第三章 第121話 嗚咽《おえつ》

 ――私が毒をりました。


 目的語は、ない。

 しかし、誰に対しての行為だったのか、その場の誰もが瞬時に理解していた。

 誰かに、毒を、盛る。

 まっとうに生きていれば、およそ実行する機会などめぐってくるはずもないことなのに、一体いかなる悪魔のささやきを英美里えみりは聞いたのだろうか。


「英美里……」


 かたわらの久我くが純一じゅんいちが力なくつぶやいた。

 今のところ、ほかに口をひらくものはいない。

 かがみ龍之介りゅうのすけも、瞑目めいもくしたまま微動だにせず、隣りのオズワルコスもしかりである。


 狙い通り、自白を引き出した諏訪すわいつきですら、まさか毒とは……と、驚きに目を見開みひらいたまま黙り込んでしまっている。


 英美里の告白によって、さきほどからの彼女の不可解な言動の理由が図らずも明らかになったわけだが、その情報をどう処理したらいいのか分からない――そんな空気の中でわななく唇をひらいたのは、たちばな響子きょうこだった。

 内心を感じさせない、静かな声だった。


「英美里さん……」

「……はい」

「確認しますが……あなたが毒を盛ったと言う相手は、朝霧あさぎり校長で間違いないのでしょうか」

「はい……そうです……」


 響子は目をつぶり、あおぐように顔を上に向けた。


「なぜ、そのようなことを……?」

「……すみません」

「謝罪はりません。質問に……答えてください」

「はい……」


 座り込んだままの英美里は、ゆっくりと上体じょうたいを起こすと響子を見た。

 彼女は、自らの視界のはしに映っているはずの龍之介には、つとめて意識を向けないようにして話し始める。


「校長先生を……校長先生の命を、奪うためでした……」

「毒を盛ったという時点で、そんなことは分かっています。私が聞いているのは、何故なぜ校長先生を害しなければならなかったのかと言う、その理由です」

「それは……」


 響子の声音こわねに、わずかな苛立ちが混ざり始める。

 それにひるみつつも英美里は少しずつ、訥々とつとつと話し始めた。


「……最初は毒だったなんて、知らなかったんです。具合のよくない校長先生の症状によく効く薬だと聞いていました」


 表面上、誰も反応しない。

 うなずくこともなく、表情を変えることもなく。

 それが暗黙のうちに先を促す指示だと判断して、英美里は続けた。


「それなのに……初めて食事に混ぜた、次の日の校長先生の様子が明らかにおかしくて……」

「……いつからですか?」

「……え?」

「いつからあなたは、毒を盛っていたのかと聞いているのです」

「確か……皆さんがザハドから帰ってきた日、だったと思います」

「ザハドから、帰ってきた……」

「私たちは何度かザハドに行ってるけれど、それは直近の、星祭りの時のことを指しているのかしら、英美里さん」


 響子が英美里の言葉をおうむ返しにつぶやくと、花園はなぞの沙織さおりが代わりに口をひらいた。

 沙織は、英美里が告白を始めたところで、よろよろと自席に戻っていた。


「そう、です」

「校長先生は、もっと前から調子を悪くしていらっしゃった。はっきりとは覚えていないけれど、それこそあの大晦日おおみそかの年越しパーティが終わって新年を迎えた頃から。 ……英美里さん」

「は、はい」

「星祭りの時なんかじゃなくて、本当はもっと前からじゃ――」

「違います!」


 沙織が示唆しさした疑惑を、英美里は言葉をかぶせるように否定した。

 先ほどからの受け答えとは打って変わった、力強い声音こわねだった。


「私、嘘なんてついてません。そんな嘘をつくくらいなら……声を上げたりなんてしません……」

「ならどうして、校長先生はあんなにずっと調子が悪かったの?」

「それは私にも、分かりません……」

「まあ花園さん、追及するのはもう少し彼女の話を聞いてからにしましょう。まだいろいろと……肝心なこと・・・・・も聞いていませんから」


 沙織がなおも言いつのろうとするのを、響子がやんわりととりなした。

 響子の表情を見て、沙織はうなずきながら口をつぐんだ。


「それで英美里さん、毒を盛り始めたのが星祭り帰りの日からだとして、少し分からないことがあります」

「……はい」

「薬と言うのならば、校長先生にその旨を伝えて普通に飲んでいただけばよかったのはないですか? 何故なぜ食事に混ぜ込むなどと言う方法を?」

「それは……とてもにがい薬だからと……」

「校長先生だって子どもではないのですから、苦いからと言って飲むのを嫌がったりしなかったと思いますが」

「それに、本人には気付かれないように服用することが大事なのだと…………言われました……」

「言われました……ですか。仮にそうだとしても、食事に混ぜると言う段階で食料物資班のかたたちに黙っておこなうという選択肢がまずあり得ない、そう思いませんか?」

「それは確かに……そうです」


 英美里の返答に、響子は小さく息をく。


「とりあえずほかの疑問を先に解消するとしましょう。先ほどあなたは毒だとは知らなかったと言いましたが、いつその薬とやらが毒だと認識したのですか?」

「……さらに翌日でした」

「それはつまり、私たちが星祭りから帰った日の二日後ということでしょうか?」

「はい……校長先生の調子がまったく改善しないどころか、むしろ悪くなっていると報告した時に……実は毒だと」


 響子も英美里も、あえて大事な情報・・・・・には触れずに話を続けている。

 二人の意図があらかじめ打ち合わせたものではないことは明白だが、周囲もあえてそのことを尋ねようとはせず、奇妙な熱気を以って、今わされている会話に耳を傾けている。


「毒だと明かされて、あなたはどうしたのですか?」

「もちろん、抗議しました。悪い冗談を言われているのかとも思いました。どうしてそんなことを、と問いただしもしたんです。でも……」


 それまで顔を上げていた英美里が、うつむく。


「何が目的なのかはいずれ話す、どちらにしても飲ませてしまったからにはもう戻れない、解毒薬もない、と……」

「……」

「あなたはまぎれもなく実行犯だ、知らなかったと主張したとして、どうやってそれを証明するのか……そして、そして……」


 ぽたりぽたりと、肩を震わせる英美里の双眸そうぼうから何かがしたたり落ちてゆかを濡らす。


「毎回の食事を運んでいたあなたの……娘も……実行犯の、ひと……り、だと……」


 今度こそ英美里は、声を上げて泣き出した。

 号泣する彼女を止める者は、誰もいない。

 厳しく問い詰めるつもりでいる響子ですら。


 英美里の隣りでは、純一が悄然しょうぜんと肩を落としている。

 沙織が再び英美里のかたわらにしゃがみ、彼女の背を静かにで始めた。


 ――そうして、しばらく英美里の嗚咽おえつが場を満たし、少しずつそれが収まっていく中、響子が震える声で口をひらいた。


「それで……あなたに薬といつわって毒を渡し、虚言きょげんろうして食事に混ぜさせ……最終的に苦渋の決断を迫ったのは……一体いったい誰なのですか……?」

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