第三章 第119話 切り札

(これが、耳音響放射じおんきょうほうしゃというものなのだろうか……)


 たちばな響子きょうこは、思った。

 いわゆる「生理的耳鳴り」という、静かな場所で聞こえてくるあの「キーン」という音のことである。

 もちろん自宅で一人、深夜にリラックスしながら読書にふける時などにはお馴染みのものではあるのだが、これほど人がいる状態で聞いたことはついぞ、ない。


 今、職員室は時が止まったかのように、その耳鳴りめいた響きに満たされている。


 しかし、思考が止まったわけではない。

 いや、むしろ響子の頭脳は、いつも以上に高速で駆動していた。


 ――朝霧あさぎりせんせーを、殺しましたね?


 高速で、諏訪すわいつきが発した言葉を咀嚼そしゃくしていた。

 ……まったく思わないわけではなかった。

 しかしその考えは、敬愛する上司の惨死ざんしというあまりにも衝撃的な現実をの当たりにし、かがみ龍之介りゅうのすけの強引な腕に引っ張られ、いつしか意識の表層から押し流されていってしまった。


 正常性バイアスとは、時に非常に厄介なしろもの・・・・だ。

 心の安寧あんねいを得る代わりに、困難と真実に向き合おうとする勇気を、コインの裏に隠し去ってしまう。


 しかし、心のどこかでその疑念は、ずっとくすぶっていたのだ。

 そしてそれは、恐らく響子だけでは、ない。


「や、やっぱりそうだったの……?」


 沈黙のおりから最初に抜け出したのは、椎奈しいなあおいだった。

 彼女はその場で立ち上がり、両のこぶしを震わせている。

 葵の向かいの席では、不破ふわ美咲みさきが彼女に瞠目どうもくしていた。


「あんな……八乙女やおとめさんにあんなひどいことをしておいて……」

「まだっすよ、椎奈せんせー」


 感情が爆発しそうになっている葵を、樹は言葉で止めた。

 葵が思わず止まらざるを得ない、断固とした口調だった。


「まだ鏡せんせーは何も言ってないっす。今度こそちゃんと答えてもらいましょう」

「私はやっていないよ」


 思いのほか冷静な声が、即座に返ってきた。

 全員の目が、一斉に龍之介りゅうのすけに注がれる。


「実際に手をくだしたのが自分じゃないってのは、ナシっすよ? 仮に実行犯が鏡せんせーじゃなくても、ほかの人にやらせたんなら立派な教唆きょうさ犯っすから」

「ずいぶん難しい言葉を知ってるんだな、諏訪さん。君がまさか刑法に通じているとは知らなかったよ」

「今どきのゲームをめちゃダメっすよ。裁判で弁護士になったり検事になったりするやつだってあるんすからね。それで、どうなんすか?」

「どう、とは?」


 樹は大げさにため息をいて見せた。


「今度はすっとぼけっすか? それとも何かの時間稼ぎっすかね……。僕の質問に対する答えっすよ」

「もう答えたはずだが」

「やってないって証拠、あります?」

「君は悪魔の証明を強要する気かね」

「そうじゃないっすけど、僕は校長せんせーを殺したのが八乙女せんせーだって言う前提をぶっ壊しました。校長せんせーと八乙女せんせーがケンカする理由からしてそもそもないって言う、根拠を示して」

「それが事実だと言う証拠は?」


 もう一度、先ほどよりも大きなため息をいて樹は続ける。


「ない証拠を出せってんなら、それこそ悪魔の証明じゃないすか……。もはや屁理屈のレベルになってますね。情けないっすよ、鏡せんせー。僕の言ったことを否定する義務は、今のところそっちにあるんすよ。それなのに質問に答えないせいで、認めたことになってるわけなんすから」


「……」


「それに鏡せんせー、あなたはあの裁判の時、八乙女せんせーを犯人扱いするなって言った御門みかどさんに答えてましたよね? 『蓋然性がいぜんせいが一番高いから』って。その根拠のためだと思うんすけど、続いて壬生みぶせんせーがこう言いました。覚えてます?」


 当の壬生魁人かいとが横になっているはずの保健室の方へ、樹は目を向けた。

 彼の視線には、憤激ふんげきともあざけりとも言える色が込められている。


「『朝霧せんせーと八乙女せんせーがくちゲンカのようなものをしていたのを聞いた』……ですよ?」


 その瞬間、再び久我くが英美里えみりの肩が、大きくねた。

 彼女のそんな挙動を、樹は視界にしっかりと収めていた。

 花園はなぞの沙織さおりが、あわてて英美里の元に駆け寄る。


「つまるとこ、壬生せんせーは嘘っぱちの証言をしたってことっすね。あの二人がくちだけとは言えいさかいを起こすなんて、どう考えてもあり得ないと思うんすけど、まあ百歩譲ってそう言うことがあったとしましょう。でも、それは殺意に結びつくようなものであるはずがないんすよ。だって八乙女せんせーには、うしろ暗いとこなんてまったくないんすから」


