第二章 第10話 艱難

「あー? 誰だ? こいつら」


 その男は朝、農作業のために自分の畑をおとずれていた。


 道具を出すために農機具のうきぐ小屋のとびらを開けると――――そこには見知らぬ人間が二人、壁に寄りかかりながら座っていた。

 男の声に、何の反応もない……が、衣服がかすかに上下じょうげしているのが見えた。


「ホームレスが宿わりに勝手にもぐり込みやがったのか……おい、起きろ」


 それでも目を覚まさない様子にごうを煮やして、男は手前側に座っているほうの肩をさぶる。

 身体を揺らされて、うっすら目を開けたアルカサンドラ――サンドラは、目の前の男に気付いて飛び起きた。


「はっ……!」


 そして、エルヴァリウス――リウスをり起こす。

 そんな彼女に、男のむちのような声が飛んだ。


「出てけ。ここはホテルじゃねえんだよ」

「ごめ……ごめなさい……」


 逆光ぎゃっこうでよく見えないが、男の冷たい声音こわねに底知れぬ敵意を感じたサンドラ。

 かろうじてそれだけ言うと、リウスの腕を取ってあわてて小屋の外にまろび出た。


「まったく……何かいたずらされてねえだろうな……」


 二人の背中に、男の言葉が追い打つようにかぶさる。

 言葉の意味こそよく分からないものの、意図いとするところは明確に伝わってきた。

 サンドラとリウスは、小走こばしりで農機具小屋から必死で離れる。

 しばらくして振り返り、男が追ってくるような様子がないことを確かめて、やっと足を止めた。

 母子おやこは息をあららげながらもお互い顔を見合わせ、小さく微笑ほほえむ。

 そして、またどこかに向けてゆっくりと歩き始めた。


    ◇


 サンドラとリウスは、国道一号線沿いの側道そくどうを西に向かって歩いていた。

 道沿いには桜の木が延々えんえんと植えられており、春先であれば見事な眺めとなる。

 更にその南側には、側道に沿うようにはば五メートルほどの小さな川が西流せいりゅうしている。


母さんマァマ

「なに?」

「なかなかないね」

「……そうね」


 夕焼けが二人の姿をあかね色に染め上げている。


「そろそろ……暗くなりそうだね」

「仕方ないわね……リウス」

「ん?」

「これ以上このジョールを歩いても、ゲーゼを明かせそうな場所ハドはなさそうだわ」

「そうかもね」

「だから、このあたりにしましょう」


 そう言って、彼女はアバほうゆびさした。


「え……どこ?」

「そこよ」


 サンドラがすのは、川にかかっているチルテスである。


 地下都市ヴーム出身の二人は、河川かせんにかかる橋梁きょうりょうと言うものを知らなかった。

 彼らがそれを知ったのは、天方あまかた家での生活の中でだ。


「『はぁし』……だよね」

「そう。今夜セオゲーゼはあの下で休みましょう」

「……危なくないかな?」


 サンドラは、少し考えてから言った。


「気を付けるしかないわね。他に適当なところハド・アウジアータも見つからなさそうだから」

「そうか……分かった」


 二人は側道をはずれ、川岸かわぎしに踏み入ると草がしげる中、川にかかる橋の下に移動した。

 リウスは周辺を見て回り、ちょうどよさそうな段ボールを見つけてくると、ななめになった岸辺きしべにそれを敷き、母親に座るよううながす。

 見上げると、橋の裏側には泥がびっしりとこびりつき、蜘蛛の巣ペサヌラグネラが張っている。

 橋の上を車が通るたび、振動で欠片かけらがぱらぱらと落ちた。


「それじゃ、ご飯ミルにしましょう」


 サンドラはポケットからおにぎりを一つ取り出した。


 もうこれしかないからセオユーノクォラヴィスル、と言いながら、彼女はやっとおぼえたけ方で中からおにぎりを取り出すと、半分プセに割って息子リウスに手渡した。

 二人は手にしたそれを、少しずつ大事に口にする。


 母子おやこが最初におにぎりと言うものを食べた日――――それは、あの楽しかった一泊旅行初日しょにちの朝だった。

 あの時は開け方も分からなかったが、中から出てきた黒い物体が果たして食べ物なのかと、いぶかりながら恐る恐る口に運んだものだ――――サンドラの脳裏のうりに浮かぶのは、それを美味しそうにパクつく天方あまかた理世りせの笑顔だった。


