第二章 追う者追われる者

第二章 第01話 奇禍

 お盆休みに天方あまかた家に連れられて、富士五湖方面一泊旅行を経験したベーヴェルス母子おやこ

 ほぼ地下都市ヴームしか知らなかった二人にとって、それはあまりに鮮烈すぎる時間だった。

 天方聖斗せいとを失った家族にとっても久しぶりの至福の時であったが、帰宅直後に近所に住む五味村ごみむらの洗礼を受けてしまった。


 そして物語は、旅行から一月ひとつき弱ほどった九月中旬から、再び始まる。


    ◇


「お母さーん……」


 先ほど玄関を出て、学校へ送り出したはずの娘の声が聞こえる。


 忘れ物をしたのなら、いちいち自分を呼んだりせずに、さっさと取りに戻って再び出ていくのがいつもの理世りせである。

 この時点で、キッチンから手を拭き拭き出てきたさくらは、じわじわと嫌な予感がき上がってくるのを感じていた。


「どうしたの? 理世」

「また……あったよ」

「また?」

「うん」

「あったって……もしかして」

「うん――――犬のうんち」


 ふー、とため息をつくと、さくらは玄関のドアをけて外に出た。

 理世もあとからついてくる。


「そこ……」

「あらあら……」


 ポーチの先に二段ほどの階段があるのだが、その一段目の真ん中にそれ・・はあった。

 ブツ・・の詳細ははぶくとして、さくらにはそれが犬のものかどうか判別はつかない。

 しかしそれより何より、同じような事態が今回で四回目であることこそを、彼女は憂慮ゆうりょしていた。


「お母さんが始末しとくから、あなたは学校に行きなさい」

「うん、分かった」


 そう答えて、理世はとぼとぼと学校にを向ける。

 娘の背中を見送りながら、さくらはもう一度大きな溜息ためいきいた。

 掃除そうじ用具を取りに行こうと家の中に入ると、サンドラが心配そうな顔をして立っていた。


「さくら、なにか、ある?」

「うん、大丈夫よ」


 そう言いつつも、ちっとも大丈夫な顔をしていないだろうことは、さくら自身も分かっている。

 目の前に立つ、レッドブラウンの髪をした女性の名は、アルカサンドラ・ベーヴェルス――サンドラと呼ばれている。

 一月ひとつき半ほど前から、息子のエルヴァリウスと共に、ここ天方家に滞在している二人は――日本人ではない。

 さくらたちは知るよしもないが、エレディールという国に住んでいた人間である。


 当然話す言葉は違っているのだが、本人たちの努力と周囲の協力で、特に母親のほうは日本語を大分だいぶ正確に聞き取れるようになってきていた。

 さらに洞察どうさつにもけているのか、大丈夫と言うさくらの言葉を聞いても、彼女の紺碧こんぺき色の瞳からは気づかう色が消えないままだ。


「わたし、と、りうす……さくら、こまる、か?」

「違うわ」


 さくらはサンドラの左手を取ると、彼女の深い海のような双眸そうぼうを正面から見えて言った。


「あなたたちのせいじゃない。あなたたちは――何も心配しなくていいの」

「……わかった」


 何となく悲し気な声音こわねで答えるサンドラの手をつかんだまま、さくらははげますようにぶんぶんと振った。

 そして――あの楽しかった一泊旅行の翌日に起こった、ある出来事を思い出していた。


    ※※※


「みず、やる」


 一泊旅行から一夜いちや明け、時は午前七時半。


 朝食は先ほどみなで済ませたが、そこに彼女の夫である天方あまかたりくの姿はなかった。

 彼が昨晩、とこいた時刻は決して遅くはなかった。

 それでも、二日間遊び倒しつつも、長時間の運転をしていたことで疲れがまっていたらしい。

 娘の理世りせが朝食だと呼びに行ったところ、父親はまだ夢の中だったようだ。


 ――そんなわけで四人で朝食をとった後、食器の片づけを始めたサンドラを見て、エルヴァリウス――リウスは、昨日までの旅行の疲れを微塵みじんも感じさせない、さわやかな笑顔でそう言った。


