第二章 第09話 彷徨

 自分たちの存在が、ためにならないどころか、大恩だいおんある天方あまかた家にわざわいをまねき寄せてしまうとさっしたベーヴェルス母子おやこ


 ある晩、二人は荷物をまとめ、そっと家を出た。

 ……てのないまま。


 そのの彼らの足取りは、如何いかに――――


    ◇


母さんマァマ

「何?」


 天方あまかた家を先ほど出て十分じっぷんほどってから、まずエルヴァリウス――リウスの方から口をひらいた。


 夜闇やあんの中、リュックを背負せおい、早足で歩くベーヴェルス母子おやこ


「今、どこへ向かっているの?」

「……特に考えてないわ」


 もとよりてなどないのだ。

 平静をよそおって答えたアレクサンドラ――サンドラだったが、その声音こわねに不安がにじんでいたとしても仕方のないことだっただろう。


「そうかあ――そうだよね」


 それは気楽な感じで応答したリウスとて、同じことである。

 ……沈黙したまま、どこへとなく彷徨さまよい歩く母子おやこ二人。

 いつしか彼らは、あまり大きくない公園に辿たどり着いた。


 本人たちは知るよしもないが、そこは先日天方理世りせ暴漢ぼうかんに襲われ、あやうく拉致らちされかけた公会堂に隣接りんせつした場所だった。


「とりあえず今夜はここで休みましょう」


 公園の中を見回してから、サンドラは言った。


「ここなら座るところもあるし、お手洗いコモセドもあるみたいだから」

「そうだね」


 残暑ざんしょの厳しい九月。

 それでも、深夜ともなれば風がなくとも、うっすらと肌寒はだざむく感じる。

 水銀灯すいぎんとうに似たLED照明が白く照らす中、ベンチに腰かけた母子おやこは互いに身を寄せ合って目をつぶるのだった。


    ◇


 翌日、二人の姿はあるコンビニの前にあった。


「ここで食べ物ミリスを手に入れられるはず……」


 アルカサンドラは、手に財布を握りしめて言った。

 天方あまかたさくらが、万が一の時のためにと言って、二人に持たせてくれた――財布。


「その中に入ってるんだよね、『おかね』が」

「ええ」


 少し不安そうに微笑ほほえみながらエルヴァリウスに答える彼女。


「リウス」

「何?」

「前に『りょこう』に行った時、『こんびに』で『おかいもの』したの、覚えてる?」

「うん」


 エルヴァリウスは答えた。


 ――あの鮮烈せんれつで、たとえようもなく楽しかった日々。


 その記憶が、彼を優しく微笑ほほえませる。


「『おかね』で何かと交換ヴァルタールできる仕組みラクストレイトなんだよね」

「そうね」


 母子おやこが暮らしていた地下都市ヴームには、貨幣かへい制度が存在しなかった。

 最初からなかったわけではないが、いつしか日本のある世界テリウスで言うところの、一種の共産制を取るようになっていたのだ。

 彼ら地下都市の住人マルカが提供していたのは、細分化された職制ブルゴアにおける労働力エスクラーナ

 それをって各種施設クリントス維持いじし、生きるためのかてを得ていたのだった。


「でも、交換比率ヴァル・エクィスがよく分からないんだよなあ」

「あの時はまだ私たち、こちらの数字トルルスが読めなかったからね」


 ウィーン。

 ピロリロピロリロピロリロ――――


 自動ドアをくぐると、二人を入店にゅうてん音が迎えた。


「さあ」


 サンドラは言った。


「『おかいもの』をしましょう。なるべく交換比率がよくて、腹持ちのいいものを」


    ◇


 それから母子おやこは、昨晩さくばん夜をかした公園を拠点きょてんにして行動するようになった。

 休憩きゅうけいできるベンチもあり、トイレや補給できる水場みずばもあるので、一応の拠点きょてんとするのにはうってつけの場所だったのだ。


 人目ひとめく外見の二人だが、並んでベンチに座り、コンビニで調達したおにぎりを食べて談笑だんしょうしていても、今のところ特にわる目立ちすることもない。

 そうして明るいうちは、よりよい寝床ねどこになりそうな場所を探し、見つからなければとりあえず公園に戻り、ベンチで夜を明かすという、そういう毎日を過ごすことに決めたのだった。


