第三章 第77話 時間稼ぎ
「その上で改めて、君に尋ねよう。
「そこにあるじゃないですか」
ガラステーブルの上を指さしてそう答えながら、私は内心の動揺を顔に出さないように必死だった。
一体、この男はどこまで
保健室の引き出しにあった角型封筒を先んじて入手していたことを考えると、私が動揺している原因を知っていてもおかしくはない。
「また
「……」
「さらに言えば、封筒がもう
やっぱり知られている。
今さらながら、
あの場所に私を連れて行ったのは
もっと慎重であって
「もう一通の封筒と言うのは、どうやら遺書の発見者に
「……」
徐々に追い詰められているのを感じる。
反撃の取っ掛かりが見当たらない。
言葉が思いつかない。
「おい、だんまりもいい加減にしておけよ? 嘘つき女が」
「!」
壬生さんの暴言が、私の胸にぐっさりと刺さる。
……悔しい。
確かに嘘をついたけど、こんなやつに言われたくない。
「やめなよ、壬生さん。みっともないよ」
「……何だと?」
「そうやって汚い言葉で
「こいつ……」
「大体、君が暴力を振るっている相手は縛り上げた八乙女さん、山吹さん、黒瀬さん――動けない人とか女性ばかりじゃないか。ああ、暴力ってのは言葉のやつもそうだからね。要するに君がやってることは、ただの弱い者いじめってことさ。反撃できそうにない相手に暴力をちらつかせて言いなりにさせようってんだから。 ――これ以上、つまらない
ガタッ!
真っ赤な顔をして、壬生さんが立ち上がった。
それを素早く制したのは鏡さんだ。
私は、あんぐり口を
「壬生さん、座りたまえ。君の気持ちも分からんでもないが、やり過ぎは逆効果だ。瓜生さん、勘弁してやってくれ。壬生さんにはある事情があって、私から暴力的に振舞うよう頼んでいるということもあるのだ」
「そんなおかしな依頼をするなんて、その
「ほう? どの辺がかね」
驚いた。
こんな立て板に水のように、しかも強い調子でストレートに相手を
もちろん頼りになる人なのは分かっていたけど、どちらかと言うと裏方的なポジションでいることが多くて、表立って
「まず、黒瀬さんが遺書について、最初から素直に存在を認めなかったのは、彼女とあなたの
「私の非?」
「それまであった信頼関係を、あなたの方からぶち壊すようなことをしたんじゃありませんか? 八乙女さんを断罪したと言う、あの夜に」
「君までまたその件を蒸し返すのかね、瓜生さん。もう何度言ったか分からないが、もう一度言おう。八乙女さんの処遇は私の意見ではない。あの場にいた者たちが選んだことだ」
「そうらしいですね。多数決を取ったとか。 ……いや、それは今はもういいんです。僕が腑に落ちないってのは、どうしてそこまで校長先生の遺書に
「……どういうことだね?」
瓜生さんは
こんな時にアレだけど、お茶を用意してあげたくなる。
流石に、ダメだよね?
「遺書が出てきたこと自体は、大事なことではあるけれど、僕たちの生活に影響するようなものじゃない。その存在を公表しようと、伏せたまま遺族の方たちに渡そうと、大した違いはないでしょう。法律
「……」
鏡さんたちが勝手に読んだことを、瓜生先生はちくりと刺した。
私もその通りだと思う。
もちろん、中身が気にならないと言えば嘘になるけど、普通読まないだろう。
「まあ時間は戻りませんから、読んでしまったことはこの際置いておくとしましょう。鏡さんたちは読んだ上で、その内容が遺族の方たちへの純粋な
「さっきも言ったように、黒瀬さんは遺書の存在を隠そうとした。君は信頼関係がどうとか指摘したが、何か異変があれば情実に左右されずに報告すべきだと私は考える。そうでなければ組織は成り立たない。
「それはケースバイケースですよ。少なくとも遺書については、
「その確信を得るために、最後に残された『遺書の発見者宛て』のものを確かめる必要があるのだよ」
「この場合、その発見者は黒瀬さんなんですから、彼女が問題ないと判断すればそれでいいのでは? 言ってみればその遺書は『黒瀬さん宛て』なわけで、
「ならば聞くが、瓜生さん」
私が口を
ちょっと理詰めで来られただけであたふたしてしまう私は情けないけど、瓜生先生は本当に頼りになる人でよかった。
人間性を含めて、助っ人を頼んで正解だったと思う。
そんな瓜生先生を
「君はその『黒瀬さん宛て』の遺書、読んだのかね、読んでいないのかね?」
「え?」
「聞こえなかったのか? 君が最後の遺書を読んだのかどうか尋ねているのだが」
「それは……」
瓜生先生が私の顔を見る。
確かに……ちょっとまずい流れ、かも。
追撃の言葉が、私たちに
「どうなんだね?」
「――読みましたよ」
「読んだのかね?」
「そう言いました」
「ならば」
計画通り、とでも言いたげな表情の鏡さん。
私は
悔しいけど、論戦で鏡さんから勝利をもぎ取るのは厳しいって認めざるを得ない。
それでも……ボイスレコーダーのことだけは、絶対に知られるわけにはいかない。
まだ、その内容を聞いていないのだから。
「私が読んだとて、何もおかしなことはあるまい。発見者と非発見者という立場において、私と君に何の差異もないだろう?」
「ですが、それは僕が黒瀬さんに読んで欲しいと言われたからでしょう。そして、あなたはそうじゃない。その違いは無視できないはずです」
「黒瀬さんが選んだ、というわけかね?」
「そうなりますね」
「その選別の根拠は?」
「さっきも言ったように、信頼関係の問題じゃないですか?」
「ふ……ずいぶんと恣意的な話じゃないか。定量化も出来ない、あやふやな個人の
「それとこれとは、話が違いますよ」
「いいや、違わんな」
それまで前のめりで話していた鏡さんが、ソファの背もたれに身体を預けるように座り直した。
隣りの壬生さんは、無表情。
何かが変化したのを、私は感じた。
「覚えているかね、黒瀬さん、瓜生さん。私が、我々自身のことを『
「……」
「……覚えてますが、それが何か?」
それは、八乙女さんが追放された翌日。
そして、山吹さんが
まだあれから十日も経っていない。
「あの会議の際、私は
「……」
「……」
「言えないのかね? 自らの口で発したことさえ覚えていないのなら、
……言い返せない。
「言っておくが、私は別に思い通りに動く
私たちがしようとしていることが、燃える船に油を撒くようなことだって言うの?
