第二章 第27話 詠従

「少しは落ち着いたかね、犬養いぬかい君」


 からかうように少司しょうじたかしは声を掛けた。

 その相手である犬養宗久むねひさは、すっかり顔をあおざめさせてしまっている。


「は、はい……少し――驚いただけです」


 座布団はもちろん、今は宗久と一緒にきちんと畳の上に戻っている。

 少司は宗久の反応を見て、満足そうにうなずいた。


「いきなり君の度肝を抜くような真似をして申し訳なかったがね、このくらいやらんと今からする話を受け入れてもらえんだろうからな。何しろリア――」

「リアリストたれ、とおっしゃってきたのはあなたですからね、少司さん」

「む」


 かぶせるようにして少司の先回りをすることで、これまでやられっぱなしなところを何とか一矢いっしむくいた形の宗久。

 しかし、一瞬黙りかけた少司はすぐににやりと口角を上げた。


「そう、そうでなければだ、犬養君。むしろ私を喰らい返すくらいの気概きがいがなければ、せっかく決心してくれた君を早晩そうばん消す羽目にならんとも限らん。それは何とももったいない話だからな」

「……」


 この怪物おっさんにはまだ敵わないな――と、宗久は胸中で独りごちた。

 かつての上司である上に、自分の父親の昔の部下でもあるこの男に追いつき追い越すにはもう少し時間と舞台が必要だ。


「さて、彼をあまりらしても何だし、そろそろ私も腹が減ってきた。とにかく話すべきものを話さなければ料理も呼べん。白鳥しらとりさん、九条くじょうさん、お願いしてもいいだろうか?」

「分かりました。では僕から話してもいいですかね、うららさん」

「構いませんわ。どうぞお先に」


 九条豹牙ひょうがは居ずまいを正し、宗久に名刺を差し出した。


「先ほど少司さんから紹介していただきましたが、僕はこの『詠従えいじゅう研究所』というところの所長をしています」

「詠従……初めて聞く言葉ですがどんなものを研究されているのか、お伺いしても?」


 名刺を手にしながら、宗久が問いかける。

 豹牙は愛想あいそよく応じた。

 

「もちろんです。それが今日の話の大事なところでもありますからね。まずはこの『詠従』とは何かというところからですが――」

「……」

「――実は僕もよく分からないんですよ」

「……は?」


 そう言ってほがらかに笑う豹牙を、呆気あっけに取られて見つめる宗久。


「分からない……とはどういう意味でしょうか」

「ああいやいや、そんな怖い顔をしないでください。実際、正確なところは本当に分からないんです。ただ、恐らく地名なんじゃないかと僕たちは考えています」

「地名、ですか?」

「ええ」


 豹牙は卓上のお茶を一口すすり、続けた。


「そもそも、『詠従研究所』という名称になったのも割とつい最近で」

「つい最近、ですか」

「ええ、明治になってからだそうですよ」


 明治時代の出来事をつい最近と表現する――その感覚に宗久は違和感を覚えた。


「明治が最近とは……九条さん、失礼ですが年はおいくつで?」

「あ、こんななりしていて中身はじじいとか思いました? 安心してください。僕は今年三十九になります。アラフォーってやつですね」


 そう言って豹牙は麗をちらりと見た。

 その視線に気付いているのかどうか、麗は涼しい顔を宗久に向けたままだ。

 ちなみに、偶然にも豹牙と麗は同い年であり、宗久は三十三歳である。


 四十にしてまどわず――と言ったのは孔子こうしだったか。

 宗久にはどうにも、目の前のこの男の物腰が四十に手が届こうという人間のものに思えなかった。

 妙な軽さを感じる。


「それまでは『詠従きわがた』とかだったらしいですよ。ははは」

「豹牙さん、お話がれ始めてましてよ」

「おっとこれは失礼。犬養さん、うちの研究所の設立はですね……永正えいしょうなんですよ」

「永正?」

「西暦で言えば、1500年代のごく初めのところです。正確に何年だったのかは分からないのですが、恐らく後柏原ごかしわばら天皇の御代みよ、時の将軍は足利あしかが義澄よしずみだった頃じゃないかと」

「! ……と言うと、五百年以上前の話ということですか」

「そうなりますね。まあつい最近と言うのはちょっと言い過ぎでしたけれど、歴史がやたらに長いんで。九条家ほんけの第十六代当主が始めたらしいんです」


 五百年もの間、一体何を研究してきたというのだろうか。

 宗久には、まだこの話がどう展開するのか、全く想像がつかないでいる。


「重ねてお聞きしますが、結局どんなことを研究されているんでしょうか」


 宗久は辛抱しんぼう強く問い直した。


「そうですね……たん的に言えば『異世界について』ですかね」

「い、異世界?」


 魔法の次は異世界ときたか。

 確かに先ほど魔法の洗礼を浴びたことで、異世界などという荒唐こうとう無稽むけいな単語が飛び出してきても、思いのほか衝撃が少ない気がする。

 少司の気遣い・・・に感謝、というところだろうか。


「その異世界の名、もしくはそこにあるどこかの地名が『詠従えいじゅう』なのではないかと考えています」

「なるほど……で、その異世界とやらの何を?」

「日本にも日本国際問題研究所――いわゆる国問研こくもんけんというのがあります。うちは規模的にあそことは到底とうてい比べるべくもありませんが、やっていることは同じようなものですよ」

「とおっしゃると?」

「異世界との外交についてです。どんな風に付き合っていくべきかってことですね」


 外交。

 この男の口ぶりだと、異世界が当然あるものと考えているように思える。

 確かに魔法と言う不可思議な力はこの身で体験したが、異世界の存在となるとレベルが違い過ぎる――そう、宗久には感じられた。


「そしてもうひとつ」


 豹牙ひょうがは人差し指を立てて続けた。


「魔法を使える世になったら、どうするべきかと言うことです」

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