 ――明日の見えない、毎日を。


    ◇


「うわあ……」

「これは……すごいわね……」


 母子おやこは、海にいた。


 このあたりは今沢いまざわ海岸と呼ばれ、その一角いっかくにN海浜かいひん訓練場が存在する。

 そこでは海上自衛隊や米軍によって、たまにLCACエルキャックビーチング訓練やUH-60によるヘリボーン訓練などが行われるのだが、今はそのような若干物騒ぶっそう代物しろものの影はない。

 彼らの眼前がんぜんにあるのは、遠く水平線まで広がる駿河するが湾の海と、もう少しでマジックアワーを迎えようと言う頃の、幻想的な色合いをした大空だけである。


「これが、『うぅみ』なのね、きっと」


 アルカサンドラ――サンドラは、天方あまかた家に連れられて旅行に行った折りに、河口湖をながめた時のことを思い出してつぶやいた。


「『みぃずーみ』も大きかったけど……これはちょっとランゴが違うね」


 エルヴァリウス――リウスもうなずいて言った。

 二人の手には、今日の夕ご飯の分のおにぎりがひとつずつあった。

 堤防の上に腰かけながら、母子おやこはそれを口にする。


「僕……いろいろ苦労はしたけどさ」


 顔を前方に向けたまま、ぼそりと言うリウス。


地下都市ヴームを出て、よかったと思うよ」

「……そうかもね」

「こんな景色ヴールを見られたんだからさ……」

「そうね……」


 ささやかな食事ミルを終えた二人は、そのあともしばらく静かに海をながめていた。


    ☆


「おい、あんたらここ三日さんにち、ずっとここで夜明よあかししてるだろ」

「え……」


 海を見たあと、いつもの公園にベーヴェルス母子おやこは戻ってきた。

 ベンチに腰かけていた二人に突然びせられたのは、なじるような強い口調くちょうの言葉だった。


「あんたらホームレス? 困るんだよね、ここに住み着かれちゃ」


 驚きで何も言えずにいる母子おやこに、その男性は二人の正面に回り、しかめっつらで続ける。

 言われている言葉の意味はよく分からなくても、表情と声音こわねから彼が決して友好的ではなく、何かを責めているのだろうことは二人にも理解できた。


 サンドラが立ち上がり、男性と相対あいたいする。


「あ、わたし、いる、ここ、いい……いけない、です、か?」

「何だあ? 外人かよ」


 男性は、彼女の顔を見て、日本人の顔立ちではないことに気付いたようだ。


「日本語がちゃんとしゃべれねえのか? ……参ったなこりゃ」

「あ、う……」


 たたみ掛けられるように言われて、すぐには言葉が出ないサンドラ。

 リウスも立ち上がる。

 先日、天方あまかた家の庭先で騒ぎを起こした、あの女性のことを思い出したらしい。


「お、何だ? やんのか?」


 背の高いリウスが緊張したおも持ちで立ち上がるのを見て、男性は少し後退あとずさって警戒した。

 彼が手を出すような雰囲気でないとはんじると、男性は、


「とにかくよ、俺ぁそこの住人だからよ、変な外人がごとたむろしてるようだと心配で落ち着かねえんだよ。またいるようだったら警察呼ぶからな」


 そう言って、その場をあとにした。


 ――残されたサンドラとリウスは、硬い表情でしばらく立ちすくんだままだった。


「……母さんマァマ


 リウスがようやく口を開く。

 何と答えたものか思案しあんに暮れるサンドラ。

 それでも、言葉がよく分からなくても、一つの事実について彼女は確実に理解していた。


 ――もう、ここにいることは出来ないことを。

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