 そう言うと、樹は英美里を見た。

 毅然きぜんとして、それでいて哀しみのこもった表情で。


「それなのに……嘘つきの壬生せんせーとおんなじ証言をした人がいるんす。 ――ねえ、英美里さん」

「ひひっ、ひぃぃぃっ!!」

「えっ、英美里さんっ!?」


 とうとう椅子からすべり落ちて、頭を抱えたままゆかうずくまってしまった英美里を見て、沙織がおろおろしている。

 不破ふわ美咲みさきや椎奈葵も音を立てて立ち上がった。

 しかし、樹は追及の手を緩めようとはしなかった。


「英美里さん、あなたはあの時言いましたよ。『私もそういう場面を聞いたことがあります』ってね。鏡せんせーにうながされて、確かに言ったっす」

「わっ、私は! わた、私はっ!! 私っ!」


 うずくまったまま、横隔膜おうかくまく痙攣けいれんしたかのように同じ言葉を繰り返す英美里。

 そんな彼女に、樹はとどめとも言える一言ひとことを突き刺した。







「――……嘘つき」






「あああああああああうああああああっ!!」

「英美里っ!」


 頭を両手で押さえてり、もはや言葉にならない叫び声をあげる英美里。

 その姿に、顔面蒼白となった純一じゅんいちが慌てて走り寄ってきた。


「やめろっ! 諏訪さん、やめるんだっ!」

「英美里さん、すいませんでした。僕、執行部の多分一番柔らかいとこ・・・・・・・・えて突っつかせてもらいました。ホントにすいません」

「ううううう、うう、うううううう……」


 必死な様子で止めようとする純一のことはあからさまに無視し、嗚咽おえつらす英美里に向かって、樹は深々と頭を下げた。


「な、何だと!? 君はわざと英美里を責め立てたって言うのか!?」

「黙っててください、純一さん。あなたはさっき、教頭せんせーの質問にきょろきょろしただけで、ちゃんと答えなかったっすよね?」

「な、何……?」

「もし僕が指摘してることが事実だとしたら、あなたも同罪っすから。もちろん、英美里さんも、秋月あきづきせんせーもっす」

「っ……!」


 唐突に名前を出されて、秋月真帆まほは思わず息を呑む。


「でも……さっき英美里さんは、自分から何か言おうとしたっす。鏡せんせーに調子悪い扱いされて、いつのにか有耶無耶うやむやにさせられましたけど。だから一番柔らかいところって言わせてもらいました。言い換えれば――『良心』……うーん、どっちかと言うと『罪悪感』っすかね?」


 純一は、何故なぜか悔しそうに下唇したくちびるむ。

 真帆はわずかにうつむき、眉根を寄せている。

 そして――これほどの修羅場が繰り広げられている中で、鏡龍之介は隣りに座るオズワルコスと小声で何かり取りしつつ、一切いっさい口をはさんでこない。


 その様子をいぶかしみながらも視界に入れつつ、樹は続ける。

 このまま押し切る必要があると、彼は思った。


「鏡せんせー、まだ認めないつもりっすか?」


「……何をだね?」


「あなたたち・・が校長せんせーを殺したってことを、すよ。直接的とか間接的とか、今はどうでもいいので」


「証拠もなしに、そんなことを言われてもな」


「そうやってのらりくらりしてますけど、あの時八乙女せんせーに猿轡さるぐつわまして反論を封殺してましたよね。手を拘束するのは分かるとしても、話せなくする必要、ありましたかね?」


「大声でわめきたてられて、審理に支障をきたすわけにもいかんだろう」


「八乙女せんせーは、確かにもの凄い形相ぎょうそうでしたけど、我を忘れて喚くような感じは微塵みじんもなかったっすよ。少しだけ弁明を許された時だって、努めて冷静さを保とうとするように僕には思えましたし」


「見解の相違だな」


「大体、証拠と言いますけど、あやふやな状況証拠だけで八乙女せんせーを断罪したくせに、何言ってんすか。しかもその状況証拠すら、嘘っぱちだったってもうバレたんすよ?」


「嘘っぱちだなどと、私は認めてないが?」


「まだそれ、言います? どうせ聞き直してもだんまり続けるだけでしょうからもう言いませんけど、往生際が悪すぎっすよ。都合の悪いことに答えないのって、それこそ鏡せんせーの好きな『状況証拠』そのものなんすからね」


「つまりは君も、状況証拠だけで我々に罪を着せようとしているということだろう」


「うおっ、まさにそれ、『問うに落ちず、語るに落ちる』ってやつじゃないすか。状況証拠だけで八乙女せんせーをおとしいれたのが不味まずかったって自白しちゃってますよ?」


「ずいぶん弁が立つじゃないか、諏訪さん。学生協も立派な仕事だが、それこそ弁護士や検事を目指したらどうだね。まあそれもこれも、日本に帰ることが出来てからの話になるが……ね」


「……それって、脅しっすよね? さからったらハブにするぞって、日本に帰れなくなるぞって」


「そう聞こえたかね。どうやら被害妄想の傾向が見受けられるようだな」


「……」


 これ以上話しても、建設的な会話にはならない。

 いつきは覚悟を決めた。

 心配そうに見守っている七瀬に視線を向けると、彼女は黙ってうなずいた。


 次に口をひらく前に、樹は改めて思い出す。

 鏡龍之介たちを追い詰めてどうしたいのか、その目的を。

 その先に見える景色を。


「もう、こんな話し合いは終わりにしましょう、鏡せんせー」

「ん?」

「これはさっき、加藤せんせーが言っていた三つ目の質問です」

「何だね?」




















「――――校長せんせーの遺書って、何すかね?」

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