第一章 第40話 ホットな話

 かがみ志桜里しおり朝霧あさぎりあきらは、暁が仕事で週に二日ほど通う銀条ぎんじょう会において、志桜里が偶然ボランティアで参加するという形で出会った。


 志桜里を見るやいなや、全身をかみなりに打たれたような衝撃に襲われた暁。

 混乱した暁に唐突な握手を求められ、戸惑とまどいながらも応じた志桜里。


 そして――互いが同じ境遇きょうぐうにあることを確かめた二人の距離は、出会って間もないのにも関わらず、確実にちぢまっていた。


    ◇


 ――八月も下旬げじゅんに差し掛かろうと言う頃。


 N駅南口から徒歩数分のところにあるマンションの一室に、かがみ家はあった。


「何着てこうかな……」


 鏡志桜里しおりは、出掛ける準備をしていた。

 今日は、週に二日ある「こども茶寮~するが~」に行く日である。

 お気に入りの服をいくつか引っ張り出してきて、先ほどから鏡の前でとっかえひっかえしているのだ。


「やっぱりこれにしよ。夏っぽくていいよね」


 志桜里が選んだのは、あわい水色のヘムスカートとシンプルな白のブラウスだった。


 壁の時計は、午後二時半を指している。

 そろそろ出かけなければならない。


 大学は夏休み中なので、荷物はそう多くない。

 彼女はラフィア製の小さ目なトートバッグを肩にかけ、玄関を出る。


「いってきまーす」


 一応声を掛けるが、当然のことながら返事はない。


 ――父親の龍之介りゅうのすけくだんの消失事件で行方不明であり、母親の千歳ちとせは家政婦として働きに出ているからだ。


 ……エレベータを使い、一階に下りる。


 カードを通してオートロックのエントランスから出ると、夏の熱気とせみの声が一気に彼女の身体をおおい包んだ。


「暑いな……」


 駐輪場を横目に見て何となく自分のスクーターの存在を確かめながら、ひとつぶやく。

 この暑さの中を、ヘルメットをかぶって移動する気にはなれない志桜里。

 今のところこの愛車にまたがる機会は、これまた週二回の、家庭教師のアルバイトに出掛ける時くらいしかない状態なのだ。


 ――ひなたに出ると、アスファルトの照り返しが加わる。


 彼女の前を、日傘をさした男性が横切った。


(日傘もいいんだけど、あんまり荷物を増やしたくないんだよね……)


 そう言えば最近は男の人も日傘をさすんだなあ――などと考えているうちに、N駅南口に到着する。

 定期をかざし、改札を抜け、いつもの東海道線下りホームへ移動する。

 列車が到着するまで、あと五分ほど。

 志桜里はぼんやりと立って、向かいに見える上りホームをながめた。


 ……彼女の視界に、立ち食いそば屋が入る。


(大学に行く時、よく食べてる人を見かけるけど……どんな味がするんだろ)


 志桜里は生まれてこのかた、立ち食い系の店というものを利用したことがない。

 祭りの屋台くらいはもちろんある。

 しかしあれは、立ち食いと言うより歩き食べだろう。

 立ちみ屋というものがあることも知ってるが、


(立ったまま飲み食いするのって、疲れないのかな……)


