第二章 第07話 雨

「お待たせしました。こちら、熟成じゅくせい銘柄めいがらぶたのグリル・ポルチーニクリームソースでございます」

「わあ!」


「こちらが、黒毛くろげ和牛わぎゅうもも肉のタリアータでございます」

「おおっ!」


「そしてこちらが、こんがりパネ・マスカルポーネ&イタリア産アカシアはちみつえでございます」


「ひゃあ!」

「おいしそう……」


 料理を運んできた給仕係カメリエーレが去ると、朝霧あさぎりあきらかがみ志桜里しおりはお互いの顔をちらりと見て微笑ほほえみ、手を合わせた。

 そして、小さな声で「いただきます」と言った。


    ◇


 時刻は午後五時。

 N市内の、とあるイタリアンレストランに、あきら志桜里しおりの二人はいた。

 まだ夕陽ゆうひは沈んでこそいないが、空はすっかりあかね色に染まっている。


朝霧あさぎりさん」

「ん?」


 けずったパルミジャーノを乗せた牛肉を頬張ほおばる暁に、志桜里が話しかける。


「このお肉、ちょっと食べてみます?」

「えっ、いいの?」

「はい」


 そう答えると、志桜里は皿の上の豚肉を器用にナイフでカットし――――ちょっと迷った挙句あげくに、それを暁のプレートにせた。


「これ、すごく美味おいしいんです。ためしてみてください」

「それじゃあ、お言葉に甘えて……もぐもぐ――んっ、こりゃ美味うまい!」

「でしょう?」


 相好そうごうくずす暁を見て、にっこりと笑う志桜里。


「それじゃあ、僕のもあげるね」

「えっ」

「こっちもすごく美味いんだよ。食べてみて」


 そう言って暁は、皿の上の牛肉の薄切りの上にたっぷりとパルミジャーノチーズを乗せ、落とさないように慎重しんちょうに志桜里の皿に移した。


「チーズと一緒に口に入れて試してみてよ」

「そ、それじゃあ……」


 暁に見られながら口を開けるのをちょっと躊躇ちゅうちょしたが、志桜里は思い切って一口ひとくちでそれをぱくりと頬張った。

 途端とたんに彼女の目尻めじりが下がる。


「美味しい!」

「でしょ?」


 幸せそうにもぐもぐと咀嚼そしゃくする志桜里を見て、思わず笑顔になる暁。


「また、このパンが本当に美味いね。きっとライスでもおかずにはばっちり合うんだろうけど、チーズとハチミツをかけたパンも、すっごく合う」


「はい、本当に」


 前菜アンティパストに水牛のモッツァレラチーズとフルーツトマトのカプレーゼと、イタリア風かきたまスープストラッチャテッラをたっぷり食べていた二人だが、主菜しゅさいももりもりと口に運んでいく。

 なお、いろいろなものを食べたいと言うことで、コース料理としてではなく、彼らは食べたいものを各々おのおの注文している。


「鏡さん、デザートは何にしたんだっけ?」

「私は、ティラミスです」

「そっか、じゃあ僕の頼んだマチェドニアも食べてみてよ」

「それなら私のも」

「うん。ちょっとお行儀ぎょうぎわるかもだけど、いいよね?」

「はい」


 ディナーと言うには少々早めに入店してきたこの二人の甘い雰囲気に、店員たちはさいわいなことに胸を悪くしたりせず、微笑ほほえましいものを見るかのように優しく見守っている。

 何しろ、まだ客はごくまばら・・・にしか入っていない。

 そんな中で、交際したてのカップルがかもし出すある種の雰囲気オーラはなつこの二人は、非常に目立っているのだ。

 主菜を食べ終えた二人に食後の甘味ドルチェが届き、「あ~ん」まではしないものの、お互いの皿から少しずつ相手に取り分け、にこにこしながら食べる暁と志桜里。


 そして、少し談笑だんしょうしてから会計を済ませて店を出て行く二人の姿を、店員たちは何故なぜ名残なごりしそうに見送った。


    ◇


「♪♪~♪~」


 鼻歌じりにステアリングをご機嫌ににぎっているのは――朝霧あさぎりあきら


 となりには――――誰もいない。

 夕方から一緒だった志桜里しおりは、先ほど自宅のマンションに送っていった。

 今はF市の自宅へ向けて、旧国道一号線――別名千本せんぼん街道――を走っているところである。


 ――食事を終えたあと、二人はほど近いNこうに向かった。


 そして、すぐそばにある大型展望水門「びゅ○お」にのぼり、わずかに赤みを残した西の空と、眼前に広がる駿河湾、そして明かりがともり始めたN市のながめを楽しんでいたのだ。

