第一章 第33話 凧

 朝霧あさぎりあきらと、かがみ志桜里しおりは出会った。


 銀条ぎんじょう会で週に二回開催されている、「こども茶寮さりょう~するが~」で。


 二人はお互いのことを、まだ何も知らない。


    ◇


「さーて、今日もバリバリ片付けちゃいますか!」


 あきら自席じせきに座ると、右肩をぐるぐると回しながら、やけに気合いの入った台詞せりふを誰ともなしにいた。

 そのままPCに向かうと、猛烈もうれつな勢いでキーをたたき始める。


「何あれ……どうしちゃったの?」


 暁の正面の席の桜森さくらもり望奈もなが、となりのみなみまどかに耳打ちする。


 彼女たちは二人とも、ここ(株)銀河不動産N支社の事務職だ。


 事務仕事以外に、ここで発行しているフリーペーパー「シルバーレイン」の編集にもたずさわり、ごくまれに訪れる個人客の対応――客け業務も担当している。


 ちなみにだが、事務職二人とも暁より年上である。

 暁はこの会社では最年少であり、つまるところもっとしたなのだ。


 さらに明かしてしまうのなら……桜森は三十六歳で既婚者、南は二十九歳の未婚者である。


望奈もなさん知りませんでした? 朝霧さん、先週からあんな感じなんですよ」

「そうだっけ? 気が付かなかったけど……」

「バリバリやるぞーみたいなこと口に出して言うのは、今日が初めてかもです」

「夏休みが近いから、とか?」

「さあ……」


 当の暁に、二人の声は届いていないようだ。

 支社長の九曜くよう崇史たかふみは、素知らぬ顔でコーヒーをすすっている。


 ――今、社内にはこの四人しかいない。


 銀月ぎんげつ真夜まよはフリーペーパーの取材、あとの二人は外回りに出掛けているのだ。


 静かな室内で、暁の鳴らす打鍵だけん音だけがかちゃかちゃと騒々そうぞうしく響く。


    ☆


「さてと、それじゃあ『するが』に行ってきます!」

「はーい」

「いってらっしゃーい」


 あきらは身支度を整えると、給湯きゅうとう室に入っていった。

 その奥に、勝手口と倉庫があるのだ。


 ……ごそごそと何かを支度したくする音が聞こえてくる。


「やけに張り切ってるわね……」

白銀しろがねさんとこで何かいいことでもあるんですかね……支社長何か知ってます?」

「ん? いやあ、特に聞いてないけどね」

「そうですかあ……銀月ぎんげつさんが戻ってきたら、聞いてみますかね」

「あの人は取材先から直接銀条会に行って、直帰ちょっきよ」


 ――今日は、今週二回目の「こども茶寮さりょう~するが~」が開かれる日だ。


 暁は例によって鼻歌混じりで、食材やら何やらがまった段ボール箱を車のトランクに積み込む。


「えーと、忘れ物はないかな……と」


 浮かれてはいても、一応仕事と認識しているらしい。


 箱の中身と、今日の「するが」の献立こんだてを頭の中で突き合わせて、れのないことを確認する。


 ――ちなみに、今日の夕飯メニューは牛丼と味噌汁に、食べざかりの子たちのために山盛りのとり唐揚げの予定。


 色味いろみ的には茶色いものばかりだが、鶏好きの暁にとっては最高のメニューだ。


 最低でも八個は食べよう――と彼は決心する。


「よし! じゃあ出発う!」


    ☆


「こんにちはーピンポーン!」


 呼びりんを鳴らしながら、自分の口でもピンポーンと言う。


 ……有り得ないほどの浮かれっぷりに、


「くすくす――どうぞー、朝霧さん」


 応対に出た白銀しろがねひとみも苦笑を禁じ得ない。


 もちろん彼女には、暁がこれほどウキウキしている原因などお見通しなのだが、彼自身はいつも通りのつもりでいるのだ。


 女子中学生に笑われているなどとは、夢にも思っていない。


 いつものように玄関から入り、暁と瞳が荷物を奥に運ぼうとしていたところに、厨房ちゅうぼうから一人の人物が出てきた。


 かがみ志桜里しおりである。


「あ、朝霧さん、こんにちは」

「あっ、かかっ、鏡さん! こんにちは!」

「お荷物、いつもご苦労様です」

「いえいえこれしき。あ、瞳ちゃん、僕が運んどくからまかせてよ!」

「はいはい、じゃあお願いしますね」


 瞳は暁の言葉を聞くと、特濃とくのうはちみつにガムシロップを混ぜて一気飲みしたような顔をしながら、広間へと消えていった。


 厨房ちゅうぼうでは、段ボール箱を運びながらきゃいきゃいと入って来る暁と志桜里を見て、白銀紫乃しのたちが目と口を三日月のようにしながら、


「あらあらあら、まあまあまあ!」

「こんにちはー、朝霧さん」

「こんにちはー」


 と、出迎えた。


 ボランティアの吉岡よしおか沢渡さわたりは、今日も来ているようだ。


「こんにちはー、これ今日の食材やら何やらです」


 暁は、大き目の段ボール箱二つをテーブルの上にどすりと置いた。


「いつも助かるわー、ありがとうね、朝霧さん」

「いやあ、今日は鶏の唐揚げもありますからね。自分、いつも以上に気合いが入っとります!」


 びし、と暁が敬礼の真似をする。


(このノリ……相当浮かれポンチになってるわね……)


 紫乃が内心で苦笑する。


 彼女はこの普段は割と生真面目きまじめな青年が、すっかり志桜里に逆上のぼせあがっているのが面白くてたまらないらしい。


 紫乃に決して悪意はなく、むしろ温かく見守りたいとは思っているのだが、このままあおってどこまで吹き上がるものか、好奇心がどうにもおさえきれないのだ。


「さっ、何を手伝いましょうか? 何でも言ってください!」

「そうねえ……牛丼の方は先にお肉が届いてたから、もう仕込み済みなのよね……」

「唐揚げ用の粉とか卵の準備も、もう出来ました」


 紫乃の独り言に、志桜里が元気よく答えた。


「お味噌汁は、私たちの方で作るから大丈夫よー」


 吉岡と沢渡も声を掛ける。


「それじゃあ、朝霧さんと鏡さんは、広間の方で子どもたちの相手をしてやってもらえるかしら?」


 廊下の向こうにある広間の方から、元気な声が響いてくる。


「今日はちょっと人数が多いみたいだから、うちの瞳だけじゃきつそ――」

「かしこまりであります!」


 またしてもずびしと敬礼しながら、食い気味に答える暁。

 横で志桜里がくすくす笑っている。


(大丈夫かしら、この子……また鏡さんの方もまんざらでもなさそうってのがね……)


 紫乃の向こうで、吉岡と沢渡が肩を震わせているのに、暁は気付かない。

 もちろん彼女たちは悲しいわけではなく、笑いをこらえているのだが。


「では我々は広間に行ってまいります」

「行ってきます」


 暁と志桜里は肩を並べて廊下を歩いていく。

 そんな二人の背中を、紫乃は微笑みながら見送る。

 そして、同じくにやにやしている吉岡と沢渡に声を掛けた。


「さあ、私たちは唐揚げを作っちゃいましょう。二人とも、お願いしますね」

「はーい」

「はーい」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る