第二章 第25話 もう一つの覚悟

一体いったい何だと言うのだ!」


 受話器が叩きつけられる音と共に部屋全体に響きわたる怒号どごうに、普段はなかなかに沈着ちんちゃく冷静れいせいで、ちょっとのことでは動じないはずの課員かいんたちも思わず椅子いすから飛び上がりそうになった。

 何しろ、そんな彼ら以上に冷静――いや、冷徹れいてつで滅多なことでは感情をあらわにしないあの・・犬養いぬかい課長が、叩きつけた受話器をきつく握りしめたまま、肩で息をするほどに取り乱しているのだ。


 静まり返るS県警察本部警備けいび外事がいじ課。


 周りの雰囲気を知ってか知らでか、犬養宗久むねひさ警視はひとつ大きく深呼吸をした。

 そして、そばにいた側近の鷹梨たかなし哲哉てつや警部に何やら告げると、先ほどの様子が嘘のような落ち着いた足取りで、ひとり部屋を出て行った。


 呆気あっけに取られていた課員たちも、数秒後にはいつもの彼らに立ち戻り、各々おのおのの業務をこなし始めた。


    ◇◇◇


 そして数時間後、宗久は都内のとある料亭りょうていにいた。


 いわゆる「料亭政治」というものが批判されるようになって久しい。

 かつてのように企業や公務員、政治家たちの接待や密談の場としてはほとんど使われなくなったために、料亭そのものの数はいちじるしく減り、残ったものも業態転換等を余儀なくされることとなった。


 犬養宗久が一人、じっと座って待っているのは、そんな中でも生き永らえている老舗しにせ一角いっかくである。

 かれこれ十分じっぷんほど姿勢を正したまま待っていると、障子しょうじの向こうから足音が聞こえてきた。


 からりと障子がく。


「やあ、待たせてすまないね」

「いえ」


 よく響くバリトンとともに部屋に入ってきたのは、ダークスーツに身をつつんだ長身痩躯ちょうしんそうくの男。

 髪にはわずかに白いものが混じっている。

 男に向かって、宗久は正座したまま軽く頭を下げ、短く答えた。


「来て早々そうそうだが、少し確かめておきたいことがあるんだ」

「確かめたいこと、ですか」


 宗久はいぶかしんだ。

 彼の向かいの席に座った男――少司しょうじたかし

 宗久のかつての上司であり、現在は警視庁警備部部長。

 階級は警視監けいしかんである。


 いつもなら本題に入る前に、必ず長々しい前置きから始まる彼にしては珍しい単刀直入ぶりなのだ。

 宗久の顔のわずかな強張こわばりを少司は見逃さなかった。


「そうだ。臆病なほど用心しろ。そして、よく考えて答えるんだ」

「……はい」


 警戒ぶりをやわらげようともせず、逆にあおり立てるような少司の物言いに、宗久は背中に冷たいものがつたうのを感じた。


「――今、君はある扉の前に立っている」

「……は?」


 思わず変な声をらす宗久。

 庄司は構わず続けた。


「扉の奥にあるのは、一本の道だ。それはほそく狭く、足を踏み外せば待つのは破滅のみ。そして、一旦いったん扉をくぐったのなら、戻ることは決して許されない」

「……」

「そんな扉の前に、君は立っていると思いたまえ」

「はい」


 聞きたいことは山ほどある。

 しかし宗久は、辛抱強くひとこと答えるだけでおさえた。


「君にあるのは二つの選択肢。すなわち扉をけるか、ノブに手を触れず黙って回れ右するか、だ」

「……」

「ちなみにだが奥に踏み込まず、そのまま帰ったとしてもペナルティはない。正味しょうみの話でだ」


 少司の「正味の話」ほど信じられないものはない。

 そのことを宗久は嫌と言うほど知っていた。


「まあこう言っても、君は信じられないだろうな」


 そんな宗久の胸のうちなどお見通しだとばかりに少司は言った。


「しかしこれは本当のことだ。ただし万が一、扉の中に入ったのにも関らず君が引き返そうとしたら……私は君を間違いなく――――消す」


 消す。

 これまで少司がこんな直接的な表現をすることがあっただろうかと、宗久は記憶をたどる。


「……殺す、ということでしょうか」

「その解釈は君にゆだねる。私にしてはいろいろ珍しいと、君はさぞいぶかしがっていることだろう」

「……」

「ただ、ここのところ君にはいろいろと無理なことを押し付けてきたからな」

「無理なこと、とは?」

とぼけなくてもいい。例の外国人母子おやこのことも、あの――何と言ったかな、君の地元の中華料理屋の件についても、相当に鬱憤うっぷんがたまっているんじゃないのかね?」


 宗久は黙るしかなかった。

 その通りだからである。


「だから――いつものように命令すればいいのだろうが、今回はまあ温情というか、選択肢を与えてみたんだ。実際、生半可なまはんかな覚悟で扉を開けられちゃ困るしな」


(温情……か)


 何をおためごかしを――と、宗久は心の中で毒づいた。

 こんな少ない情報で選べと言われたところで、まともな選択など出来るわけがないではないか。

 それに、ただひとつだけ確かなことがある。

 この人が「消す」と言うのなら――きっと、必ず自分は消されることになるということだ。

 その可能性を明示したというだけでも、この人にしては確かに温情と言えるのかも知れない。


「――――扉を、けます」


 宗久は、そう答えるしかなかった。


「……本当にいいんだな?」

「はい」


 少司は目を細くして宗久を見た。

 そして、彼の覚悟のほどを確かめられたと判断すると、少しだけいかめしい表情をゆるめて言った。


「そうか。それはよかった。まあ君ならそう言ってくれると思っていたよ。それにだね、このことは君に無理をいた答えの一端いったんにもつながっているんだ」

「答え……」

「そうだ。ようやく本題に入ることが出来る。まずはだな、君に引き合わせたい人がいるんだよ」


 そう言うと、少司は手を三回ほど叩いた。

 すると、再び障子が開き――――二人の男女が部屋に入ってきたのだった。


 

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