「いいわよ、お願いね」


 朝の水り当番は、すっかり彼の仕事になっている。

 さくらはいつものように、気軽に応じた。


「あたしも一緒にやる! 行こう、リウス!」


 理世がそう言いながらリウスの手を取り、二人でリビングから直接庭に出ていった。


 ――――――

 ――――

 ――そうして、さくらがサンドラと台所の洗い物を終え、ひと息つこうとした時だった。


「お母さーん! お母さーん!」

「――――! ――!」


 理世が必死にさくらを呼ぶ声が聞こえてきた。

 別の誰かの、何かわめいているような大声と一緒に。

 さくらとサンドラは顔を見合わせ、声の元に急ぐ。


「お母さん!」


 そして、庭に出たさくらたちの目にうつったのは――彼女に向かって泣き出しそうな顔で走り寄る理世と、何かを手に持って頭の上にかかげているリウス――そして、フェンス越しに彼につかみかからん勢いで奇声を上げる五味村ごみむらの姿だった。


「これは……一体どういうことなの?」


 状況が全くつかめないまま、さくらはつぶやいた。


「お母さん、あのね、五味村さんがね、スマホで――」

「ちょっと、天方あまかたさん!」


 さくらがやってきたのを見つけた五味村が、矛先ほこさきを彼女に向ける。

 すごい形相ぎょうそうである。


「この男を何とかしなさいよ! 私のスマホを!」


 見ると、リウスが右手ににぎっているのは、四角くてピンク色の何か。

 彼が自分のスマホを持っているわけもないし、五味村の言葉から考えればそれは目の前でキーキー言っている女性のものなのだろう。

 そうだとして、何故なぜそれをリウスが?


「あ、あの、五味村さん、何がどうしたんですか?」

「この男が、私のスマホをったのよ!」

「ええ!?」

「ちょ、返しなさいよ! この!」


 五味村が飛び上がってスマホを取ろうとするのを、リウスはひょいとけて、無言でそのスマホを後ろにいるさくらに差し出した。

 さくらは反射的にそれを受け取る。


「返しなさいよ! 天方さん!」

「えーっと、リウス?」

「……」


 エルヴァリウスは、悲しそうな瞳でさくらを見つめている。


「リウス、これは五味村さんのものなの?」

「そう言ってるでしょ! 早く返しなさい! 泥棒どろぼう!」


 黙ってうなずくリウス。


(落ち着かなきゃ)


 どうやらこれ・・は五味村の持ち物で間違いないらしい。

 そして、リウスがそれを彼女から取り上げたようなのだが……何故なぜこの子がそんなことを?


「お母さん、あのね、あたしたちがお花に水をあげてたら、あのおばさんが来たの。そしたらね、おばさんがリウスをスマホでろうとしたの。それでリウスがスマホをぱっと取り上げたの……」

「いいから早く返しなさいよ! 返せ!」


(そうか……)


