第一章 第28話 鏡志桜里

 (株)銀河ぎんが不動産N支社で働く朝霧あさぎりあきらはその日、食材の寄付と手伝いの為に、銀条ぎんじょう会静岡東部支部へ出掛けていた。


 いつものように食材やお菓子などを満載まんさいした段ボール箱を持ち、静岡東部支部長の娘である白銀しろがねひとみの案内で、中に入る。


 そして、厨房ちゅうぼうではボランティアとして新しく加わったという女性を、支部長の妻である白銀紫乃しのから紹介された。


    ◇


「すみません、こんな変な顔で」


 赤い顔と目ではにかみながら「かがみ志桜里しおりです」と名乗った女性は、にこりと微笑ほほえんだ。


「……」

「……」

「……」

「あの……」

「…………はっ!」


 志桜里が少し困ったように首をかしげるのに気付いて、暁はようやく我に返った。

 慌てて挨拶あいさつを返す。


「あっ、あの、すいません! あっ、朝霧あさぎりあっ、あきらです! よろしくお願いします!」


 そして直立ちょくりつ不動の体勢からばきんと腰を折り、何を思ったか志桜里に向かってしゅばっと右手を差し出した。


 志桜里は若干じゃっかん戸惑いながら、かたわらの紫乃しのすがるように見る。

 彼女がにこりとうなずくと、志桜里は恐る恐る右手を出して、暁の手をつかんだ。


(何やってんだあ、僕は!?)


 志桜里のてのひらの感触が脳に届いた瞬間、暁は正気に戻った。

 そして、自分が作り出したこの光景に、この場で一番混乱していた。


「あらあらあら、まあまあまあ!」


 二人の様子を見て、紫乃が目を輝かせる。


「あ、あの……手、もういいですか?」

「……はっ!!」


 たっぷり十秒は握り続けたあと、暁は大慌おおあわてで手を引き、頭を下げた。


「すっ、すいません!」

「いえ……」

「ぼっ、僕、いつもみたいに広間に行きます! みんなの様子見てます!」

「あらそう? それじゃお願いしようかしら」

「……」


 そう言うと暁は、玄関を入って左の大広間に走って行った。


 あとには、にやにやと笑みを浮かべる紫乃と、自分の手をじっとみたまま立ちすくんでいる志桜里が残された。


    ☆


 夕食前の大広間には、大勢の子どもと大人が集まり、それぞれ好きなことをして過ごしている。


 座卓ざたくで学校の宿題をやっている子もいれば、たたみに寝転がってマンガを読みふけっている子もいる。


 小学校低学年とおぼしき子たちは、幼稚園児と輪を作って何やら絵を描いている。


 部屋のすみで、携帯ゲーム機の画面に没頭ぼっとうしている中学生らしき子もいる。


 彼のまわりには、数人の子が集まってあれやこれやと言っている。


 ――大人たちも、勉強を教えたり一緒に遊んだりして、和気あいあいとした空気を作り出している。


 銀条会ここの娘の白銀しろがねひとみも、ここで小学生の勉強を見てやっているようだ。


 そんな中、あきら座卓ざたくのひとつの座布団ざぶとんにどっかりと腰をろし、ひじをついて頭をかかえた。


(一体マジで何やってんだ? 僕は……)


 先ほどの状況を思い出し、もしここが自室のベッドの上だったら、まくらを抱え込んで右へ左へもだころげていたほどの羞恥しゅうち心にさいなまれていた。


(いくら自己紹介とは言え、しょ、初対面の女の子に、あんな……いきなり握手を求めるなんて……)


 彼のキャラではない。

 自分が一番、よく分かっている。

 だから、自分の咄嗟とっさの行動が自分で信じられないのだ。


「ねーねー、朝霧あさぎりー、遊ぼーよー」

「違う。朝霧はあたしの勉強を見るの」


 暁の両側から、女子小学生二人がそでを引っ張ってきた。

 後ろからは、別の幼稚園児が背中にがばっと抱きついてくる。


(何か知らんけど、子どもには割とモテるのになあ……)


