第三章 第19話 おはようさん

(せんせー)

(…………)

(せんせー、起きて)

(……ん)

(起きて、せんせー)


「……んあ?」


 ガタンッ!


「おわっと!」


 危うく俺は椅子から滑り落ちそうになるのを、辛うじて踏んばってこらえた。

 自分が一瞬、どこにいるのか分からなくなる。

 のろのろと周囲を見回すと、いつもの「男子部屋」の俺の寝床……ではない。

 木製の壁、天窓、目の前にはベッド……瑠奈るながこっちを向いている。

 じっと俺の顔を見て――


「――瑠奈!?」


 俺は彼女に思わず駆け寄って、汗で髪がまとわりつく小さなひたいに手を当てた。

 ――熱く、ない!

 安堵のあまり、膝からへなへなと崩れ落ちる。


「熱、下がったみたいだな」


 こくり。


「どう? 気分は」


 こくり。


 ……これは気分がいいということでいいのか?

 顔色は、一見普通な感じだが。


 瑠奈がこの部屋に運び込まれてから、一度この宿の子が食事を届けに来てくれた。

 俺はそれを食べないままうとうとしてしまい、気がつけば夜になっていたのだ。

 それから瑠奈に水と薬を飲ませ、汗を拭いてやった。

 呼吸こそ落ち着いていたものの、まだ熱はあったのでもう一度寝かせたのだけれど、俺も椅子に座ってているうちにまた寝てしまったようだ。


 気付けば、通りに面した窓からも天窓からも光が差し込んで、部屋の中はすでに明るい。

 そう、ここは宿屋の最上階の部屋、四階だ。

 窓の外を見ると、通りは露店と人混みでいっぱいである。


(えーと、今何時ごろだろう)


 こういう時、鐘だけで時刻を知るシステムは不便だなと感じてしまう。

 まあ最大でも三十分待てば次の何らかの鐘が鳴るんだけど、それまで待てない気分なので仕方なく荷物からスマホを取り出し、電源を入れた。


(バッテリーを長くたせたいから、なるべく使いたくはないんだけどな――――お、午前七時十五分か)


