第一章 第29話 さくらの憂い

 ――エレディールの西ルウェス、かつて西方の要ヴェゼルウェスと呼ばれていた地。


 現在は禁足地テーロス・プロビラスとされているその下には、遥か昔から地下都市ヴームが広がっていた。

 そして、いにしえより多くの人間フマノスがそこにはまっていた。


 ――そんな人間たちの中に、アルカサンドラ・ベーヴェルスと言う女性フェムと、その息子ファロスであるエルヴァリウス・ベーヴェルスという母子おやこがいた。


 アルカサンドラのヴィクソルに当たる人物がいない理由は、不明。


 ――彼らはある日、異様な感覚に襲われる。


 周囲を調査確認し、自分たちの部屋ロマ以外の居住区レゾナリアがいつの間にか土中どちゅうに埋もれていることに気付く。


 そのままそこにとどまることに危機感を覚えた二人は、ろくに道具もない中で、自らの腕手うでて魔法ギームを駆使して脱出を試みた。


 しかし、れども掘れども地上に辿たどり着かず、節約しながら消費していた水も食料も尽き、精神こころも折れかけていた。


 疲れ切って廊下部分アルワーグで死んだように眠る母親マードレを横目に、エルヴァリウスは最後の力を振りしぼり、とうとう草の根のえる場所まで到達し、地上に続くヴェント穿うがつことが出来た。


 彼はのぼってきた穴をくだり、母親をかかえながら再びのぼるという過酷かこくきわまる仕事を成しげ、母親を草原メーデの上へと押しげることに成功した。


 そして、いざ自分の番と言う時に穴のふちが崩れ、あわや奈落へ落ちようとしていた彼の腕をつかみ、地上に引っ張り上げたのが、天方あまかたさくらであった。


 彼女は娘である天方理世りせと共にベーヴェルス母子を自宅へ連れ帰り、身体をき、腹に優しい食事をほどこし、あたたかい寝床を与えた。


 仕事から帰宅した、さくらの夫である天方りくは、彼女から事情を聞き混乱するが、とりあえず母子おやこが回復するまでは面倒を見ることを承諾しょうだくした。


 ――物語の続きは、長男である聖斗せいとを欠いた天方家の三人と、言葉も通じぬ異国の人間モルヴィスであるベーヴェルス母子おやこ二人が、出会って十日ほどった頃から始まる。


    ◇


「え? 何? リウス」

「にわ、みず」


 エルヴァリウス――リウスが、リビングの先を指さしてさくらに言った。

 これは「庭の植物に水りをしたい」という彼の意思表示である。


 ちなみに今は、午前九時少し前。


「うーん、あんまり外で人目にさらしたくないんだけどなあ……じゃあ十分じっぷんだけね」


 と言い、さくらは両手を開いてリウスに向けた。


 すると、彼は嬉しそうににっこりと笑い、リビングの南面のガラス戸をけて庭に飛び出していった。


「まあ一応、ご近所さんには軽く説明してあるし……今さらかな」


 天方家は、東側と南側の道路に面する形で建っている。

 角地かどちというわけだ。


 この家を建てる時、陸とさくらは玄関を東にするか南に置くかで少しめた。


 ……結局、南側には陽光が燦々さんさんと降り注ぐ庭を作ることが決まったので、自動的に玄関は東側になったのだが。


「リウスもそうだけどサンドラまで、やけに水をりたがるのよね……」


 二人がずっとの当たらぬ地下都市ヴームで暮らしていたことなど知るよしもないさくらが、外に出たがる気持ちに今ひとつピンと来なくてもそれは無理からぬことだった。


 そのアルカサンドラ――サンドラと言えば、キッチンで理世りせと洗い物をしている。


 リビングに移動したさくらからは見えないが、理世がきゃいきゃいとはしゃぐ声はさっきからひっきりなしに響いてくる。


 すっかりこの母子おやこなついている理世の姿を見て、よかった、とさくらは思う。

 あの時、二人を保護しておいて。


 ――聖斗せいとが行方不明になって以来、天方家から笑顔というものが失われていたのだ。


 もちろん、愛息子まなむすこを心配する気持ちは変わっていないし、胸の痛みも悲しみも全くえてはいない。


 それでも、ひょんな偶然からではあるが、二人の異邦人が娘に笑顔をもたらしてくれていることに、さくらは感謝していた。


 ――一方いっぽうで、サンドラたちに優しく接している陸が何やら懸念けねんいだいていることは承知しているし、当たり前のことだと彼女も考えている。


 何しろ、二人の素性すじょうについては全く、何一つ分かっていないのだ。


 陸とさくらは、母子おやこの体調がある程度戻った時に事情を聞こうとはしたのだが……しかしそれは、断念せざるを得なかった。


 と言うのも、サンドラは恐らくいろいろなことを一生懸命説明してくれているのだろうけれども、その言葉がまるでちんぷんかんぷんなのだ。


 少なくとも陸たちが知るどの言語でも、通じることはなかった。


 ――彼らが善人だとか悪人とか、そういう話ではない。


 正体の知れない「外国人」というものが、この日本において問題のない存在であるわけがないのだから。


 現状で把握はあくできているのは、二人の関係が母子おやこであることぐらいである。


「お母さーん、洗い物終わったよー」


 理世がれた手をスカートの横でごしごししながら、やってきた。

 その後ろから、サンドラがにこにこしながらついてくる。


「理世もサンドラも、ありがとうね」

「うん!」

「あ、あり、がとう」

「サンドラ、そういう時は『どういたしまして』って言うんだよ!」


 サンドラの顔を見ながら、得意げに言う理世。


「どいたまし……て?」

「ど・お・い・た・し・ま・し・て」

「どおいたしいまあしいて?」

「そう!」


 理世がサンドラの両手を取り、嬉しそうにぶんぶんと振る。

 にこにことされるがままのサンドラ。


 そうしているあいだに、植物の水りを終えたリウスがリビングに戻ってきた。


「リウス、またお水あげてたの?」

「みず、にわ」


 と言って、理世の言葉に彼はうなずく。


 何となくだろうが、多少は意思疎通そつうが出来ているのを感じる。


 サンドラたちが回復してから、さくらたちはとにかく彼らとのコミュニケーションに時間をついやした。


 相変わらずどこの国の言葉なのか全く分からないままでも、お互いの名前や物の名称、あいさつ等、ジェスチャーをまじえながらなら大分だいぶ理解できるようになってきている。


「あーあ、早くお父さん帰ってこないかなー」


 理世の父親であるりくは、今日の午後から夏休みを取っている。


 そして彼が帰り次第しだい、五人で隣市りんしの大型ショッピングセンターに出掛ける予定なのだ。


 ――ベーヴェルス母子おやこには、危ないからと伝えて極力きょくりょく人目に触れないようにしている。


 それは決して嘘ではない。


 魔物が襲ってくるようなたぐいのものとはまた違った、「風評被害」という危険がひそんでいるのだ。


 隣りの市まで行けば、知人に会うこともなかろう――そう考えての計画である。


 ――とは言え、庭の植物に水りをするサンドラやリウスの姿は、すでに近所の住人に見られてしまっている。


 サンドラたちも、にこやかに手を振ったりしているので、仕方なく「日本に遊びに来ている遠い親戚しんせき母子おやこ」と説明することにしたのだ。


「お父さんが帰るまでまだ時間があるから、いつもみたいに言葉の勉強、しましょうか」


 ――そう言って、さくらは理世とサンドラたちを、リビングのソファに招き寄せるのだった。

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