第二章 第21話 激情

「はいー、こんちはー」


 低めの声と共に店に入ってきたのは――一人ひとりの男だった。


 くたびれたジャケットによれよれのチノパン。

 ぼさぼさとまでは言わないが、最低限の清潔さでいいだろと言わんばかりの髪型。


 決して物事を真正面から見ることがない――後ろから、裏側から、逆さから――そうする習性がみついた人間独特の雰囲気のようなものをはなっていた。


 どう見ても、ただラーメンを食いに来たような客ではない。

 その証拠に男の第一声いっせいだけで、犬養いぬかい莉緒りお八乙女やおとめ征志郎せいしろうたちに緊張が走ったのが、黒瀬くろせ和馬かずまには感じられた。


 男はポケットに手を突っ込んだまま店にゆっくり三歩さんぽほど入り、店内をぐるりと見回した。

 そして、目当ての人間を見つけると、口角こうかくをにっと上げた。


「やあ、いるな」

「……」


 男の視線を、口を真一文字まいちもんじに引き締めて受け止める莉緒りお


「どうだい、こないだの返事、聞かせてもらいにきたんだけどね」

「……」

「おや、だんまりか?」


 男は表情も変えず、口元をゆるめたまま続けた。

 先に来ていた客たちが、不穏な空気を感じてそそくさと会計を済ませようとする。

 その対応のためか、奥から莉緒とは別の女性が出てきた。

 八乙女征志郎の妻、みどりである。


「まあ俺もガキの使いじゃないんでね、何も言ってくれませんでした、ちゃんちゃんってだけで帰るわけにもいかねえんだわ、これが」


 そう言って、男は近くのテーブルの椅子いすを引き、どっかりと腰かけた。

 足を組んでプラプラとしている。


「帰ってください」


 莉緒がしぼり出すような声で言った。


「返事はこないだ申し上げた通りです」

「こないだぁ?」

「きちんとお断りしたはずです」

「……ああ、あれね」


 男の眼が剣呑けんのんな光をたたえる。


「そんなこと言っちゃっていいのかい?」

「……」

まーた始まっちまったら・・・・・・・・・・・、それでもいいってのか?」


 その台詞せりふに、莉緒がくちびるをかむ。

 彼女のただならぬ様子を見て、和馬は思わず口をはさんでしまった。


「あのー、一体どうしたんですか?」

「ああん?」

「あ、いや、あなたじゃなくて莉緒さんね」


 口をゆがめる男を制して、和馬は莉緒にたずねた。


「誰なんです? この人」

「……それは――」

「メシ食ったんならさっさと帰りな。部外者にゃ関係のねえ話だ」

「いや、まだこれから後半戦なんですがね」


 そう言って、肉が三枚も残る皿を指し示す和馬。

 男は舌打ちをした。


「だったらちゃっちゃと食っちまえよ」

「……何であなたにそんなことを指図さしずされなくちゃならないんです?」


 男の物言いに、和馬はついカチンと来て問い返してしまう。

 すっと目をほそめる男。

 莉緒があわてて言った。


「黒瀬さん、すみません。あの――」


 と言って、カウンターの中の征志郎を見る。

 店主は黙ってうなずき返した。


「あの……おだいは結構なので、お帰りになっていただけないでしょうか」

「え?」

「本当にすみません、お食事中なのに」


 そう言って、申し訳なさそうに頭を下げる莉緒。

 男がにやついて追い討ちをかける。


「そうそう。半分しか食ってねえとは言え、ただメシ・・・・出来てラッキーじゃねえか。さ、とっととけえりな」

「ふーん……」


 和馬は莉緒と男の顔を交互に見て、最後に自分の皿に目を落とした。

 そして財布から千円札を一枚取り出すと、まだ料理の残るカウンターの上に置く。


「それじゃあ……オレはお邪魔みたいですから」


 和馬はかたわらに置いた黒いビジネスバッグを手に取り、立ち上がった。

 莉緒の表情に、かすかに悲しみの色がす。

 それに気づかないまま、和馬は店のとびらに向かって歩き出した。

 男はすでに和馬がいないものと認識したようで、早速さっそく口を開き始めた。


「とにかくよう、色よい返事・・・・・ってやつをもらわないと、俺も引けなくてな」

「――――」

「おら、黙ってないで何とか言えよ」


 男の台詞せりふを背中で受けながら、和馬はガラガラと引き戸をけ、店の外に足を踏み出した。

 真っ赤な西空が、彼の目に飛び込む。


「――だからよー、消えちまった元旦那に義理立てすることなんざなかろうが」


 後ろに扉を閉めようとした和馬の動きが、止まる。


「死んじまったモン・・は帰ってこねえんだよ!――――」


 ガラピシャーン!!