 思いのほか、眠っていたらしい。

 椅子寝いすねなので身体の節々ふしぶしがぎしぎし言っているけれど、睡眠時間は十分取れたようだ。


「せんせー」

「お、どうした」

「お腹すいた。あと……トイレ」

「おし、分かった。じゃ、起こすぞ」


 俺は瑠奈の背中に横から右手を差し入れると、彼女の身体をゆっくりと起こした。

 布団の中は汗でかなり湿っている感じがする。

 どこかで干した方がいいかもな。


「立てるか?」


 こくり。


 どうやら歩けるらしい。

 いや、本当によかった。

 一時はどうなることかと思ったからな。


 ……ちなみにトイレは部屋にある。

 ここは日本じゃないから和式というのは語弊ごへいがあるかもだけど、穴がいててそこにする、要するにポットン式である。

 これはザハドの山風さんぷう亭もそうだったし、代官屋敷の部屋もそうだった。

 意外と言っては失礼かも知れないが、ザハドでは上下水道がちゃんと整備されていたんだ。

 まあ全ての家に行き渡っているのかどうかまでは分からない。

 それでも中世ヨーロッパのように、汚物を窓から投げ捨てるようなことはないみたいだから、十分じゅうぶん衛生的と言っていいだろう。

 それに、俺たちはもうポットン便所にも慣れてしまったしね。


 ……さて、俺もついでにトイレを済ませたところで、メシだな。


 と言っても、食い物は何もない。

 昨日、えーっと……セラが差し入れてくれた肉まんみたいなやつは夜のうちに食べてしまったし、瑠奈にはもっと消化しやすいものの方がいいだろう。


「瑠奈、ちょっと下に行って食べ物を買ってくるから、待っててくれ」


 ……こくり。


 何だかあんまり行ってほしくないみたいに見えるけれど、ないものはないんだから仕方がない。


「すぐに戻ってくるからな」


 ベッドに腰かけている瑠奈の頭をぽんぽんして、彼女が小さくうなずくのを確かめると、俺はドアを開けて廊下に出た。


 と――


「おっと」


 廊下に出たすぐのところで、俺は知った顔と鉢合わせた。

 確か――アーチークレールと言ったか、瑠奈が倒れた時、俺たちをこの宿まで案内してくれた青年だ。

 ここの関係者でもあるらしい。

 いわば、恩人と言っても差し支えない人物なのだが……。


「よう、おはようさんオナサーヴ

「おはよう、えーっと、アーチークレールだったか?」

「そんな堅苦しい呼び方しないで、アーチーでいいぜ? アルモードレもそう言ってたんだろ?」

「そうだったな。それにしてもありがとうマロース、アーチー。お蔭で連れの具合も大分だいぶよくなったよ」

「そうかい、そりゃよかったタオユーノーナ

「それじゃ、失礼するよ」


 瑠奈をあまり待たせたくなかったので、とりあえず俺は先に進もうとした。

 ところが、そんな俺をアーチーは呼び止めて言った。


「おい、どこに行こうってんだ?」

「ん? 連れと俺のメシミルを買いに行こうと思うんだが」

「メシか。それだったら俺が調達コントラジオしてきてやるよ。どこに何が売ってるのか分からないだろ?」

「それはそうだが……」

「それに、あんなに小さい子アルフェムをひとりっきりにしとくのはよくないと思うぜ? そばにいてやんなよ」


 そう言うと、俺の答えも待たずにアーチーは階下へ駆けだして行ってしまった。

 呆気にとられる俺。

 少しの間その場に棒立ち状態だったが、買ってきてくれるのならと気を取り直してそのまま部屋に戻った。


    ◇


 しばらくすると、ノックが鳴った。

 俺が返事をすると、一人の少女がトレイを持って部屋に入ってくる。

 セラピアーラだった。


お待たせポリフォラスピート、二人のお食事、持ってきたよ」

「え? さっきアーチーが持って来てくれるって言ってたんだが」

お兄ちゃんブラットリィが、わたしに持ってってやれって言ったの。えーっとね、こっちがりょーすけの分。ポマ・イファとドルオパだよ。るぅなの分は別にあるからね」


 セラはそう言って廊下に戻ると、別のトレイを持ってきた。


「るぅなはこれ、おかゆカッソね。柔らかいマルーアものの方がいいでしょ?」

「あ、ああ」

「で、こっちが飲み物ベベル。二人ともアンズペルクラム果実水デュヌメーヴェだよ」

「ありがとう、助かるよ、セラ」

どういたしましてグラータグラータ。ちゃんとお金クムスは請求するから安心して?」


 そう言って彼女は片目をつぶった。


「もちろんだよ」

「それじゃ、何か用事ペドリフがあったら遠慮しないで呼んでね? わたし、大体食堂ピルミルにいると思うから」

「そうさせてもらうよ」


 セラは手をひらひらとさせながら、部屋から出て行った。

 ベッドの方から「くぅぅ」と言う、小さな音が聞こえてきた。

 見ると、瑠奈が恥ずかしいそうにうつむいている。


「よし、早速食べるか!」


 瑠奈がこくりとうなずいた。


    ◇


 ポマ・イファは、昨日屋台で食べたコトラスに似ていた。

 ただし肉は入っておらず、その代わりに目玉焼きが入っている。

 ちょっと味付けが薄いかなと思ったが、美味しい。


 ドルオパと言うのは、要するに肉の串焼きだな。

 ザハドでも食べたし、ここの市場でも見た。

 香辛料がたっぷり練り込まれているらしくて、なかなかに刺激的な味だ。

 お蔭ですっかり目が覚めた。


 瑠奈は何かの穀物を煮たカッソとか言うのを、しっかり完食していた。

 今は果実水をちびちびと飲んでいる。

 ものがちゃんと食べられるようになったのなら、ひとまず安心していいと思う。

 もう油断はすまい。


 ――――――ん?


 視界のすみを、何かが横切ったように感じた。

 途端に瑠奈が俺の方に飛び込んできた。


「うおっ!」


 辛うじて彼女の身体を受け止めると、俺は天窓を見上げた。


 ――そこには黒い人影が……

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