 その時の様子を、暁は何度も反芻はんすうしてはニヤニヤしている――――


    ※※※


「うわー……すごいながめ……」

「もうちょっと早ければ、もっと夕焼けが綺麗きれいだったんだけどね」

「んーん」


 志桜里しおりかぶりを振った。


「今だって十分じゅうぶん綺麗ですし……また来ればいいじゃないですか」

「え?」

「な、何でも……ないです……」


 聞こえているくせに、ちゃっかりと聞き返す小技こわざを暁は体得していた。

 心の中ではガッツポーズを決めながら、しれっと暁は続けた。


「そうだね……また来よう。ぜひ」

「もう……」


 志桜里がほおをぷうとふくらませる。


「聞こえてるんじゃないですか」

「ははは……もう一回言ってもらいたかったんだ。何て言うかその……可愛いから」

「え?」


 今度は志桜里が聞き返す番だった。


「鏡さん」


 暁は星がまたたき始めた宵闇よいやみを見たまま、言った。


「はい?」


 志桜里が暁の顔を見上げて答える。


「あの……志桜里しおりさん――って、呼んでもいい、かな?」

「えっ……」


 志桜里の声を戸惑とまどいと暁は受け取った。

 彼女に顔を向けて少しあわてたように付け加える。


「いやあのほら僕たち、まだ四日前からだけど、一応付き合ってい――」

「いいですよ……もちろん」


 にっこりと笑って言う志桜里。


「私も――呼び方、変えた方がいいかなって」

「と、言うと……?」


 志桜里は目を窓の外に向けた。

 暁もつられて、彼女の視線の先を追う。


 眼下がんかに見えるうお市場いちばには、いくつもの青いイルミネーションがともっている。

 そのあかりが海面うなづらえ、細長いムーンストーンのような幻想的な光をゆらゆらと落としていた。


 志桜里が暁の眼を見る。

 そして、暁の視線とからまった瞬間、彼女は言った。


「――――あきら、さん」


    ※※※


「うお~~~~っ!」


 赤信号で止まったあきらは、もう何度目かのガッツポーズをしながら咆哮ほうこうする。

 さいわい、走行中は自重じちょうする程度には、彼は理性を残していた。


「暁さん……だってさ!」


 彼はまあまあ興奮していた。


 こんなに気持ちがたかぶるのは、高校三年生の時に付き合っていた後輩の彼女と最初のキスをした時以来である。

 あの時は自転車通学だったので、暁はしゃかりきに立ちぎして、夕日に向かってえまくりながら家に帰った。


 ――その半月はんつき後には、いきなり振られ、直後に彼女が別の男――軽音部の彼女の同級生――と付き合い始めたと聞いて、大層たいそう落ち込んでしまったのだが。


(いやいや、あの時の僕とはもう違うぞ!)


 彼は突然脳裡のうりよみがったネガティブな記憶をあたまを振って追い出し、ステアリングを握る手に力を込めた。

 すると、フロントガラスにぽつぽつと、水滴すいてき付着ふちゃくし始めた。


「あれー、雨かあ? さっきまで星が見えてたと思ったのにな……」


 仕方なく、彼はワイパーのレバーを二段階下げる。

 ブレードがゆっくりと動き始めるのに合わせて、雨粒あまつぶふさがれていた視界がクリアになっていく。

 突然の雨で少し頭が冷えたのか、暁は帰り道のルートについて思い出した。


「――おっとそうだ、国一こくいちに入らなきゃな」


 暁はしばらく進んだところで右折し、ほそ路地ろじに入った。

 そのままゆっくりと北上し、旧東海道を横断し、東海道本線の踏切を越えた。

 あと少しで国道一号線に入る交差点に――――というところで、前方の道のはしを歩いていた人影が突然、車道側にはみ出てきた!


「うわっっと!!!」


 思わず急ブレーキを踏む暁。


 ――赤信号が近く、減速していたことが幸いして、暁の車は人影の数メートル手前でかろうじて停車した。


「ふ~~……あっ!」


 大きく溜息ためいきいて前方を見ると、先ほどの人影が道路に倒れ込んでいるのが見えた。


(ぶ、ぶつかってないよな……?)


 ともかく、だ。

 彼は車を降りて、倒れている人物に駆け寄った。

 雨脚あまあしがだんだんと強くなりつつある。


「だ、大丈夫ですか!?」


 どうやら人影は一人ではなく、二人だったようだ。

 倒れ込んでいる人物を、もう一人のほうが助け起こしていた。


「怪我はありませんか?」


 暁は声を掛けながら、急いで手を貸す。

 そして、倒れた方が女性で、助け起こしている方が男性であることに気付いた。


 よく見ると――――


(――これは……外国の人か?)


 がみが、顔に張り付いている。

 暗くて今ひとつよく分からないが、二人とも茶色い髪色に見える。

 それだけなら日本人でも染めていれば珍しくはないのかも知れないが、顔立ちが明らかにモンゴロイドではない。


(カップル……いや、姉弟きょうだいなのかも)


「リ、リユナスオーナ……」


 ようやく立ち上がった女性の方が、うつむいたままつぶやく。


「え、リユナ……何?」


 すると、男性の方が、


「イ……だ、だいじょぶ。ありがと。ごめなさい」


 と言い、女性の肩を抱いた。

 そのまま雨の降る中をかさもささずに、東のほうへと歩き去って行ってしまった。


「……」


 何となく呆気あっけに取られて、暁はぼっ立ったまま二人を見送る。


(まあ……大丈夫って言ってたから、いいのかな……)


 自らも大分だいぶ雨に濡れてきていることに気付き、暁は急いで車に戻った。


 ――そして、何となく釈然しゃくぜんとしない思いをかかえながらも、真っ直ぐ家路いえじを急いだのだった。

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