(泣いたりしてないかしら……あの子)


 ――いつしか二人は、肩を寄せ合って眠りについていた。


    ◇


 その翌日、サンドラとリウスは橋の下を出た。


 そして、より身体を休めやすい場所を探すために彷徨さまよい歩いた。

 わずかにあった所持金も、食料もすでに尽き果てた。

 このままでは、いずれ健康を害し、自分たちの命すら覚束おぼつかなくなるだろうことを二人は理解していた。


 それでも盗んだり奪ったりすることをせず、ただひたすら歩いていた。

 彼らを支えていたのは、ただひとつ。


 ――こうして離れていれば、天方あまかた家に迷惑をかけることはない――


 その思いだけだった。


    ☆


 雨が降り始めていた。


 寝床になりそうな場所は、見つからなかった。

 すでに陽は沈み、夜のとばりが雨音と共に静かにりていた。

 サンドラとリウスは仕方なく、昨日を明かした橋に向かってを進めていた。


 ――雨脚あまあしが少しずつ強まっていく。


 かさなどない二人は、九月の雨をそのまま身に受けながら歩く。

 目的の川と、並走へいそうする国道一号線が近付いてきた。


母さんマァマ、もう少しだよ……」


 もう何日も満足な食事を取っていない彼らは、疲れ果てていた。

 特にサンドラは、明らかに調子をくずしていた。

 ふらつく母親の肩をきながら、リウスははげます。


 ――と、サンドラのひざががくりと折れた。


 そのまま道路に倒れ込んでしまう。


「あっ!」


 そこに車が走り込んでくる。

 ……かろうじて、母子の数メートル手前で、その車は停車した。


母さんマァマ大丈夫ユニタオーナ!?」


 リウスが助け起こそうとしているところに、停車した車から運転手とおぼしき人物が降りてきた。

 ヘッドライトが、雨の中の母子おやこを照らし出している。


「だ、大丈夫ですか!?」


 若い男があわてた調子で声を掛けると、サンドラの反対側の腕を肩に載せて、エルヴァリウスと一緒に支える。


「怪我はありませんか?」


 ゆっくりと立ち上がったアルカサンドラは、つぶやくような声で答えた。


リユナスオーナだいじょうぶです……」

「え、リユナ……何?」


 男が首をかしげる。

 これはまずい、とリウスは思った。

 もし治癒室クラキルマのようなところに連れていかれたら――


「イ……だ、だいじょぶ。ありがと。ごめなさい」


 ――急いで去らねばならない。


 リウスは母親の肩をき直し、それだけ短く言うと足早あしばやにその場をあとにした。

 幸い、男が追いかけてくるような様子はなかった。


    ☆


 ようやく昨日の場所――橋の下――に到着した二人。


 リウスは母親を横に寝かせると、リュックサックからタオルを取り出し、れそぼった母親の髪や顔をぬぐった。


(本当は、れた服は何とかしたほうがいいんだろうけど……)


 とりあえず彼は、母親の濡れた上着を脱がせた。

 Tシャツ一枚になった彼女の首や腕の水滴すいてきき取り、母親のリュックサックからまだ濡れていないタオルを取り出すと、そっと彼女の上半身にかけた。


ごめんねポリーニ、リウス……」

「そんなのいいから」


 うっすらと目をけてつぶやくサンドラに、リウスは答えた。


(とは言っても)


 リウスは、母親の隣りに疲れ切った身体を横たえた。


(これから……どうしたらいいんだろうか)


 また一段と雨音あまおとが大きくなる。


 希望は――――ない。

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