第二章 第03話 疑惑

「やだーーーーっ!」


(……ん?)


 遠くで誰かが叫ぶような声を、彼女は聞いた気がした。

 ある店舗てんぽへ取材に出掛けたのだが、少々早く到着してしまった彼女は取材先に車を置かせてもらい、時間つぶしにその辺をぶらついていた時のことだった。

 付近には少し小さ目な公園と、地域の公会堂のような建物がある。

 住宅地ではあるが、今はあまり人通りがない。


「んんんんーーーーーっ!」


(確かに、聞こえた……!)


 再び彼女の耳にうっすらと届いたその声は、どうやら公会堂の裏の方から響いてきたようだった。

 彼女はバッグを肩にしっかりとかけ直すと、声のしたほうに急いだ。

 そして、そこで彼女が目にしたのは――――


    ※※※


「と、そんなわけだったんです」


 女性の言葉に、天方あまかたさくらは改めて背筋せすじ猛吹雪ブリザード見舞みまわれたかのごとく、こおらせた。


「そいつはうちが声を掛けた途端とたん、さっき言いましたように、え~と――理世りせちゃんをほうり投げて逃げ出したんです。全くえげつない男です!」

「本当に何てお礼を申し上げてよいやら……ありがとうございます」


 さくらは頭を下げて、何度目かの礼を女性に返す。


 ――彼女さくらが自宅からそれほど遠くないクリニックからの電話を受け、顔面蒼白そうはくになりながら急行した時には、すでに理世の治療は済んでいた。

 理世は左腕と左ひざに包帯を巻いた状態で、先ほどの女性と共に待合室で座っていたのだ。


「幸い、怪我のほうり傷くらいで済んだみたいですね」


 女性の言葉に、さくらは肺の中の空気をききるような安堵あんどの息をいた。

 とうの理世はと言うと、ぽけーっと黙ったまま座っている。


「それじゃ、うちは仕事がありますんで、これで失礼しますね~」


 くだんの女性は、手をひらひらと振りながら、病院の玄関を出て行こうとする。


「あ、ちょっとあの、このままお帰しするわけには……」

「いいんですって。たまたま通りかかっただけですし」

「それじゃせめて、お名前でも……」

「そんな」


 女性はさらりと、


「名乗るほどの者じゃないですから~」


 そう言って、そのまま出て行ってしまったのだった。


    ◇


「マジか……」


 さくらから連絡を受けて、会社を早退して帰ってきた天方あまかたりく絶句ぜっくした。

 クリニックにいた時は、呆然ぼうぜんとしていたのか何なのか、心ここにあらずと言った感じだった理世は、さくらと自宅についた途端とたん、大声で泣き出した。

 迎えに出てきたアルカサンドラとエルヴァリウスは、号泣ごうきゅうする理世に驚いて、二人して頭や背中をでたり、彼女りせの頭をきしめたりした。

 理世の泣き声はひときわ甲高かんだかくなったが、ひとしきり泣いて落ち着いたのか、彼女は当時の様子をぽつりぽつりと話し始めたのだった。


 ・理世りせが友達の家に遊びに行く途中、見知らぬ男に拉致らちされそうになったこと。

 ・娘の叫び声を聞いて、たまたま近くにいた女性が駆けつけてくれたこと。

 ・犯人の男は、理世を放り出して逃げ去ったこと。

 ・その女性が理世を近くのクリニックに運んでくれたこと。

 ・女性は名乗りもせず、その場を立ち去ってしまったこと。


「うーむ……」


 陸のうなり声に続いて声を上げる者はいなかった。

 テーブルをかこんだ五人の上に、重い沈黙が落ちる。

 壁掛け時計の針の音だけが、ダイニングに響き渡っている。


 時計が示すのは、午後四時四十五分。


 ――しばらくして、再び陸が口を開いた。


「理世、その男に見覚えはなかったんだな?」

「うん……知らない人」


 理世がホットココアをちびちびめながら答えた。

 見れば、娘のまぶたが重くなっているのが分かった。


(無理もない……)


 陸は小さく溜息ためいきくと、理世に言った。


「とりあえず、無事でよかったよ。大きな怪我けがにもならなかったようで――痛いだろうけど――本当に不幸中の幸いだった。父さんたちは少し話をするから、部屋で少し休むんだ」

「……一人ひとりじゃ、やだ」

「そうか……そうだよな。それなら――」


 と言う陸の目と、サンドラたちの視線が合った。

 サンドラとリウスは黙ってうなずいた。

 そして、立ち上がると理世の手を取った。


「りせ、わたし、いく、よ。いっしょ」

「りせ、いく、いこう……りせ、の、へや」

「うん……」


 理世は素直に答え、二人に連れられて二階へとのぼっていった。

 階段の少しきしむ音のあと、理世の部屋のドアが閉まる音がかすかに聞こえた。

 その音を確かめると、陸が言った。


「どう、思う?」

「どう……って?」

「うん……まあこのあと警察に連絡はするし、もしかしたら不審者情報とかもあるかも知れないんだけどさ」

「うん……」

「僕のさ」


 陸は一度言葉を切り、ゆっくりと続けた。


「僕の頭の中にさ、どうしても思い浮かんじゃう人がいるんだよ」

「それって――五味村ごみむらさんでしょ?」

「……ああ、そうだ。君も?」

「ええ……」


 さくらは視線を下げて言った。


「あんな風に謝罪してくれたし、念書にもちゃんと署名しょめい捺印なついんしてくれたから、疑いたくはないんだけどね……」

「そう、タイミングが如何いかにも、だ……ただ、理世は男だと言っていた」

「助けてくれた女性も、そう言ってたわ。どういうことかしらね」

「いや」


 陸は立ち上がった。


「まだ、五味村さんの仕業しわざだと決まったわけじゃない。それに、これは未遂みすいとは言え未成年者略取りゃくしゅ誘拐ゆうかいと言う立派な犯罪だ。とりあえず警察に相談しよう」

「そうね。じゃあ私はちょっと早いけれど、夕飯の支度したくに取り掛かるわ」

「頼んだよ」


    ◇


 その頃、理世りせの部屋にて。

 ベッドで布団にくるまれて、理世が小さな寝息を立てていた。

 その横では、アルカサンドラとエルヴァリウスが彼女の寝顔を見守っている。

 部屋に戻ってからも何度か泣いたのか、理世のまなじりからは涙のあとうっすらと線を引いていた。


可哀想にヴァーオ・アシナート……」


 サンドラはそうつぶやきながら、理世のほおをそっとでる。


うんヤァ……」


 言葉少なにうなずくリウス。


何とか、しなきゃねイーズデヴァストデラートピクヴィスル


 ――サンドラの言葉に、リウスはもう一度頷いた。

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