第二章 第23話 糸柳智生

「まず、先ほどの男は糸柳いとやぎと言います」

「糸柳……さんですか」

「はい。あの男が最初に私の前に現れたのは、わたしが涼介りょうすけさんと結婚してしばらくしてからのことです」

「と言うことは、結構前のことなんですね」

「はい」


 すると、ちょっと待っててくださいと言って、莉緒りおは奥に入っていった。

 店主であり、八乙女涼介りょうすけ実父じっぷである征志郎せいしろうが口を開く。


「黒瀬さんの奥さんも、涼介うちのと一緒に巻き込まれたんだってな」

「ええ……そうなんです」

「まったくなあ……一体何がどうなってあんな……」

「……」


 そこに莉緒が何かの紙片しへんを手に戻ってきた。

 席に座ると、彼女はそれを和馬かずまの目の前にすべらせる。


「これ、見てください」

「これは……名刺めいしですか」


 白地しろじに黒い文字のごくシンプルな名刺。

 そこには、男の名前と職場、電話番号がしるされている。


「『糸柳いとやぎ総合調査社』……糸柳智生ともき。探偵さんか何かですかね……」

「そうらしいです。それで」


 莉緒は小さくせき払いをして続けた。


「わたしと涼介さん、結婚式はげてないんです」

「あ、そうなんですか?」

「はい。実際、犬養家には認めてもらったというより、ただ黙認されただけでしたし……その代わりに涼介さんのお義父とうさまとお義母かあさまと、わたしたち二人の四人だけで食事会をしたんです」


 莉緒がそう言うと、征志郎とみどりは小さくうなずいた。


「ははあ……」

「でも、わたしはそれだけで十分でした。涼介さんのご両親に祝福していただいて、わたしは本当に幸せだったんです」


 和馬は、何とも言えない違和感を覚えていた。

 目の前の莉緒の表情と、今置かれている現状がどうしてもつながらないのだ。


「うーん……どうしても気になっちゃうんで先に聞いちゃいますが、それならどうして先輩と離婚したんですか?」

「え……」

「夫婦のあいだのことって、ほかの人には分からない部分があるってのはオレにも理解できます。でも……先輩言ってたんですよ? フラれたんだって。好きな人が出来たから別れてくれって言われたって」

「! ……」


 和馬は、泣き笑いのような涼介の表情を思い出して、少し腹が立ってきた。


「今ここでオレがあなたを責めるのはおかど違いだと思います。オレにそんな権利もない。でも、あなたが先輩のことをなつかしそうに――何て言うか、いい思い出だったみたいに話しているのは、正直あまり気分がよくないです」


「……ごめんなさい」


 小さくつぶやいてうつむく莉緒。

 声がかすかにふるえている。


「いや、別にオレに謝られても――」

「黒瀬さん、そこからは俺から話そう」


 それまで黙って聞いていた征志郎せいしろうが、割って入った。


「涼介と莉緖さんが結婚してからしばらくして、八龍うちのみせにおかしなことが起こり始めたんだよ」

「おかしなこと、ですか?」

「はっきり言っちまえば、嫌がらせのたぐいだ。無言電話から始まって、出前のいたずら注文、無断駐車、入り口のところにゴミをかれたこともあったな」

「何ですか、それ。ひどいですね」

「ああ、おまけに何だか知らねえがガラのわりい連中が、時々大勢で来るようになったんだよ。別に悪さをするわけじゃなく、大人しくメシを食って帰るだけなんだが、変な雰囲気に普通のお客さんたちが引き始めちまってな」