 次の瞬間、一度は閉まった扉が派手な音を立てながら再びはなたれた。

 そこには夕陽を背にした、和馬のシルエットがあった。


「おい」


 突然のことに硬直している男と莉緖。

 和馬はつかつかと男に歩み寄り、その胸倉むなぐらを右手でつかみ上げた。


「ぐっ」

「お前今、なんつった」

「うぐぐ……」

「何つったって聞いてんだよ」


 特に力を込めている風でもないのに、男の爪先つまさきが浮き始めた。

 男の顔面が急速に赤くなるのを見て、莉緒が和馬に駆け寄る。


「――っ!」


 和馬の顔を見て、莉緒はさらに驚愕きょうがくした。

 彼は憤怒ふんぬの表情のまま――涙を流していたのだ。

 さらに和馬が右腕を高くかかげると、男の足は完全に宙に浮いた。


「てめえみてえなチンピラによう、何が分かるってんだ」


 地獄の底から響くようなしゃがれた声色こわいろで、和馬がむしささやくように言う。


「待ってるやつがどんな気持ちでいんのか、教えてやるよ……」


 えり首を握る右手に、メリメリと音が聞こえるほどに和馬は力をめる。

 赤を通り越して紫色に変じてきた男の顔を見て、莉緒が叫ぶ。

 飛びつくようにして、和馬の左腕にしがみついた。


「ダメです黒瀬さん! 死んじゃう!」

「……あ?」


 何だ邪魔くせえ――と、目だけ左に動かすと、必死な表情で何かを訴える莉緒が彼の瞳にうつった。

 猛烈もうれつな勢いで首を横に振っている。


(――あ……)


 和馬が右手の力をすっとゆるめた。

 その途端とたん、男は糸の切れた操り人形マリオネットのようにその場にがしゃりと崩れ落ちた。

 うずくまったまま、首を押さえてひゅーひゅーと背中を荒々しく上下させている。


(――やっちまったか……また)


 カウンターの中から、八乙女やおとめ征志郎せいしろうが飛び出てきた。

 動けないでいた妻のみどりも、我に返った表情で駆け寄ってきた。

 莉緒はゆかの男を一瞥いちべつすると、エプロンからハンカチを取り出した。

 そして、黙って和馬の頬をぬぐった。


「あ……」


 その時初めて、和馬は自分が泣いていたことに気が付く。

 激情が吹き荒れたあとには、気まずい後悔が満ち始める。

 和馬はしゃがみ、おずおずと男の背中に手を掛けた。


「あ、えーと……大丈夫ですか?」

「はあっ、はあっ――う、うるぜえ、よ……ぐくっ」


 男は涙と鼻水と涎にまみれた顔を上げると、和馬の手を振り払った。

 よろよろと立ち上がる。


「ぎょ、今日ぎょうのどごろは引ぎがっでおいでやぐほっ、げほっ」


 口元をそでぬぐうと、激しくき込みながら男は和馬たちを指さした。


「いいが、犬養いぬがいざんよう……がほっ、づ、づぎごぞはいい返事を期待ぎだいじでうがあな……」


 そしてきびすを返すと、覚束おぼつかない足取りで歩き始めた。

 店の扉がひらき、再び閉まる。


 ――残されたような形の四人は、西日が差し込む店内でしばらく無言のまま立ちすくんでいた。


 仕方なく、和馬が最初に口をひらく。


「ま、まずかったですかね……」


 ――答えは返ってこない。

 和馬は莉緒たちの顔を直視できず、近くのテーブルにほうり出してあった黒いビジネスバッグを手にすると言った。


「オレ、帰りますね。すみませんけど、何か問題があったら連絡ください。ケータイの番号、変わってませんから――」

「待ってください」


 一歩踏み出した和馬の背中に声を掛けたのは、莉緒りおだった。


「――お時間があったら、お話を聞いてもらえないでしょうか……?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る