第三章 第85話 小さな針

 ヴァーングルドは少しだけ表情を引き締めると、瓜生うりゅう蓮司れんじに向かって、ごくゆっくりとを進め始めた。


 蓮司はサバイバルナイフを逆手さかてに持ち替えて、姿勢を低く構える。

 しかし、刃先はさきは小刻みに震えている。

 彼がナイフ格闘術などかじったことすらないズブの素人であることは、専門家たちの目には明らかだった。


 それに気づいた神代かみしろ朝陽あさひは、困惑の表情で蓮司の背中に向かって叫んだ。


「瓜生先生! ダメです!」


 蓮司はいたほうの手で、後ろ向きに朝陽を抑えるようなジェスチャーをしながら言った。


「僕は多分、全然役に立たない。分かってるよ。でもね、だからと言って君たち子どもを矢面やおもてに立たせて、のんびり見物けんぶつを決め込むわけにはいかないんだ」

「先生……」

「君は強いんだろう? 神代君。なら、僕のことはうまく使うんだ。盾でも踏み台でも構わないから」

「そんな!」

「そして……済まないがあとのことは頼んだ。君たちに託さなきゃならないのは心苦しいけどね」


「よく分かんねーが、パルタは済んだか? おい」


 そこからは一瞬だった。

 いつの間にか至近距離にまで近付いていたヴァーングルドの左回し蹴りが、蓮司の右手からサバイバルナイフを弾き飛ばした。

 そして、次の右回し蹴りで今度は蓮司自身がナイフと同じ方向に吹き飛んだ。

 ごろごろとグラウンドを転がった蓮司は、うつぶせに倒れたままぴくりとも動かない。


(は、速すぎる……)


 朝陽は自分の目を疑わんばかりだった。

 蓮司の陰に隠れていたとは言え、技の起こり・・・からして彼の目ですら捉えることが出来なかったのだ。

 朝陽の隣りにいた天方あまかた聖斗せいとも何の反応も出来ずに、ただグラウンドに倒れた蓮司をぼーっと見遣みやって立ち尽くすだけ。

 いち早く衝撃から立ち直った早見はやみ澪羽みはねが、今度は蓮司の元に駆け寄る。


「瓜生先生!」


 澪羽が呼び掛けても、身体を揺らしても蓮司からは何の反応も返らない。

 辛うじて呼吸は確認できたことで、澪羽は安堵のため息を大きくついた。


「次は今度こそお前の番だぜ、せーと・・・とやら」


 これまでの会話から、ヴァーングルドは聖斗の名を類推したらしい。

 まだ驚愕めやらぬ彼に向かって、絶望を宣言した。


 そして、ヴァーングルドの言葉と同時に、セラピアーラが朝陽に滑るように、静かに襲いかかった。


    ◇


 その時、上野原うえのはられい御門みかど芽衣めいは走っていた。


 目指すは、地上地点リーズ・エレオーヌ

 求めるは、聖会イルヘレーラの助力。

 玲の右手に握りしめられているのは、「小さな針アルマカドリオ」。


 魔素ギオを使った遠距離通信手段である「黒針ヴァートリオ」は、あらかじめ設定された者しか使用できない上に、使用者が魔法ギームを使えなければならない。

 エレディールにおいては特に問題のないその条件も、普通の・・・日本人にとってははなから使用対象外とされていることと同義である。


 しかし「小さな針」は、言語伝達機能を削減し、効果の及ぶ距離を制限することで誰でも使えるように設計されたものである。

 決して日本人向けに作られたものではないが、いちいち魔法ギームに頼らずとも使える手軽さが、ちょうど玲たちにおあつらえ向きだったのだ。


「玲さん、もう使いました?」

「うん、とっくにね」


 息をはずませながら尋ねる芽衣に、玲は答えた。


 先日、二人が偶然地下都市ヴームに作られた聖会の拠点に招かれ、彼らの協力者クラボレイアとなった時、シクラリッサ・マリナレスは「小さな針」を玲に手渡して言った。


    ※※※


「これ、持っててね」

「……何? これ」

「『小さな針』って言うの。簡単に言えば……そうねえ、うーん、連絡用の鈴かな」

「はあ……」

「緊急時とか、何か私たちの力が必要な時とかに、これを指ではじくの。そうすれば私たちに伝わるから」

「……学校からでも?」

「もちろん! ちゃんと届くから安心してね!」


    ※※※


 久我くが英美里えみりによって、皆が職員室に集められていた時、突然瓜生蓮司が立ち上がり、職員室を駆け出て行った。

 そしてそのすぐあとを、早見澪羽が追っていったのだ。


 一体何事かと玲がグラウンドを見遣みやると、驚愕の光景が目に飛び込んできた。

 それは、鏡龍之介たちと天方聖斗たちが対峙しているという姿だった。

 ただ事ではないと感じた玲は、既にその時点で肌身離さず持っていた「小さな針」を、ほぼ反射的にはじいていた。

 そして、驚いているほかの面々を尻目に、芽衣に声をかけて職員室を飛び出たと言うわけだった。


 実を言うと「小さな針」を使ったら何が起きるのか、玲と芽衣は正確に把握していなかった。

 ただ「伝わる」としか知らなかった。

 だから、とりあえず地下都市ヴーム地上地点リーズ・エレオーヌを目指したのである。


「あっ、玲さん! あそこ!」

「えっ?」


 突然立ち止まって、芽衣が何かを指さした。

 見ると、複数の人影がこちらに向かって物凄い速さで近付いてきている。

 その数、五人。

 先頭には、先日知己ちきになったばかりのシクラリッサと、アイドラッド・アズナヴィトンの姿があった。


「玲ー! 芽衣ー!」


 シクラリッサ――クラリスたちは、あっという間に玲たちの元に辿たどり着く。

 彼女自身も、その後ろにいるアイドラッド――ラッドや見知らぬ三人も、息ひとつ切らしていない。


「どうしたの? 緊急事態?」

「うん、多分」


 玲の返事で、クラリスは南西の方を見て尋ねた。


「学校?」

「うん」

「急ぐ?」

「うん」

「それじゃとりあえず、移動しながら説明してもらおうかな」

「分かった」


    ◇


 そして、彼らが学校のグラウンドに到着した時。


 玲たちが見たのは、血にまみれて横たわる天方聖斗の無残な姿だった。

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