 とりあえずさっきのことは一旦いったんたなに上げ、まとわりつく子どもたちの世話を始める暁だった。


    ☆


朝霧あさぎりさん、面白いでしょう?」

「え、え?」


 紫乃しのが慣れた手つきでハンバーグのタネの空気抜きをしながら、となりでじゃがいもの皮をピーラーで志桜里しおりに話しかけた。


「あの人ね、不動産屋さんなのよ」

「不動産屋さんですか……。私と同じようにボランティアで来てるかたなんでしょうか?」

「んーん、朝霧さんは会社の仕事として来てるの」

「え……不動産屋さんの、仕事でですか?」

「そうねえ、まあ普通はそこ、つながらないわよねー」


 くすりと笑う紫乃。


 しゃべっている間も手は動き続け、テーブルの上には何十ものハンバーグの形をした肉のかたまりが並んでいる。


「紫乃さーん、カレーの準備、出来ましたよー」

「はーい。ありがとう、吉岡よしおかさん」

「じゃがいも、出来たらこっちに頂戴ちょうだいね、えーと……かがみさん?」

「は、はい……えと、沢渡さわたりさん……?」


 初日でも、他のボランティアの女性たちとの連携れんけいも問題なく出来ている。


「あそこの不動産屋さんはね、銀条会うちの活動にものすごく協力してくれてるのよ。もうずーっと昔から」


「へえ、そうなんですね」


「毎月の寄付もそうだし、今日みたいに食材とかをたくさん持って来てくれるし……こども茶寮さりょうがやっていけてるのも、あそこのおかげと言っても過言かごんじゃないわね」


「なるほど……」


 志桜里としては、何故なぜ不動産業者が寄付をしてくれているのか、その辺こそを知りたいと思った。

 しかし、紫乃はこの件に関してはそれ以上の説明をする気はないらしい。


「それはそうと、どう? 朝霧さん」

「え……? どう、とは?」

「ちょっとなよっとした感じだけど、性根しょうねのいい子なのよねー」

「はあ……」

「鏡さんは、今お付き合いしている人とかいるのかしら?」


 志桜里はしまった、と思った。

 こういう話でぐいぐい攻めてくる人だとは……。


「いえ、そういう人はいません」

「あら、そうなの」

「はい」


 志桜里は何となくうつむいた。

 実際、彼女は男性と交際した経験がまだない。

 十九歳という年齢を、特に意識もしていない。


 別にそういうことを忌避きひしてきたわけではないし、普通の中高生のように素敵な男性と二人でというシチュエーションにあこがれてもいた。


 だから、まだ付き合ったことがないというのは単にタイミングとめぐり合わせの問題に過ぎなかった。


(朝霧、さん……)


 志桜里は、先ほど暁ににぎられた右手を見た。


 握手あくしゅと言えども、男性の手を握ったのはほとんど初めての事だった。

 父親である龍之介りゅうのすけと手をつないでいたのも、小学校の低学年の頃まで。


 あの時――暁に手を握られた瞬間、確かに心拍数が少しだけ上がった気がする。


 それが突然右手を差し出されて驚いたためなのか、他の理由のせいなのか、今の志桜里には分からなかった。


「鏡さん、じゃがいも終わった?」

「……あっ、はい。き終わりました」


 ――とりあえず仕事に集中しなくちゃ。


 志桜里もまた、よく分からない何かは、一旦いったんたな上げすることに決めたのだった。


    ☆


「お疲れさまでしたー」

「お疲れ様ー」

「皆さん、ありがとうございましたー。またよろしくお願いしますねー」

「はーい」


 食事が終わり、子どもたちは親に連れられて既に帰った。


 後片付けも終わって、紫乃しのがボランティアの皆を送りに庭に出てきていた。

 時刻はもう、午後九時を回っている。


 結局姿を見せずじまいの銀月ぎんげつ真夜まよは、取材先でトラブったとかで、行けなくてすみませんと連絡があったらしい。


 あきらも帰ろうと、車のキーを取り出しながら歩いていた時、近くに立っていた志桜里しおりと行き合った。


「お疲れさまでした、かがみさん」

「あ、お疲れさまでした、朝霧あさぎりさん」

「ボランティア初日、どうでした?」

「いろいろ覚えることがあって、新鮮でした」


 初対面の時こそ緊張していた暁だが、何度か言葉を交わしたことで、多少は自然に話しかけられるようになっていた。


「鏡さんは、どうやって自宅へ帰るんですか?」

「ボランティアの日は、母が迎えに来てくれることになってるんです」

「そうでしたか。じゃ、僕はこれで失礼します」

「はい、お疲れさまでした」


 暁は車に乗り込んだ。

 ファン、と軽くクラクションを鳴らして発車させる。


 志桜里は何となく、遠ざかるテールランプをぼんやりと見送っていた。


    ☆


 暁と志桜里ふたりは、まだ知らない。

 自分たちが、父親を事件で失っているという同じ境遇きょうぐうにあることを。


 そして――父親たちの関係性も。

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