商人の性癖からなのか、ルシェを売った後の利益を考えてからなのかはルシェには知る由もない。

 

 羽が動かない悔しさからか、脚の痛みからか、ルシェは僅かに嗚咽を漏らしたが、それでも足を止める事はしなかった。


 それからしばらく経ち、ルシェの顔から恐怖が薄れ、疲労が色が濃くなった。

 足には擦り傷がつき、羽を動かそうともせず、ただただ歩いている。もしかしたらルシェは商人の元に戻った方が楽だなどと考えているかもしれない。


 ルシェはいつのまにか裏路地を抜けて小さな空き地に出た。

 真冬の真っ暗な空き地にはただ一本の葉を落とした木があり、風で鳴っていた。

 

 ルシェの腹からぐぅーという音が鳴った。

それを機にルシェはかろうじて動かしていた足を止めて、か細い一本の木の下にしゃがみ込んでしまった。


「…さむい…おなか…すいた……」


 ルシェは弱音を吐き、声を出さずに泣いた。美しい青眼はまた涙で滲み、涙はルシェの柔らかく青白い頬を伝って硬い土の上へと落ちて染み込んだ。


 相変わらず、木々は風に鳴いている。泣き疲れ、涙の跡のついたルシェの顔はやつれて、生気を感じられず、人形のように木の下に横になっていた。

 痛々しい擦り傷のある足裏に冷たい風が吹いても反応できず、もはや一歩も動く力が残っていないようだ。


 ルシェを末路は商人に見つかるにせよ、凍えて死ぬにせよ、絶望だけだった。


 滲んだ青眼で、ルシェは空を見た。


 空の星々は冷酷に輝いていた。

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天使は空を仰ぎ見る あけぼの @akadaidai

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