第三章 第68話 詫び

「この辺なら、いいかな……」

「ねえ、どこまで行くのよ、如月きさらぎさん」


 如月朱莉あかりが、相談したいことがあると言って不破ふわ美咲みさきの腕を引いてやってきたのは、校舎の西の方にある通称「湯殿ゆどの」だった。


 既に夕食の片付けも終わり、各自で自由時間を楽しんでいる時間帯である。


 ここなら多少声を出しても、誰かに気付かれるようなことはない。

 近付く人物がいたとして、足音で分かる。

 そもそも今日は風呂のある日ではないので、わざわざ足を運ぶ者はいないだろう――と、朱莉は考えたのだ。


「ごめんね不破さん、こんなとこまで引っ張って来ちゃって」

「それはいいけど、どうしたの?」


 如月朱莉は新たに実行班、不破美咲は引き続き食料物資班と、新体制では分かれてしまった二人。

 朱莉が三十七歳、美咲が四十四歳と年齢こそ多少離れてはいたものの、配偶者と子を持つ母親という共通点と、趣味趣向が似通っているというところで話が合う、元々割と気の置けない関係だった。


 女性の割合が多い職場だが、意外なことに子を持っている女性は、家族ごと転移した久我くが一家を除けばこの二人と花園はなぞの沙織さおりだけであり、沙織の息子たちは既に成人して家を出ていた。


 そして転移後、家族のために一刻も早く元の世界へ戻りたいという強烈な願いが、何よりも強く二人を結び付けていたのだ。


「わざわざこんなところまで連れてきたってことは、内緒の話なんでしょ?」

「うん、そうなんです。実は……」


    ◇


「……一応いちおう確かめるけど、それって本当の話? 如月きさらぎさん」


 美咲みさきは「遺書」の言葉に息を呑んだが、そのあとはとりあえず大人しく朱莉の説明に耳をかたむけていた。

 ひと通り朱莉の話を聞いた美咲は、冷静な声で問い掛けた。

 朱莉はもちろん、真面目な顔でうなずいた。


「うん……」

「そうかあ、校長先生が遺書を……。でも、ずっと具合が悪そうだったから、思うところがあったのかも知れないわね。まさか殺されてしまうとは予想してなかっただろうけど」

「そう、ですね……」


 それきり、二人はしばらく黙り込んでしまった。

 次に口を開いたのは、美咲の方だった。


「確かに重大なことだと思うけど、何か問題ある? 黒瀬くろせさんが瓜生うりゅうさんに相談した気持ちもわかるし、彼女もいずれ遺書の存在を公表するんじゃないかしら」

「そうかなあ……うーん、そうかも知れないけど」


 何となく歯切れの悪い朱莉。

 その様子を見て、美咲は再度問い掛けた。

 

「どうしたの? 何か心配事があるのなら話してみてよ」

「……」


 答えない朱莉。

 しかし、ただ黙り込んでいるわけではなく、美咲の顔を見たり目をらしたり、口元が何となくむずむずしたりしている様子を見て、美咲はとりあえずかさずに待つことを決めた。

 実際、朱莉の胸中ではいろいろな感情や考えが渦巻き、衝突を繰り返していた。


 ――それでも、美咲の予想よりは大分だいぶ早く、朱莉は口を開いた。


「ねえ、美咲さん」

「うん?」

「私が今、一番優先したいこと……知ってますよね?」

「もちろん」


 まさにそのことでこそ、朱莉と美咲は深く共感しあっているのだから。


「元の世界――家族の元へ戻ること、でしょ?」

「そう。 ……そのためなら私、どんなことでもするつもり」

「それは私だって同じ。転移したあの日からずっと変わらない、唯一ただひとつの望み」

「だから私、心配してるんです」

「心配……何を?」


 言うか言うまいか。

 恐らく口にしてしまえば、自分はまれない。

 葛藤かっとうすえ、朱莉の口はとうとう言葉をつむぎ始めてしまった。


「黒瀬さんたちが……鏡さんたちの邪魔をすること、です」

「黒瀬さんたちが……」


 おうむ返しする美咲だが、少しして朱莉の言わんとするところを理解した。

 美咲は朱莉の目を凝視ぎょうしする。

 彼女の瞳は――――決意の色を浮かび上がらせていた。


「黒瀬さんたちは、鏡さんたちのことをよく思っていない。と言うか、校長先生や八乙女さんの件について不満を抱いている。そうですよね?」

「そうね……でも、私だって鏡さんたちにあんまりいい感情を持ってはいないわよ」

「それは、私もそうですよ」


 わずかに語気を強める朱莉。


「今となっては――いえ、元々もともと校長先生を手に掛けたのが本当に八乙女さんだったのか、もう確かめようがない。当の校長先生はもう送ってしまった・・・・・・・し、八乙女さんだって既にいない」