 征志郎は、大きな溜息ためいきをついた。


「一応、警察に届けたりとかして出来る限りの対策は講じたつもりだったが、客足はだんだん遠のいちまったんだよ」

「……そんなこと、先輩、一言ひとことも言ってませんでしたけど……」

「そりゃそうだ。あいつにはなんも知らせてねえからな」

「……」


 征志郎が息子りょうすけに知らせなかった理由。

 大体のところは、和馬にも何となくさっせられた。


「まあ、そんなことがいち年くらい続いたか? で、いよいよ店をたたまざるを得ないかってとこまで考えてた頃に現れたんだよ、そいつが」

「そいつって……えーと、糸柳という男が?」

「ああ」


 苦々にがにがな顔で、吐き捨てるように言う征志郎。


なんでか知らねえが、ご丁寧ていねいに莉緒さんまでここに呼びつけてな。 ……まあ、理由はすぐに分かることになるんだが」

「……莉緒さんを?」

「そうだ。そいつは店ん中を見回して、確か『閑古鳥かんこどりいてるみたいで大変ですねえ』みてえなことをぬかしながら、ペラペラとしゃべり始めたんだよ」


 征志郎が言うのに、糸柳いとやぎは、


 ・自分はある人の使いでここに来た。

 ・自分とその人には八龍このみせの状況を何とかしてやれる力がある。

 ・そのためには少しばかり協力してもらう必要がある。


「協力……って、一体何だったんですか?」


 嫌な予感をおぼえながら、おずおずと和馬が問い掛ける。

 征志郎は莉緒をちらりと見て、ぼそりと言った。


「莉緒さんにな――――――涼介むすこと別れろ、と」

「はあ!?」


 思わず和馬は立ち上がって言った。


「何でそんな……それってあれじゃないですか! マッチポンプって言うか」

「ああ。まあそうだろうな」

「もしかして――――莉緒さん、それで……」


 莉緒はうつむいたまま口をひらかない。

 代わりに、征志郎が説明を続ける。


「で、そいつは、そうは言ってもいろいろあるだろうから、半年待つって言いやがった。半年ったら返事を聞きに来るって言って、帰っていった」

「……」

「実際、それから嫌がらせのたぐいはぴたりとやんだよ。俺たちは莉緒さんに、別れる必要はねえ、やつの言うことなんざ聞くこたあねえって言った」


 莉緒は黙ったままだ。


「で、やつは約束通り半年後に来やがった。もちろん、また莉緒さんを呼びつけてな。で、莉緒さんが俺らに言われた通り、ぴしゃりとことわったんだ。そしたらそいつは『後悔しますよ』ってだけ言って、あっさりと帰った」