そんなわけがない。
そんなはずが、ない。
「もう少し分かりやすく説明しようか。私がしようとしているのは、言ってみれば『
「職質……?」
「警察官が行う『職業質問』のことだ。彼らは不審な者を呼び止め、停止を求めて質問を行う。私も同様に、黒瀬さん――君が遺書を隠匿しようとする態度に不審なものを感じて見せるように要求した。君はそれを拒絶したわけだ。その場合、警察官は『じゃあいいです』とばかりに引き下がると思うかね?」
「……」
「私は君たちにリーダーとして承認され、組織を先頭に立って運営する立場を与えられた。その権限を
「……」
「
突然、鏡さんはフルネームで私たちを呼んだ。
それまで口をさしはさむ
まるで、先生に叱られる子どものように。
「執行部長鏡
「なっ……!」
「……」
「これ以上、我々が先に進む邪魔をする態度を看過することは出来ん」
身動きが、出来ない。
鏡さんの口から紡がれる言葉が、私を
脳裡を子どもたちの姿が
「私は申し渡しておいたはずだ。たとえ不本意であろうと決まったことには従い、役目を
「わっ、私は保健衛生班の役目は全うしています!」
私の僅かながらの抵抗に、
「君たちは、自分たちが正義を
「え……?」
「『日本に帰るのが遅れるのは容認できない。迷惑に思う』だ。なるほど、そう言う気持ちがあったからこそ、報告してくれたのだろう。その者はこの『方舟』が
「そんな……」
いや、私は正義を行使しているつもりなんて、ない。
ただ八乙女さんや校長先生のことを、
日本に帰る邪魔?
そんな……報告者が誰か分からないけど、そんな風に思われていたなんて……。
遺書の
「鏡さん、いい加減にしてください」
「あなたの要求に応じないこと――遺書を見せないことが、
「む……?」
「もし僕の言ってることが間違ってるのなら、まず先に『日本へ帰る方法』とやらを具体的に説明してくださいよ。そうすれば遺書の件と関係あるかどうか判断できる」
「……」
押し黙った?
鏡さんが?
「それが出来ないのなら、あなたの言っていることはただの言いがかりだ! だとすればあなたは、日本へ帰れるという甘言で僕たちを釣り、思い通りに動かそうとしている独裁者――いや、詐欺師と言われても仕方がありませんね!」
「言葉に気をつけろ」
「その言葉、そっくり君に返すよ、壬生さん。君でもいいから、説明してくれないかな? 日本へ帰る具体的な方法を」
瓜生さんの言葉に、壬生さんは鏡さんの顔をちらりと見た。
助けを求めてる? ――違う。
何かもっと、危険なもののように思える。
私は思わず、叫ぶように言葉を絞り出していた。
「一日待ってください!」
「黒瀬さん?」
突然割って入った私に、驚く瓜生先生。
でも、どうしてかこれ以上この二人を追い詰めない方がいいように思えた私は、言葉を続ける。
「考える時間を、くださ――」
「半日だ」
小さくため息をついたかと思うと、私の言葉に
「明日の――いや、日付的にはもう今日だな。今日の午後一時までに、私のところへ遺書を届けるのだ。これ以上は譲歩しない。そして、遺書が届けられなければ先ほど申し渡したように、君たちには出て行ってもらう」
「……分かりました」
私が小さな声で答えるや否や、目の前の二人は立ち上がり、そのまま職員室を出て行ってしまった。
残された私と瓜生先生は、しばらくの
「……ごめんなさい、瓜生先生。せっかく抗弁してくれていたのに」
「いや、いいんだ。とりあえず時間稼ぎにはなった。何か考えはあるのかい?」
私はほとんど
「残念ながら。でも、最低限ボイスレコーダーだけは。本当は今すぐに回収したいところですけど、もしかしたら見張られている可能性もあります。時間を見計らいましょう」
「そうだね」
そうして私たちも、職員室を出てそれぞれの寝床へ戻った。
◇
(大変だ……これは)
職員室の
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