「……」


「でも黒瀬さんたちは、八乙女さんの潔白を信じてる。そして、彼を冤罪えんざいで傷つけ、追放させたことを相当うらみに思っている」

「……あなたは八乙女さんがやったと思ってるの? 如月さん」


 美咲は静かに朱莉に問い掛けた。

 朱莉は小さくかぶりを振る。


「分からない……でも、彼がそんなことをするような人には思えない」


「私も同じように思っているわよ。八乙女さんが校長先生とめてたってあの人たちは言ってたけど、私が知る限りそんな様子は見られなかった。それに、仮に本当に二人のあいだいさかいがあったとしても、彼が殺して解決しようとするとは到底考えられないわ」


 そのまま、再び黙り込む二人。

 今ここで明らかにされた朱莉と美咲の考えは、別に初めて開陳かいちんされたものというわけでもない。

 朝霧校長が害され、職員室裁判が行われたあの夜、そこかしこで密かに交わされた会話の一つだった。

 多くの者たちが、二人と同じように考えていた。

 少なくとも「死刑」に挙手した者以外は。


「でも……」


 再び、朱莉が口を開く。


「もう、そう・・決まってしまった。当事者の二人は、もういない。真実がどうであれ、そういう流れ・・・・・・で物事は動き始めてしまった……」

「そうね」

「それなら、もうそのままでいいじゃない――もうこれ以上、仲間同士で揉めたくないって思ってしまう……私って冷たい人間でしょうか、不破さん」

「どうだろう」


 まず美咲は、はっきりとは同意しなかった。

 保身のつもりではない。

 ただ共感して、今の朱莉の気持ちが作り出す雰囲気のままに流されてしまうのはよくない――そう判断してのことだと、美咲は自己分析する。


 しかし、美咲は朱莉の気持ちそのものについては、痛いほど理解している。

 彼女が一人娘を得るまでにどれほど苦労を重ねたか聞いているし、何より自身にも中学生の息子二人がいるのだ。


 長男が早めの反抗期に突入して以来、とてもハードな生活が続いていたのだが、中二の夏休みのある日突然、彼はき物が落ちたかのように素直になった。

 その理由が美咲にはまったく分からなかった。

 しかし、ベタベタと甘えるわけではないが学校のこと、部活のこと、友人関係のこと、進路のこと……何気ない会話を当たり前のように交わせるようになった日常に、美咲はこの上ない喜びを感じていた――それなのに。


 自分の感情を再確認すると、美咲の口からは自然に言葉がこぼれていた。


「冷たいとは、思わない。黒瀬さんたちの気持ち、私は分かる。でももう、正直どうしようもないっていうあなたの言うことも理解できる」


「……」


「遺書にどんなことが書かれているのか分からないけど、もしそこに鏡さんたちを攻撃できる材料があったとしたら……あんまり想像したくないわね」


「……」


「もっと言えば――鏡さんが見つけたって言う元の世界へ帰れる話にも、影響があるかも知れない」

「それなんです!」


 うつむき加減だった朱莉は、我が意を得たりとばかりに突然顔を上げた。


「私、それが一番困る……。せっかく日本へ帰れるかも知れないのに、遺書なんてものが出てきたせいで……一分一秒でも早く、戻りたいのに……」

「そうね。でも、もう出てきてしまった。そして、黒瀬さんと瓜生さんという二人の眼に触れてしまった。どれだけ嘆いても、時間は巻き戻らないわ」

「そう」


 先ほどより少し低い声で、朱莉は答えた。


「だから、私は一刻も早く日本へ帰るために、手立てを講じなければならない」

「手立て……」

「遺書の存在を――――鏡さんに伝えます」


 やはり、こうなってしまった。

 朱莉がそう言いだすだろうことは、明白だった。

 そして、私は止めなかった――美咲は、少しだけ後悔する。


 こうなった以上、今から朱莉を止めても無駄だろう。

 力づくで彼女の口をふさぐわけにもいかない――口を塞ぐ?

 そこまで考えて、美咲は恐るべき――しかし、何となく心の底に沈殿していたある考えが浮上してきたのを感じた。


(校長先生も、もしかしたら……)


 そして、鏡龍之介が遺書のことを知ったとしたら何が起こるか。

 連想しかけたことを、美咲は目を思いきりつむって意識の彼方かなたし潰した。


 朱莉は「そうよ、相談するしかない」などとぶつぶつつぶやいている。

 美咲は目を閉じたまま、心の中で詫びた。


(ごめんなさい、黒瀬さん、瓜生さん……)

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