 と、いつも思っている。


 ――構内アナウンスと共に、下り列車がホームにすべり込んできた。


 扉がひらく。

 車内のひんやりとした空気に向かって飛び込むように、志桜里は列車に乗った。


 目的地は、すぐ次の駅である――K駅だ。


    ☆


「お母さん、今日のメニューは何だっけ?」


 帰宅したばかりの白銀しろがねひとみが、エプロンを着けながら母親に聞く。


「今日は――メインがポークチャップで、付け合わせにスパゲッティとブロッコリー、あとはご飯と御御御付おみおつけね」

「お味噌汁の具は?」

白菜はくさいとえのきよ」


 母親である白銀紫乃しのの答えを聞いて、瞳の顔が輝く。

 瞳はキノコ類の中で、えのきが一番好きなのだ。


「やった! じゃあ私、今日はお味噌汁作るよ!」

「そう? じゃ、頼むわね」


 ――ここは宗教法人である銀条ぎんじょう会静岡東部支部。


 今日は例によって、「こども茶寮さりょう~するが~」の日だ。


「こんにちはー」

「あ、来た」


 玄関の呼びりんと共に、元気な声が響いてくる。

 瞳はスリッパをぱたぱたさせながら迎えに出た。


「お母さん、紅緒べにおが来たよ」

「こんにちはー、おばさん」

「あらいらっしゃい。ありがとうね、紅緒ちゃん」


 少しサイドに寄せたくるりんぱ・・・・・ポニーテールをらしながら現れたのは、ひとりの少女――深谷みたに紅緒べにお

 同じ中学に通う瞳の同級生であり、瞳とは中二になっても幼稚園以来の親友関係が続いている。


「今日はボランティアの吉岡よしおかさんが来られないから、ホント助かるわ」

「はい、頑張りまーす」


 屈託くったくのない笑顔でこたえる紅緒。

 彼女はこうして、非常勤ではあるが時々「こども茶寮さりょう~するが~」の手伝いをしている。


「ねえねえ瞳」

「ん? 何?」


 持参したエプロンを身に付けながら、紅緒が瞳に話しかける。


「さっきさ、駅前の道路のとこで明智あけち先輩に会ったよ」

「え? うそ、マジで?」

「うん」

「一人で?」

「いーや?」


 邪悪な笑みを浮かべる紅緒。


「女の人と一緒だった」

「え……」

「何か……綺麗きれいな人だったなあ」

「……」

「つやっつやのロングでさ、眼鏡かけてて」

「……ん?」

「おっきい茶色のバレッタつけててさ」

「……それ、明智先輩のお姉さんじゃなくて?」

ったりー!」

「まったくもう……びっくりさせないでよ……」

「へへへー、相変わらず瞳は明智先輩大好きっ子だよね」

「ちょっと!」


 紅緒の腕をぐいとつかんで、瞳が小声でクレームをつける。


「お母さんたちがいるんだから、変なこと大声で言わないで!」

「あれ? まだナイショなんだっけ? めんごめんご」


 紅緒は全く悪びれた様子もない。

 ぺろりと舌を出す。


「今さー、ただでさえそっち・・・方面の話がホットなんだからさ」

「え? どゆこと?」

「あのね」


 瞳はちらりと横を見る。

 紫乃とボランティアの沢渡さわたりは、忙しそうに料理の下ごしらえをしている。

 が、その耳だけはしっかりこっちを向いてることに、瞳は気付いていた。


だまされないんだから)


「えっと、あとで教えてあげるからさ、とりあえず準備しようよ」

「え、うん、分かった」


 紫乃たちの肩があからさまにがっくり下がる。

 彼女たちは、当然瞳がしようとしていた話が何なのか分かっているが、最近娘が自分たちの前であまり恋バナをしなくなったのが少し悲しいのだ。

 紫乃は娘ときゃいきゃいしたいのである。


 しかし、瞳としては他人ひとの話で盛り上がるぶんにはよくても、自分にまで火のが飛んでくるのは避けたいというのが本音だ。

 その為には、話題を変えるのが一番。


「お母さん、今日って何人くらい来るの?」

「そうねえ、三十人弱ってとこだったかしら」

「ふーん分かった。それじゃあお味噌汁のほう、まかせて」

「はいはい、頼んだわよ」


 ピンポーン。


「あっ、来た」

「朝霧さん?」

「んーとね、この時間だと――そうか、紅緒ちゃんはまだ会ったことなかったわね。かがみさんって言うかたなのよ」


 紅緒の問いに紫乃が答える。


「へっへー」

「ちょっと瞳、あんまりあからさまに失礼な話をするんじゃないわよ?」

「分かってるって、お母さん。じゃ、お迎えしてくるね」


 そう言うと、瞳はぱたぱたと玄関に向かって走って行った。

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