「そしたら……また」

「ああ」


 征志郎は忌々いまいまに言った。


「ご丁寧ていねいに前よかグレードアップして再開したよ。ご近所さんにおかしなうわさまで流れるようになって、あっという間に店の状態は悪くなっちまった」

「でもそれって……犯罪じゃないですか? よく分かんないけど、恐喝きょうかつとかそういう――そうだ。警察! 警察に被害届とか!」


 ゆっくりとかぶりを振る征志郎。

 そこで、莉緒が重たい口をひらいた。


「ダメ、なんです……」

「え?」

「何度も警察に相談しましたし、被害届も出そうとしました。でも証拠がないと言って受理してもらえないんです」

「証拠って……それを調べるのが警察の仕事じゃないんですか?」

「一応パトロールしてくれるとは言われましたけど、そんなの見たことがありませんでしたし……結局このままじゃ本当に八龍みせがどうにかなってしまうところだったんです」

「何で……どうして警察はそんなに腰が重いんですか?」

「それは……多分……」

「……多分?」


 警察こそ、市民の安全を守る存在のはず。

 和馬には、莉緒の話が理解できなかった。

 言いにくそうにしている莉緒だったが、意を決して続けた。


糸柳いとやぎうしろにいるのが――――わたしの義兄あにだからです」


「あに?」


 和馬はおうむ返しのように言った。


義兄あにって……最初の方で話してた、元従兄いとこの――」

「そうです。犬養いぬかい宗久むねひさが、糸柳に指示しているんです」

「何のためにお義兄にいさんとやらはそんなことを――あっ、莉緒さんに異常に執着してたって言う話が、ここで?」


 うなずく莉緒。


「でも、でも何でその莉緒さんのお義兄にいさんは、そんなことが出来るんですか?」

義兄あには……警察官僚かんりょうなんです」

「ええっ?」

「推測でしかありませんが、でも確かなんです」

「ど、どうして」

糸柳いとやぎが――私の耳元でささやいたんです。『お義兄にいさんが待ってますよ』って」

「っ!」


 和馬は思わず息をんだ。


「そんな……そんなの職権しょっけん濫用らんようじゃないですか!」

「まったくだ。はっきり言って異常だよ」


 歯を食いしばるようにしている莉緒の代わりに、征志郎が引き取った。


「そんなわけでな、俺としてはもう店をたたむつもりでいたんだが、先に莉緒さんが動いちまったんだ。で、うちに来て『涼介さんとはお別れしました』ってな」

「そんな――――じゃ、そのことを先輩は……」

涼介あいつは何も知らん。何一つな」


 和馬は荒々あらあらしく椅子いすに腰かけ、頭をかかえた。

 そんな和馬に、莉緒は優しい口調で語りかける。


「涼介さんと離婚してから、わたしは山梨に向かい、誰にも行先いきさきを告げないまま一人暮らしを始めました。怖い思いをした場所ですけれど、多少は勝手が分かりますし」

「……」

「そして今年になって、あの学校消失事件が起こったんです」

「……」

「わたしはすぐにお義父とうさんとお義母かあさんに連絡を取りました。電話しでも分かるほど、お二人が気落ちされているのが分かりました。わたしは八龍ここに向かい、お二人の代わりに説明会に出席したんです」

「それであの時……」

「はい」


 突然和馬は立ち上がり、莉緒に向かってがばりと頭を下げた。


「莉緒さん、すいませんでした!」

「え?」

「オレ、そんな事情があったなんて知らなくて……それなのにさっき、あなたが話すのが気分よくないだなんて偉そうなことを――」

「――わたしが涼介さんを傷つけたのは、事実ですから……」

「それは莉緒さんがおどされて仕方なくやったことじゃないですか! ――――許せねえ……絶対ぜってえに許せねえ……そいつら」

「黒瀬さん、落ち着いてください」


 莉緒がなだめるように言う。


「糸柳は、わたしの離婚後に、嫌がらせがぴたっとまたんだのと同時に八龍ここへは姿を見せなくなったそうです。わたしも山梨で人目を避けるように暮らしていましたから、わたしの居場所も追い切れていなかったんだと思います。でも……」


 目を伏せる莉緒。


「わたしが説明会に出席したことで、またマークされたんでしょう。そんなわたしをお義父とうさんとお義母かあさんは八龍うちにおいで、と言ってくださいました。心の弱いわたしは、その言葉に甘えてしまいましたが――そのせいで、こうしてまたご迷惑をかけてしまうことに……」

「俺たちがいいって言ってんだ。莉緒さんがまなく思うこたあない」

「そうよ、莉緒さん」


 ここに来て、今まで聞くばかりだったみどりが初めて口を開いた。


「わたしたちね、あなたがここにいてくれて本当に嬉しいの。ほら、うちは男兄弟だけだったでしょ? よく聞くけど、娘が出来るってこんな気持ちなのねって」

「それにな、俺たちのせいで莉緒さんにつらい決断をさせてしまったんだ。あんたをうちにしばり付ける気なんざ毛頭もうとうないが、もし少しでも一緒にいてくれんなら、手前てめえ勝手がってな言い分かも知れねえが俺たちゃありがてえんだよ」

「ありがとうございます」


 莉緒が二人に頭を下げる。

 そして、和馬に向き直って言った。


「黒瀬さん、あなたまで巻き込んでしまいました。本当にごめんなさい」

「え、いや……あれはオレが勝手にキレただけで……」

「わたし、黒瀬さんのあの時の気持ち、痛いほど分かるんです」

「う……」

「今日は話を聞いていただいてありがとうございました。あとはわたしたちの問題です。もう少し頑張ってみますので」


 和馬は、何とか莉緒たちの力になってやりたいと思った。

 しかし――彼は一介いっかいの小学校教師である。

 今の彼には、彼らを救うために具体的にどうしてやればいいのか、自分に何が出来るのか、明確な答えを見つけることはできなかった。


    ◇


 和馬はそのあと、何かあった時のためにと、莉緒とは電話番号とFINEファインIDアイディーを交換して、お互いに連絡を取れるようにした。


(何かあった時のために、か……)


 それはきっとただのおためごかし・・・・・・であり、自己満足に過ぎない。

 彼自身、そのことは嫌と言うほど分かっていた。


(オレは無力だなあ――真白さん)


 ――寂しく自嘲じちょうしながら、彼は夜のやみの中、車を自宅に走らせるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る