 サンドラやリウスは、スマホで写真や動画を撮影できることは知ってる。

 昨日までの旅行中に、リウスたちを見て何人かの人たちが「撮らせてくださーい」と申し出てきたが、二人の身の安全のために丁重ていちょうに断ってきたことも。


「理世」

「……ん?」

「もうこれ、られちゃってるの?」

「ちょっと、何しゃべってんのよ!」


 そうわめいて、五味村がフェンスを回り込んで近付いてきた。


「んーと、まだだと思う。あのおばさんがスマホをこっちに向けたらすぐに、リウスが取っちゃったから」

「そう……」

「返せ!」


 さくらがほっとため息をついた瞬間、彼女の手から五味村がスマホをひったくる。


「五味村さん」

「何!」

「今、娘が言ったことは本当なんですか?」

「何がよ!」

「あなたが、リウスをスマホで撮影しようとしたことです」

「あぁ!?」


 五味村がさくらをにらみつける。


「そんなわけないでしょ!? その男が勝手に勘違いしただけよ!」

「そうですか……娘たちが失礼しました」

「お母さん!」


 そう言って深々と頭を下げるさくらを見て、理世が絶望にまみれた表情で声を上げた。

 さくらは娘を目で制して、鼻息を荒くしている五味村に向き直る。

 リウスも目を見開いている。


「勘違いでしたら申し訳ありません。ですが、今後も無断で撮影するようなことはどうかご遠慮ください」

「してないって言ってるでしょ!?」

「分かっております。では、そろそろ……近所の方の目もありますし」


 さくらがちらと視線を横に向ける。

 隣りや向かいの家の窓から、いくつか顔がのぞいているのが見えた。

 それに気付いた五味村は小さく舌打ちをして、


「ふんっ、いい? あんたたち、覚えてなさいよ!?」


 と、捨て台詞を残して歩き去って行った。


「さ、中にはいりましょ、二人とも」


 さくらは、何とも言えない表情をしているさくらとリウスの背中を、ぽんぽんと軽く叩いてうながした。


 ――リビングでは不安そうな表情のサンドラが三人を出迎える。


「お母さん! どうして!?」


 外へ続くガラス戸が閉まるやいなや、理世が母親にみついた。


「どうしてお母さんがあやまるの!? ……そりゃ、スマホを取り上げたのはアレだったかも知れないけど――」

「分かってるわよ、理世。あなたもリウスも何にも悪くないわ」


 さくらはなだめるように娘に言った。


「リウスは、前に私たちが言ったことをちゃんと覚えててくれたのよね」


 旅行に行く前から、近所の住人から一緒に写真を撮って欲しいと言われることがあったのだが、さくらは色々と理由をつけてやんわりとことわっていた。

 それはもちろん、諸々もろもろの危険性を考えた上でのことであり、その理由についてはつたないながらもサンドラたちには伝えてあったのだ。


ネディネイパ心配しないで、リウス――――」


 サンドラが何事かをリウスに伝えている。

 恐らく、ガラス越しにも声は聞こえていただろうから、ある程度の状況をつかんでいるのだろう。

 硬い表情だったリウスが、ほっとしたようにため息をついた。


「でも……やっぱりお母さんが謝るなんて変!」

「あのね、理世」


 どうにも納得のいかない顔の理世に、さくらが優しく言葉をかける。


「もしもね、やかんのお湯が沸騰ふっとうして、ピーーーッって鳴ってたらどうする?」

「……やかん?」


 さくらは例え話をしようとして、天方あまかた家では久しくやかんを使ってお湯をかしていないことを思い出した。

 少なくとも理世の物心がついた頃からは、ほとんど電気ケトルなのだ。


「あーっとっと……それじゃね、もしおなべのお湯が、ぐつぐついてあふれそうだったらどうする?」

「お鍋のお湯?」


 やかんやら鍋のお湯やらと、母親が何を突然言い始めたのか理解できない理世は、怪訝けげんそうに首をかしげる。


「んー……火を止める、かな」

「そう!」


 娘がよく分からないなりにひねりだした答えが上手く図に当たって、さくらは嬉しそうに声を上げた。


「だからね、お母さんはさっき、まずは火を止めたのよ」

「……?」


(ちょっと分かりにくかったかしら)


「五味村さんのお湯が沸騰ふっとうしてたからね、先に火を消してあふれないようにしたってことなの」

「……お母さんが謝って、あのおばさんの火を消したってこと?」

「まあ、そういうこと」

「ふーん……」


 今ひとつ納得のいかない顔の理世。


(と言っても、火を消しただけなんだけどね……)


 そして、二階から夫が降りてくる足音が聞こえてきた――――。


    ※※※


(で、結局また火がついて、延焼えんしょうしちゃってるわけか……)


 回想するだけでしくしくと胃が痛くなる。


 ――さくらは心の中で嘆息たんそくした。

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